122: 弥次郎 :2021/02/27(土) 21:41:24 HOST:p1537109-ipngn14201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
日本大陸SS 漆黒アメリカルート 「戦時交錯エトセトラ」Case.2 電撃的突破、あるいはレギュレーション違反




 欧州大戦、あるいは第一次世界大戦においてドイツ軍が採用した「電撃戦(ブリッツ・クリーク)」は各国の度肝を抜いていた。
 眠れる獅子の終焉を告げることになった日清戦争、世界で最も凄惨な戦いと称された日露戦争の戦訓を覆したからだ。
 快速の機甲部隊により、敵陣を迂回・包囲・分断・殲滅するという、まさに電撃的な戦い方。

 しかして、史実と異なりこれは何と北米、アメリカ合衆国において生まれることと相成った。
 しかも、主流、というわけではなく、当時のアメリカ合衆国陸軍においては異端ともいえる派閥だったことを知る人間は当時は少なかった。
 当時のアメリカ合衆国陸軍のドクトリンに関しては、言うまでもなく当時の流行に、備品による物量構成というモノで固まっていた。
これはシヴィル・ウォーにおける勝利のほかにも、各国が模索していた「塹壕戦における消耗合戦をいかに打破するか」という命題に対する回答の一つであった。
詰まる所、塹壕を幾重に張り巡らせようとも、弱点というモノは存在し、そこに物量を叩きつけることで強引にこじ開ける、というわけである。
 とはいえ、これはあくまでも米合陸軍の主流の、一般的な回答だ。米合陸軍において非主流派は備品の消耗を抑えるべきという意見もあった。
確かに備品というのは米合が持ちうるカードであり、シヴィル・ウォー以来の伝統的な戦術と言っても過言ではない。

 しかし、備品は単純な行動はともかくとして、有機的な、あるいはその場に合わせた行動がとりにくい。そして、消耗するものだ。
備品に依存しない戦争のドクトリンの構築を研究していた派閥が生み出したのが、史実の電撃戦、というわけである。
ずばり、大火力と装甲戦力を有する日英に対し、如何に「人間」で「備品」依存せずに勝利するかというコンセプトで研究を進めたのだ。
有機的に判断し、複雑な判断や行動を行える「人間」を惜しみなく動員することにより、質の高いパフォーマンスを発揮するというモノだった。
 ついでに言えば、この電撃戦のドクトリンは「日英の火力戦に一々付き合う必要はなく、相手のウィークポイントをつけばよい」という考えに基づいてもいる。

 しかし、それがなぜ否定されたのか?そして、ドイツに売りに出されたのか?
 それは考案者たるマイケル・フィリップ大佐が異端の考えであり、折り合いが悪かったためだ。
良く言えばこれまでとは違う斬新な考え方、悪く言えば実証も何もない不確かな妄想。
未だに、というか後々にあるWWWにおいても、米合はその考えが根強く残っていたのだ。
殊更に、米合という国家は対外紛争はともかくとして対外戦争を経験していないも同然であったことも、考え方の固着を招いてしまった。

 さらにもう一つの問題は、それを実証しようにもやることが難しいという、極めて実務的な問題であった。
 米合はその戦争経済の特性上、世界各地に戦争・紛争の輸出を行っている。だが、正確には武器やその扱いを教えたり、メソッドを教えることが主体だ。
 だが、フィードバックを受け取るにしてもそんなに都合の良い戦争など起きてくれるはずもないのだ。
まして、日英を相手にそれを実行した場合のフィードバックなど、得ようと思っても得られない。

 総じて、完成する見込みが薄く、権威も弱く、そして不確かさばかりという状態で電撃戦は生まれ落ちたのだ。
 しかして、この売り込まれた不完成な、そして空想一歩手前のドクトリンは、しかしドイツにて花開いた。
 米合は売り込む相手を間違えなかったということであろうか、あるいは、戦争を求める君主であるヴィルヘルム二世を見出したというべきか。
あるいは、黄色人種の国である日本に対抗しうる可能性のあるドクトリンという宣伝文句につられたのか。
ともあれ、米合の思惑通り、ドイツはその未完成だった電撃戦とそれに伴う物品などを米合より購入。
米合以上の熱意と資金と人材を投入し、これの研鑽にあたった。

123: 弥次郎 :2021/02/27(土) 21:42:38 HOST:p1537109-ipngn14201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

 そして勃発した第一次世界大戦あるいは欧州大戦。
 ドイツ軍はその研鑽された電撃戦ドクトリンを見事に発揮したのであった。
 それは、開戦を号砲にした徒競走の如く、あるいはこれまでのように陣取りというよりも突破に重きを置いた進撃であった。
 塹壕戦という当時最先端であった手法を見事に突き破ったのであった。開戦直後の油断というのもあったのだろう。
あるいは、最前線ならばともかく比較的後方であるならば、早々に戦火に巻き込まれることはないと楽観視していたのかもしれない。

 しかして、結果とは現実においてはすべてに優先されてしまうものだ。
 東部方面、対ロシア戦線は日露戦争において無視しがたいダメージを受けて修復中だったロシア陸軍を蹂躙、瞬く間に打通。
戦略目標として定められていたいくつかのラインを打ち破り、拠点制圧を成すことに成功していた。
すなわち、史実バルト三国のほぼ全域、ウクライナのキエフ、史実ベラルーシの過半という、対ロシア戦における重要地点を抑えたのである。
 それだけではない。その過程においてドイツ帝国陸軍は動員体制にあったロシア帝国陸軍を何度かの会戦において野戦撃滅に成功。
ここには、前述の通り動員されはしたが日露戦争の打撃がいまだに尾を引いていて弱体化していたロシア帝国陸軍の状態も絡んでいたが、そういった幸運も合わさっていた。
しかし、電撃的な進撃も冬という季節の到来、そして当初想定されていた以上の進撃を成したがゆえに兵站に追いつかなくなったこともあり、一時停滞。
7月に始まった攻勢は3か月足らずで止めてしまうことを余儀なくされた。しかして、たった3か月という期間において成し遂げた戦果とは思えないものであった。
 対する西部方面、対フランス戦線もまた、迅速な展開・迂回・突破・包囲により西部の防衛線を容易く突破。
首都であるパリまで一気に貫通し、占拠してのけてしまうという大戦果を挙げることとなった。

 また、この電撃的な進撃はロシア帝国やフランスに対して、撤退戦の不徹底を引き起こすことにつながった。
故に、フランスにしろロシアにせよ、前線に配備していた潤沢な物資や武器弾薬などを大量にドイツ陸軍に鹵獲されるという憂き目にあったのである。
武器を相手から奪う、というのは古来よりある戦争の常であり、員外装備の確保という形で極めて役に立つのだ。
現地調達というのは一般に忌避されるものであるという印象であるが、かといって役に立たないというわけではないのだし。
 これらに大いに満足したドイツ帝国軍であったが、しかし、順調に行き過ぎたことの弊害で息切れが激しかった。
とはいえ、それ以上の戦果を挙げたことも確かであり、あとはじわじわと包囲を詰めていけば勝つことができるだろうという予測が立っていた。

 斯くして、その年が終わるころにはすでにドイツの勝利が近いのではないかというのが周辺国では漂い始めていた。
 しかし、ここから戦争は予想もし得ぬ事態へと展開する。
 一つは冬の間に何とか戦力を再編して泥沼の戦いを続けるロシア帝国領内において、革命の灯火がともったこと。
 そしてもう一つは、フランスのパリへの固執に始まる凄惨極まりない戦いが幕を開けたこと。
 そう、派手な戦果の陰で見えにくかったかもしれないが、戦争という女の顔をしていない怪物は、参戦国を地獄へと引きずり込もうと手薬煉を引いていたのだ。
 地獄の窯の蓋は開いたばかり。ここより先は修羅の世界。まだ世界は血に飢えているかのようであった。

124: 弥次郎 :2021/02/27(土) 21:43:25 HOST:p1537109-ipngn14201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
以上、wiki転載はご自由に。
ぱっとしないですが、米合でいかにして電撃戦が生まれ、ドイツに輸出されることになったかを簡単に。

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最終更新:2021年02月28日 22:01