219: トゥ!ヘァ! :2021/03/01(月) 19:25:57 HOST:FL1-122-133-198-190.kng.mesh.ad.jp
フランス分割世界線 オーストリアの憂鬱と復活


この世界では地中海の雄として君臨するオーストリア帝国。
WW1にてライバルであったイギリスやロシアに勝利した後の出来事。

同帝国は英露丁に勝ったため幾らか領土を手に入れていた。。
オーストリアは東部では元々幾らか取っていたウクライナ領を更に分捕り、現代で言うモルドバやオデッサ付近も手中に収め黒海に進出。
その後はロシア内戦における革命主義者のやり方に恐怖した残存ウクライナ領が自ら恭順する形で旧ウクライナ領のほぼ全てを手中に収めることに成功している。

南部ではイギリスが実質属国として扱っていたセルビア、ルーマニア、アルバニア、ブリガリア、ギリシャが改めて独立。
オーストリアはこれらへの影響力を強めた。

なおモンテネグロは戦前からオーストリア領となっており(英露がオスマンを叩いていたドサクサに奪った)、マケドニア地域はイギリスが上記の国々を独立させる傍らでアルバニア、セルビア、ブリガリア、ギリシャによって分割されている。
因みにコソボの殆どはイギリスの采配により殆どセルビア領として扱われている。
この点は史実同様コソボの人口の多くがアルバニア人のため、アルバニアからは不満に思われている。


また友邦ドイツはロシアが所有していた残りのポーランド領の全てとリトアニアを獲得。
その後のロシア内戦時代にはウクライナ同様革命主義者のやりざまを恐れたベラルーシが自らドイツに恭順した。


話を戻してWW1後のオーストリア事情。
オーストリアは戦争で勝利したものの、多大なる戦費により経済事情が大きく悪化していた。
戦場となった諸地域や負傷兵や戦死者の家族への補填なども大きな負担となっていた。

流石にここでオーストリアやドイツに潰れられると面倒だということで戦時中の友邦であるスペイン、オランダ、日本の三カ国が支援を行っていたが、それらの支援込みでも早々簡単に復興できるものではなかった。

戦後不況に喘ぐオーストリア、アメリカの置き土産である革命主義者たちの躍動、ロシアの内乱、怪しげな動きを見せるバルカン諸国などオーストリアの情勢は極めて不安定であった。

そんな中でも史実のような民族独立運動が大規模化していないのは、この世界では民族主義が今一流行らなかった以外にも理由があった。

それはオーストリア皇室への信頼である。史実以上の大国であり、何より国内の民族問題に常に気を回していたオーストリアは史実よりも民族融和が進んでいたと言ってもいい。
これはわかりやすい自国のアキレス腱をイギリスに狙われないようにする措置であった。

このため戦前よりオーストリア国土であるハンガリー、北イタリア、チェコスロバキア、クロアチア、スロベニア、ボスニアヘルツェゴビナ、戦前から組み込まれていた一部ルーマニアや一部ウクライナなどの地域はおおむねオーストリア国民という意識の下で固まっており、史実よりも強く安定していたのが大きい。

またこの度の戦後不況においても経済不況と戦後復興に苦しむバルカン地域や旧ロシア地域を中心に当時民衆から人気のあったフランツ・フェルディナント皇子夫婦が老齢ながらも幾度も慰問に訪れていた。

かの夫婦は史実と同じく奥方とは貴賎結婚であったが、身分違いの恋というわかりやすい題材は民衆の人気を集めていた。
ここら辺は大体史実と同じであり、生まれてきた子供は皇位継承権を持たない扱いであり、父親であり当時のオーストリア皇帝であったフランツ・ヨーゼフ一世から実質勘当されていたが、親交のあった日本皇族の力添えもあり、後に父親とは和解している。
しかしそれでも負い目が強かったのかヨーゼフ一世が死した後は己自身も皇位継承権を放棄しており、史実と同じカール一世が継いでいる

またフランツ・フェルディナント皇子はかねてよりオーストリア内の民族融和を掲げており、継承権を捨てる前の皇太子時代から度々オーストリア領内各地を回っては、各民族との交流を行い、国内の融和を説き続けた。

同時に彼は皇太子時代に史実と同じく世界一周を敢行。
スペインやオランダ、日本といった国々を訪れては、それぞれの国でどのような融和政策が行われているかを学んでいる。

220: トゥ!ヘァ! :2021/03/01(月) 19:26:28 HOST:FL1-122-133-198-190.kng.mesh.ad.jp
余談であるが彼は史実からしても結構な親日家であった。
この世界でも同じように親日家であり、日本に訪れた際に案内を買って出てくれた当時のとある日本皇族と友人となり、その関係は現在でも続いているほどである。

話を戻してフェルデナント皇子夫婦。
(実際のところこの頃にはどこか適当な領地や爵位を継いでいそうだが、筆者にその手の知識がないので皇子夫婦で通す)

WW1後の国難の時代を国民と共に歩み、厳しい情勢ながらもオーストリアが一つの国としてまとまり続けたのはかの夫婦が常に国民へ歩み寄っていたからと言える。

フェルデナント夫婦は民族融和省(オーストリア帝国内の民族問題専門の部署)の若きエースであるヨシップ・ブロズ・チトー氏(後の民族融和省長官)共にオーストリア領各地を訪問。
WW1以後の1930年代。既に60を過ぎてもなお国のために尽くし続くけた。

こうしてフェルデナント皇子夫婦と献身と仲裁者の異名を持つようになったチトーの手腕は帝国が復活するのに必要な時間を確実に稼いだ。

戦後復興省(戦後復興を専門とする組織)で辣腕を振るっていたベニート・ムッソリーニ氏は彼らの活躍がなければ帝国は革命主義者やアメリカの侵食により崩壊していたかもしれないと戦後の取材に答えている。

そして1930年代。どうにかこうにか戦前と同レベル以上の復活を遂げたオーストリア帝国。

同時期にはドイツも同様の復興を遂げており、更に本土の被害が少なかったポルトガルも大きな発展を遂げていた。
戦前は交流の少なかった日西蘭との交流も増えており、順風満帆と言っていい帝国ライフを送っている。

そんなオーストリアの目下の悩みは敵対的なバルカン半島諸国とロシア内戦を勝ち抜き史実のように建国されたソビエト連邦。
そして未だ帝国を悩ます革命主義者たちである。


イギリスの支配から解放されたバルカン諸国は新たにアメリカの支援が入るようになった。
戦時中の英露の傍若無人な支配の記憶新しいバルカン諸国はオーストリアを新たな主として仰ぐつもりはなく、独立独歩の国家運営を望んでいたのである。

それに手助けを行ったのがアメリカであった。
かの国は戦時中から英露支配下のバルカン諸国へと接触しており、様々な支援を行っている。
同時に革命主義や世界宗教の野望を持ちだしたユダヤ教の輸出も行っており、戦後はそれらの浸透が強い地域となってしまったのだ。

悲劇的なのがオーストリア自身は戦後復興と新たに手に入れたウクライナなどの東方領域の復興や開発に忙殺されており、バルカン諸国を左程縛る気が存在しなかったことである。
オーストリアは最低限の影響力さえ残せれば彼らの独立と独自運営を認める気でいた。
しかし歴史的に近隣の大国を信用できなかったバルカン諸国はオーストリアよりもアメリカの手を選ぶこととなる。

こうしてアメリカの支援の下でバルカン諸国は新たな道を歩んでいくこととなる。

アメリカや世界ユダヤ協会の仲介でバルカンと和解。ロシアを打倒した国としてソビエトとも積極的に交流。
同時にセルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャの四か国でバルカン同盟を設立。
近隣のソ連やオスマンからの支援を受けながらもオーストリアとの対決姿勢を露わにしていった。
なおアルバニアはコソボ地域をセルビアに取られ続けている関係上、これらの流れに乗らず、独自にオーストリアへと接近していった。

オーストリアは半ば困惑しながら、バルカン半島から流入してくる革命主義者に辟易としているのも事実であり、戦後復興と合わせてバルカン同盟への警戒度を年々上げていった。


そんな中で事件が起きる。
時は1939年。オーストリア領ボスニア・ヘルツェゴビナ地域のサラエボ。
既に75歳という老境になるも変わらず国内の民族問題を解決するために帝国領内で慰問を続けるフェルディナント夫婦にそれは訪れた。

221: トゥ!ヘァ! :2021/03/01(月) 19:27:18 HOST:FL1-122-133-198-190.kng.mesh.ad.jp
サラエボの孤児院に訪れていた夫婦に突如革命主義者のセルビア人青年が発砲。
咄嗟に子供を庇った夫婦は凶弾に倒れ、帰らぬ人となった。
俗にいうサラエボ事件の発生である。

オーストリア国民に絶大な人気を誇った老夫婦の突如の凶報はオーストリア全土、そして世界を驚愕させた。


この革命主義者のセルビア人青年。特にどこかの国の支援を受けていたわけではなく、本当に偶然孤児院にいるフェルデナント夫婦を見つけたために持っていた銃で発砲したということが後の調査でわかっている。

これに対しては流石のアメリカやソ連、オスマン、更にはシオニスト組織すらも予想外であり、大きな波紋を呼んだ。
末端が暴走して偶然オーストリアの皇子夫婦を殺したのだ。

彼等の計画では戦争開始は41年遅くても42年からの予定であり、それが大幅に前倒しされる羽目となったのである。


このことに最も大きな衝撃を受けたのがオーストリア本国である。
ここでのフェルデナント皇子夫婦は先も述べた通りオーストリア国民から大きな人気があった。

そんな夫婦が死んだのだ。
当時フェルデナント夫婦と親交のあった日本皇族(父皇との和解に尽力した御仁)の一人は夫婦の凶報を知り「何かの間違いでは」と酷く驚愕したという。
共にオーストリア国内を練り歩き、帝国の安定化に努めたチトー氏はこの報を聞いた際には膝から崩れ落ちたという。

そしてオーストリア国民は勿論沸騰した。セルビアに報復を!革命主義者に鉄槌を!
そういった声が日に日に強くなっていった。

更に問題をややこしくしたのが当の青年の母国であるセルビアなどのバルカン諸国及び革命主義者達の反応である。
元々アメリカの支援の下で対オーストリア姿勢を明確にしていたセルビアはかの青年を擁護。
それどころか悪しき帝国主義者に正義の弾丸を喰らわせた英雄であると宣伝しだしたのだ。
セルビアと同盟を組むバルカン諸国もこれに賛同。
更には世界各国の末端の革命主義者やそのシンパたちも挙ってセルビア人青年を英雄視する声で溢れた。

過熱化するバルカン半島地域では遂にオーストリア側が動員を開始。それに対抗するようにセルビアを始めとするバルカン同盟諸国も動員を開始。

その数か月後に両勢力は衝突する。こうして始まった戦いが後に言う第二次世界大戦であった。

222: トゥ!ヘァ! :2021/03/01(月) 19:27:48 HOST:FL1-122-133-198-190.kng.mesh.ad.jp
〇説明色々

  • オーストリア帝国
この世界では堂々たる大国。

WW1後はロシア内戦のごたごたもあって今で言うところのウクライナをほぼほぼ丸々手に入れている。
このため国会の半分はオーストリアの手にすることとなった。

しかしこの世界では珍しくナショナリズム思想という名の民族独立運動が盛んであったバルカン半島方面ではイギリスの嫌がらせにもあい中々進めずにいた。

結局のところ史実で言うところのモンテネグロ地域を手に入れられた以外は左程史実と変らず。
イギリスを打倒したWW1後でも戦時中に手を打っていたアメリカの侵食もあり、殆どのバルカン諸国からは距離を置かれてしまった。
精々セルビアに不満を持つアルバニアがオーストリア側に来たくらいである。
オーストリアはバルカン諸国を大きく縛る気もなかったのに…解せぬ。


戦後は経済の低迷や戦後復興、更には各地から流入してくる革命主義者に頭を悩ませながらも、融和主義者であるフランツ・フェルディナント皇子夫婦やこの世界ではオーストリア帝国民族融和省で働くチトーの活躍、戦後復興省で辣腕を振るうムッソリーニ、こっそり政界で大きな躍進を遂げたヒトラーによるプロパガンダなども合わせ、再び安定化することに成功した。

しかし1939年に慰問に出ていたフェルディナント夫婦がセルビアの孤児院にて革命主義者のセルビア人青年の手により暗殺されるサラエボ事件が発生。

激昂する国民の声の下、かの青年を英雄視するバルカン同盟との決定的な決裂を持ってオーストリアは宣戦布告。
ここにサラエボ事件から始まる第二次世界大戦が開幕した。




  • フランツ・フェルディナント
史実におけるフランツ・フェルディナント皇太子その人。

ここではWW1ではサラエボ事件が起きていないため普通に生き残っている。

史実と同じ経緯で父親とは実質疎遠になっていたが、世界漫遊時代に仲良くなったとある日本皇族の口添えもあって、父親とは死ぬ前に和解に成功している。
とは言えハプスブルグ家の決まりで子供には継承権を継がせられないのは変わっていないため、けじめとして父親が死んだ際に自分も継承権を放棄。

その後は史実と同じく弟の息子であるカール一世が帝位を継いだ。

ここでは民族融和主義者であり、皇太子時代から帝国国内の民族問題を解決するために駆けずり回っていた。
継承権放棄後もそれは変わらず、新たに得た相棒のチトーを引き連れて各地で起こる問題を解決し続けた。
このため身分違いの結婚と合わせて国民からは絶大な人気を誇っている。

しかしながら1939年のサラエボにて孤児院を慰問中に革命主義者のセルビア人青年によって奥方共に暗殺される。
俗にいうサラエボ事件であり、これをきっかけにオーストリア帝国とバルカン同盟が激突。
第二次世界大戦がはじまった。

彼等の死には彼のことを尊敬していたカール一世や共に戦後オーストリアの安定に尽力した右腕のチトー、父親との和解に尽力した友人の日本皇族など多くの人々が驚愕し、涙を流したという。

史実でもそこそこの親日家であったが、ここではとある日本皇族と仲良くなったこともあり史実以上の親日家でもある。
このため彼の死は日本でも大きく取り上げられ、日本国民の涙を誘った。

彼は存命中にオーストリア連邦論という論説を解いており、将来的にオーストリア皇族が繋ぐ形の新しい国家体制を模索していた。

これは後にオーストリア皇族を中核とした立憲君主国家オーストリア連邦の設立に繋がることとなる。

223: トゥ!ヘァ! :2021/03/01(月) 19:28:21 HOST:FL1-122-133-198-190.kng.mesh.ad.jp
  • ヨシップ・ブロズ・チトー
史実ではユーゴスラビアをまとま上げた傑物。
ここではオーストリア帝国民族融和省に努める人物である。

オーストリア帝国民族融和省とは文字通り国内の諸民族問題解決に努める部署である。
名前はそれっぽいが、言ってしまえば国内の諸派閥のバランスを取るための仲裁組織と言える。

この世界はチトーはここに務め、史実張りの活躍を見せる。

彼は若い身ながらも国内問題をのために東奔西走するフェルディナント皇子に付き従い、各地を慰問。
その辣腕を活かしながら各民族の仲介に努め問題を解決。仲介者の異名を持つようになる。

「民族問題は会議室で起こっているんじゃない。現場で起こっているんだ!」と言って憚らない彼は後に民族融和省の長官に抜擢されるが、度々現場に出ては東はウクライナ、南はアフリカまでを練り歩き、現場の人々の声を拾い続けたそうな。




  • ベニート・ムッソリーニ
我らがドゥーチェ!ここでは北イタリアがオーストリア領なのでオーストリア人である。

彼はこの世界でも内政に関しては辣腕を発揮しており、戦後復興省という組織で活躍している。
戦後復興省とはWW1に設立された新しい組織で、文字通り戦後復興のために働く組織である。

彼は史実でもそうだったように内政に関して辣腕を発揮。
色々利権でぶつかりそうな各部署との交渉から、現場の問題も直に出張って確認。
見事オーストリアの戦後復興を成し遂げることとなる。

その後はオーストリア内務省に勤務し、トップである長官職まで上り詰めることとなる。

ヒトラー、チトー、ムッソリーニの三人はオーストリア三傑と呼ばれ、この時期に彼等がいなければオーストリアの今の繁栄はなかったと言われる。




  • アドルフ・ヒトラー
オーストリア帝国宰相アドルフ・ヒトラーである!!

まあここでの宰相とはオーストリア帝国議会における総責任者。つまり日本で言う内閣総理大臣みたいな立場のこと。

史実と同じように美大を目指しては落ちた彼は何の因果か演説の上手さを見込まれて政治家となった。
史実よりも民族融和を進めた結果か比較的開明的なオーストリアは身分に関わらず優秀な人材を取り上げており、彼もその一人としてとんとん拍子で出世。
若い身ながらも国民の信任を持つ身となり、更には宰相まで上り詰めることとなった。


フェルディナント皇子がセルビア人青年に殺され、バルカン同盟との戦争になった際には「諸君らの愛した皇子は死んだ!なぜだ!」から始まる演説で大いに国民の士気を盛り上げた。
盛り上げすぎてちょっとやりすぎたと後々反省するくらいには。
彼も国のために駆けずり回った皇族を尊敬していた一人であったため、ここまで暴走し他と言える。

WW2後は戦争中のオーストリアを導いた大宰相として歴史に名を遺すこととなる。






  • サラエボ事件
ボスニア・ヘルツェゴビナ地域のサラエボを慰問中であったフランツ・フェルディナント皇子夫妻を革命主義者のセルビア人青年が暗殺した事件。

当時オーストリア警察当局は革命主義者の動きに注意を払っており、幾つもの偽情報を流し、夫妻の慰問先を悟られないようにしていた。

案の定現地の革命主義者たちは警察の偽情報に踊らされてフェルディナント夫妻を補足することに失敗している。

しかし偶然ながらその辺をぶらついていた革命主義者の青年が孤児院へ入っていくフェルディナント夫妻を目撃。
孤児院の入り口付近で子供たちの歓迎を受ける夫妻を後ろから突然発砲。
この際夫妻を守っていた護衛も咄嗟に動こうとしたが夫妻自身が子供を庇うために身を乗り出してしまった故に守り切れなかったというのが真相であった。

その後青年は護衛達により取り押さえられ、怒り狂うオーストリア国民の後押しもあり一月後に銃殺刑となった。

しかしセルビアを始めとするバルカン半島諸国は青年の行動を賞賛。
更には世界各地の革命主義者も同じように賞賛し、青年を殉教者として扱い、アメリカ陣営とオーストリアとの亀裂を深めていくこととなる。


なお青年の行動は当のアメリカ上層部やソ連上層部、更にはシオニスト上層部には想定外のことであり、彼らの計画では40年以降に戦争開始だったのが大幅に前出しされることになる。

224: トゥ!ヘァ! :2021/03/01(月) 19:28:56 HOST:FL1-122-133-198-190.kng.mesh.ad.jp
  • 世界ユダヤ協会
米国の過激派シオニストたちが立ち上げたユダヤ人の相互互助組織。

その実態は世界各地の支部を隠れ蓑にシオニストや革命主義者を支援している秘密結社染みた組織。

単純なユダヤ人や革命主義者への支援の他にもオスマン領内にあるエルサレムへの巡礼に使う自前の船団や、それを護衛するための私設武装組織も保有している。

この私設武装組織は協会親衛隊と呼ばれており、同胞たるユダヤ人やユダヤ教徒を守るためなら世界のどこにでも駆けつけるをモットーとしている。

近年は歩兵部隊のみならず、自前の機甲部隊や航空部隊も保有しており巡礼のための輸送船弾も武装化が進んでいるなど、独自の巨大武装組織となってきている。




  • バルカン同盟
セルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャが手を組み発足された軍事同盟。
WW1後にアメリカの支援の下で結成された。

主に対オーストリアを想定とした軍事同盟であり、アメリカ以外にも和解したオスマンやソ連など近隣諸国から支援が行われている。

なおアルバニアのみはセルビアとの領土問題を理由に参加しておらず、独自にオーストリアやスペイン勢である両シチリア王国などに近づいている。




  • オーストリア領ウクライナ
WW1後にロシアから賠償としてモルドバ地域やオデッサ付近の黒海に面する地域を分捕ったオーストリア。
更にロシア内戦が始まると傍若無人に暴れる革命主義者を恐れた残りのウクライナ地域の人々が挙ってオーストリアに恭順。

結果ウクライナのほぼ全てを手に入れた結果生まれたのがオーストリア領ウクライナである。
WWⅠとロシア内戦のダメージから戦後復興が最も遅れた地域であったが黒海地域の造船業へのテコ入れと合わせて特に復興へ力を入れられた地域でもある。

これは近年オーストリア領に加えられた地域であることから、地元住民への慰撫が最重要視された結果である。

結果的に黒海沿岸では漁業や造船業で栄え、内陸部は持ち前の農業力と水運業で栄えることとなり1930年代には見事復興を果たすこととなる。

ムッソリーニ戦後復興省長官は「最も苦労した土地であり、我々復興省にとっては輝かしいトロフィーであった」とコメントしている。

なお造船業に特に力を入れられたのは黒海地域が海軍及び海運的に孤立していたためである。
黒海は出入り口をギリシャ、オスマンに塞がれているため、地中海のオーストリア艦隊と合流ができないのだ。
このため独自に戦力を増強するほかなく、そのために黒海周辺の造船業の復興と開発は最重視されたのである。




  • アルバニア
オスマンをボコった英露によりWW1前に独立させられたバルカン諸国の一つ。

WW1後は他のバルカン諸国同様改めて独立している。
しかしコソボ地域などのアルバニア人が多く居住している地域をセルビアに取られており、そのことに不満を持っている。

また国内にムスリムが多く、バルカン地域で猛威を振るうユダヤ教徒の圧力に困り果てている。
同じムスリムであるはずのオスマンに助けを求めてもなしのつぶてであった。

そこでアルバニアは他のバルカン諸国とは別の道を模索。
領地をオーストリアやアドリア海を介して交流のあるスペイン勢の両シチリア王国などとの関係を構築していった。

このため他のバルカン諸国からは裏切者と扱われている。

225: トゥ!ヘァ! :2021/03/01(月) 19:29:38 HOST:FL1-122-133-198-190.kng.mesh.ad.jp
投下終了

サラエボ事件(1939年)から始まる第二次世界大戦!

なお計画にはないことだったのでアメリカやシオニストたちも慌てている模様。

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最終更新:2021年03月05日 19:18