769: ham ◆sneo5SWWRw :2021/03/27(土) 22:50:38 HOST:sp49-98-157-198.msd.spmode.ne.jp
野村直邦。
史実では遣独潜水艦作戦でドイツから帰還時に鹿児島弁を使用することで連合国軍からの追撃を防いだことで知られる人物である。
しかし、この世界では転生により、その生涯は大きく変わることとなる。
戦後夢幻会ネタ ham世界線 野村直邦という男 前編
彼が転生したのは松島の海軍兵学校35期生33名が犠牲になった爆沈事故であった。
この事故の時、野村は偶然にも大山巌の長男、大山高を助けた。
大山が生存したこと、さらに転生者として暗躍していくことで、野村は史実から外れたルートを進んで行くことになる。
練習航海を終えた野村は史実通り水雷畑を進み、途中で潜水畑に転向。
潜水艦について研究する傍ら、航空機や空母にも造詣を深めた。
史実通りの昇進と異動を進んできた彼は1933年に事を起こす。
この年、野村は2月から「加賀」の艦長を務めていた。
史実で「加賀」は10月20日から一段式空母に改装することが決まっている。
その改装計画に際し、ある提案をした。
斜行甲板。
後世、アングルドデッキと呼ばれるものである。
空母というのは、いつの時代も着艦が困難である。
そのような中でやり直しができることは大きな利点であった。
発着艦同時は不可能だろうが、着艦をやり直しができれば、着艦に失敗して制動索に当たる心配も無くなる。
「加賀」は当時の日本海軍でも最大の空母であるため、飛行甲板には充分導入できる余地はあった。
しかし、当時の第一航空戦隊司令官の及川古志郎少将は、学者肌で長い物には巻かれて流されやすく、野村の考えに理解を示さなかった。
そこで野村は、10月に新しく一航戦司令官となった山本五十六少将に斜行甲板のアイデアを話した。
及川と違い、新しいものに飛びつきやすく、自身も着艦失敗した機に飛びついて止めようとしたエピソードもある山本は、野村の考えに大いに興味を示した。
山本の賛同を得た野村は、山本と共に艦政本部長の杉政人中将や総務部長の豊田貞次郎少将に話を通した。
杉も豊田も「ドック入りが今月に迫っている」として難色を示したが、野村は「加賀の幅ならば、線を引き方次第で充分可能である」と反論。
それでも「前例が無い」と豊田が反対するが、
「加賀では世界でも例のない煙突を導入すると聞くし、赤城では艦橋にも同じく世界に前例のないものを取り入れるとか。ならば前例のない甲板を導入しても問題はないのではありませんか?」
という野村の一言に負けて、提案を認めることとなった。
770: ham ◆sneo5SWWRw :2021/03/27(土) 22:51:09 HOST:sp49-98-157-198.msd.spmode.ne.jp
1933年10月20日、「加賀」が佐世保工廠にドック入りしたその日、野村は史実通り呉の潜水艦学校校長に就任。
校長職をしながら時に佐世保に出向いてアングルドデッキ実現のため、技官と図面の協議を行った。
野村によって修正された「加賀」は、アングルドデッキを避けるために中央エレベーターのちょうど左舷側にある2つの機銃座を艦首側に移設され、滑走制止索が撤去される程度で済んだ。
このため、改装期間は予定通りで進められることとなった。
一方で野村は本来の潜水艦学校校長としても大きく活躍する。
野村は、ソナーにロッシェル塩を導入することを提唱した。
史実でロッシェル塩が導入されたのは1944年以降だった。
これは、ロッシェル塩が理論上高温に弱いとされていたため、高温多湿の日本では使えないだろうという憶測からほとんど研究されていなかったからだ。
史実ではドイツが使っていると知ってもなお、寒冷な高緯度海域で使用するからと無視されたが、温暖な地中海でも使用しているの知り、慌てて開発に取り組んだのが顛末だった。
そこで野村は、実際に使えるのか実験していないことを強く指摘し、運用実験を行い、見事運用できること実証した。
また、ソナーを改良した結果、対潜訓練で伊号潜の機関音の煩さがより鮮明となり、問題視されるようになった。
野村は問題視された頃合いで防振ゴムを提唱して、34年に建造が開始される伊8号への導入され、有効性が実証され、日本潜水艦の静粛性に貢献した。
同時に佐世保工廠の技師をしていた史実転生者の友永英夫と合流し、史実の彼の発明である自動懸吊装置、重油漏洩防止装置、タンク式トイレ等画期的な技術も導入し、伊8号は従来の日本潜水艦と一線を画す艦となった。
航空装備も後部から射出する形式を前部からの射出する形式に改めるなどし、野村曰く「スーパーはっちゃん」と称される出来栄えになった。
なお、それに喜んで舞を踊ったと言われるが、真実は不明である。
ともあれ、これらの活躍から、野村は、空母と潜水艦の専門家として注目されるようになる。
これらの活躍が夢幻会の目に留まり、夢幻会と合流するのはまた別の話である。
だが、野村が取り組んだ新技術で校長職の間に実を結ばなかったものも有った。
一つはシュノーケル。当初は漸減作戦を根拠に、来寇する米艦隊からの被発見率低下を目的として提唱したが、
日本海軍では明治に『佐久間勉中佐の遺書』で世界的に知られる第六潜水艇の事故の原因がシュノーケルにあったことから、反対意見が多く、採用されなかった。
これが採用されるのは、三国同盟締結後にオランダ海軍の潜水艇に使われているという情報が伝わり、開戦後にオランダ潜水艦『Oー20』を鹵獲するまで待つ必要があった。
もう一つ実を結ばなかったのが、トーペックス。
野村は空気中と水中での爆発の威力が違うことから、組成が近い九四式爆薬を土台に開発に取り組んだ。
本来、魚雷関係の開発は水雷学校の領分であるため、水雷学校長に就任していた大山高と協力して取り組んでいたのだが、
九四式爆薬が衝撃過敏が原因による誤爆事故を度々起こしたため、組成が近いトーペックスも誤爆の危険があるとして研究が下火となってしまった。
その後、九四式爆薬のトリメチレントリニトロアミンをヘキサニトロジフェニルアミンに替えた衝撃に強い九七式爆薬が登場し、トーペックスはますます日陰に追いやられることとなる。
後に水雷学校校長に就任する転生者の細萱戊子郎や小沢治三郎らが研究を引き継いで、なんとか零式爆薬として完成させるが、現場では九七式爆薬がほとんどを占め、転生者たちが指揮する艦や戦隊で採用される程度でしかなかった。
各種新技術開発、「加賀」改装で濃密な1年を過ごした野村は34年11月15日に第2潜水戦隊司令官に就任。
自らが校長時代に取り組んだ新技術をふんだんに導入した伊8号を始めとする潜水艦の実地運用や更なる改良に勤しんだ。
翌35年11月15日、史実では連合艦隊参謀長に就任していた野村だが、この世界では大山高がその職に就き、当の野村は第2航空戦隊司令官に就任し、改装工事を終えた「加賀」を指揮することとなった。
自らが改装の関わった「加賀」で斜行甲板を実地運用を行っている最中、37年に第2次上海事変が発生。野村は初陣を飾ることとなる。
771: ham ◆sneo5SWWRw :2021/03/27(土) 22:52:48 HOST:sp49-98-157-198.msd.spmode.ne.jp
第二次上海事変において野村は、8月15日の空襲の史実改変を行った。
この空襲では、当時戦闘機無用論が叫ばれていたため、戦闘機の護衛無しに出撃して大損害を受けた。
このため野村は、戦闘機の護衛を主張していた柴田武雄戦闘機隊長を擁護し、護衛機の出撃を指示した。
だが、岩井庸男艦攻隊長は部下と共に「万一の場合でも旋回銃で大丈夫、戦闘機は足手まとい」と強固に主張。
そこで野村は仲裁案として艦爆隊には護衛機を付け、反対する艦攻隊には護衛機を付けないこととした。
後世の視点からすれば非情であるが、これで痛い目に合うことで戦闘機無用論を見直すための教訓としなければならないと判断し、決定した。
結果として、護衛機の無い艦攻隊は散々だった。九六式艦攻は密雲のため攻撃できずに引き返し、八九式艦攻は戦闘機隊に突っ込んで8機も失い、なんら戦果を挙げられなかった。
一方で、護衛機を付けた艦爆隊は、史実と違って九〇式艦戦を九六式艦戦に早期に更新し、それを護衛に付けていたことで、迎撃に出たA-12を撃墜し、充分な戦果を挙げられた。
護衛機を付けた艦爆隊と護衛機の無い艦攻隊の明らかな差を受け、海軍全体で戦闘機無用論が大きく見直されることとなった。
野村は二航戦司令官を務めた後、情報を扱う軍令部第3部長となり、職務の傍ら、戦備計画を担当する転生者の三川軍一第2部長と協力し、潜水艦の増産に努めた。
この当時、マル3計画で巡潜型が大幅に導入されていたが、建造に時間がかかる問題があった。
野村は潜水艦の増産と建造期間短縮を図り、機関を2号ディーゼルから1号ディーゼルに変更し、内殻板をDS鋼から軟鋼に変更した所謂伊40型(巡潜乙型改1)をベースにした改良型の導入を提唱。
元々、巡潜甲型・乙型・丙型は高出力の2号を導入することで性能向上を図ったために性能低下が懸念された。
しかし野村は艦政本部技術員の転生者と協力して作った図面を広げ、性能低下はそこまで深刻ではないと主張。
最終的に仁淀と巡潜乙型2隻と海大7型全艦の予算を投じて12隻の建造が認められ、乙型改と称された各艦は、丙型に続き偶数番号が付けられ、建造がスタートした。
結果として乙型改は、性能低下は水上最高速度が0.1ノット低下する程度で済み、むしろ2年以上かけていた建造期間が約半分になり、最初からこうすれば良かったとマル3計画関係者がガックリとうなだれることとなった。
こうして、空母、潜水艦で名を残してきた野村だが、さすがに予算会議での領分を超えた行動から、閑職同然の第3遣支艦隊に飛ばされ、さらに日独伊三国同盟締結のために欧州に出張させられる。
しかし、ドイツに着いた野村は、日本に残った夢幻会と協力し、日独連絡線のために遣独潜水艦作戦を繰り上げるためのドイツ側窓口として活動を開始する。
本土では浅間丸事件の記憶が新しく、日増しに悪化する中立を侵害した英国の臨検行為により、ドイツからの海上ルートが遮断される恐れがあることが懸念されるようになっていた。
シベリア鉄道による陸路では、ソ連の検問が厳しく、特に陸軍では、第一の仮想敵国に軍事物資を見られることに大きな抵抗があったため、この作戦に大きな関心が寄せられることとなった。
一方でドイツも、日本が保証占領した仏印で採れる天然ゴムやスズを中心とした鉱物資源が喉から手が出るほど欲しいため、野村からの打診に大きな関心を示した。
日本海軍では関心はそこまで高くなかったが、陸軍のプッシュとドイツからU-ボートの無償譲渡という条件提示もあり、派遣が決定された。
最初の派遣艦は史実の修正力なのか、乙型改になったことで建造が速まり、1年早く竣工した伊30号が選ばれ、海南島を経由し、41年春にロリアンに到着した。
ロリアンに到着した伊30号は、平時ということもあり、魚雷を発射管内の九五式酸素魚雷6本のみとして、
史実の零式水上偵察機と九一式航空魚雷の設計図、零式水上偵察機1機、シェラック660kg、雲母840kgに加えて、
提供用の89式空気魚雷と95式酸素魚雷を1本ずつ、天然ゴム、技術提供の代金としての金の延べ棒、
特殊潜航艇や九五式酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置、重油漏洩防止装置、タンク式トイレの図面に加え、友永英夫、巌谷英一両技官も同行しており、
史実でドイツに運ばれた5回分を補完するかの量の青写真と資源が贈られた。
772: ham ◆sneo5SWWRw :2021/03/27(土) 22:55:16 HOST:sp49-98-157-198.msd.spmode.ne.jp
これに対するドイツの返礼も相当であった。
開発されたばかりのウルツブルクD型レーダーとその青写真を始めとする史実伊30号の搭載物資に加え、
ヴァルターHWK RII-203エンジンとその青写真、ドイツ出張していた倉崎潤一郎、ロケット飛行機好きの転生者技師、
ドイツが鹵獲した英戦車を解体して作成した図面、フランス戦で鹵獲したマーリンエンジン、トーションバーサスペンションの資料、戦車技師の転生者等を乗せてロリアンを出港。
南仏印サンジャック港を経て、味方の機雷に触雷するという修正力は起きず、無事に開戦前に本土に帰還することに成功した。
773: ham ◆sneo5SWWRw :2021/03/27(土) 22:55:48 HOST:sp49-98-157-198.msd.spmode.ne.jp
この大成功により、遣独潜水艦作戦はより積極的に行われていくが、41年10月にハワイ作戦について検討している最中、山本五十六から或る閃きが出た。
「大西洋で潜水艦による通商破壊が出来ないだろうか?」
軍令部では荒唐無稽と言う者もいたが、検討に値する意見も有った。
というのも、バルチック艦隊のように、艦隊決戦で太平洋艦隊を失った米国が、大西洋艦隊の派遣する可能性があり得たからだ。
また山本としても、本土が戦場となる脅威に米国が過敏な反応を示していることから、潜水艦の本土襲撃を行うことで、講和への気運が高まることを期待しており、
加えて、米国のアキレス腱たるパナマ運河攻撃も行えるかもしれないという打算もあった。
しかも野村の尽力で、潜水艦の増産は急ピッチで進められており、派遣するには十分な数が揃っていた。
一方でドイツでは、度重なる英空軍の空襲に対応するため、Uボートブンカーの建設が進められていた。
既に40年にヘルゴランド島で作られたが、フランス沿岸での建設は41年4月頃になってからだった。
この建設の最中に入港した伊30号を見学したデーニッツ少将らは、建設中のブンカーに入りきらないのではという心配が生じた。
そこで今後日本潜水艦の寄港を考慮し、野村監修の下、史実で封鎖突破船の母港として機能したボルドーに日本潜水艦を複数隻収容できる規模の大型ブンカーを建設されていた。
このボルドーには地中海から派遣されたイタリア潜水艦部隊が母港とし、大西洋で通商破壊戦を繰り広げていた。
この活躍に、ドイツにおべっかな大島大使もイタリアに負けじと本土に派遣要請を出していた。
様々な思惑が重なった結果、11月に伊8号を旗艦とする第11潜水戦隊が密かに欧州に向けて出発。
後世、「大西洋のサムライ」「サムライ潜水戦隊」と称される彼らを率いて野村は戦っていくことになる。
42年1月。到着した彼らと共に野村の戦いは始まった。
以上です。
加賀の改造、対独支援、潜水艦強化等で理由付けから書きました。
加賀はCG絵とスペックを見ていた時、アングルドデッキができそうな広さだなと昔から思っていたので、実現しようと考えていました。
対独支援でのサムライ潜水戦隊は、遣独潜水艦作戦のために取り入れました。
というのも、独伊はベンガル湾での通商破壊がセイロン沖海戦の一度きりに終わったことに不満を表し、野村中将に机を叩いてまで派遣を要請しましたが、
ガ島戦で延期になり、
アメリカを戦争に引きずり込んでおいて同盟国の苦戦に協力しない利己主義を非難され、技術交流に悪影響を及ぼしたとあったので、大西洋で血を流す必要はあると考えた次第です。
で、加賀とサムライ戦隊を導入するにあたり、経歴等から、野村直邦ほど都合の良い人物は居ないことから、彼を転生者とすることにしました。
書いている途中で潜水艦学校の校長もしているので潜水艦の改良も出来るので、ますます都合が良いという結果になりましたが(笑)
なお、大山高は、野村が二航戦司令等になる都合で、史実の連合艦隊参謀長等の職で代わりに入る人物が居なさそうなので生存させました。
今回は以上です。
他にも書きたいことがあるし、GATEネタもぼちぼち続きを書き始めたので、遅くなりがちですが、今後もよろしくお願い致します。
次の戦後ネタは、マレー沖の続きを書きたいと思います。
魚雷の炸薬についても理由付けは書けたし。
最終更新:2021年03月31日 10:06