448: 影真似 :2021/04/03(土) 22:11:48 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
投下無し確認。
日仏世界がリアルタイムで見れた感動と、自分も参加したいと言う欲、フランス帝国を全世界線の中で最強のガチートフランスにしたいという思いから即興で仕上げました。
日本大陸 日仏ゲート世界 小ネタ 「フランス領土拡大の道筋―アフリカ・中東・南米編―」
ナポレオン戦争後のフランス帝国は更に精力的に領土や拡大現地の人々・文化とフランスの同化を行っていた。
最初に中東に目を向ければ、フランスは広大なフランス領アラビアを保持している。アフリカ領獲得による人材増加の中で、1859年から日仏両政府の支援の元フェルディナン・ド・レセップスによってスエズ運河が建設される際、紅海の支配権掌握のためにアラビア半島南端に進出を始めた。そうして南端から砂漠地帯が続く中央へと進めていくと、サウード王国とジャバル・シャンマル王国の停戦派がフランスに接触してきたのである。アラビア半島の領土をめぐって約100年も争ってきた両国の人々の一部は、終わらぬ戦争と国に愛想を尽かし、宗教や人種に関係なく融和的な統治を行うフランスの庇護を求めたのである。
夢幻会の今後の石油利権の確保という思惑もあり、1865年、アラビア半島への争いにフランス軍が介入し、反旗を翻した軍や民衆と共にあっさりとアラビア半島を収めるかに思えたが、これに反応したのは同じくアラビア半島を巡って争っていたエジプトとオスマン帝国であった。オスマン帝国は単にアラビア半島の支配者を目指していたからであったが、エジプトは一応スエズ運河でフランスと共同していたものの、自分がオスマン帝国の属国の一部に過ぎないことに対して、日仏が自分の目と鼻の先で勢力を拡大し反映していることに複雑な感情を募らせていった。
そこにアフリカでフランスに押されていたイギリスが目をつけ、オスマン帝国のお墨付きと身元を隠したイギリス商人たちの支援によって勢いを増したエジプトはフランスへの感情を拗らせ、1867年にオスマン帝国と共にフランス軍と衝突した、そして蹂躙されたのである。
結果的に、フランスを裏切ったエジプトが被害の過半数であったものの、その惨状に顔面蒼白と化したオスマン帝国は史実サウジアラビアから南以降のアラビア半島の支配を認め、エジプトはスエズ運河の利権と周辺領土を完全にフランスに明け渡すこととなり、結果的に史実よりも早い1870年にデフォルトした後イギリスの保護国となった。
(なお、この一件で出来たトラウマが、WW1においてオスマン帝国が即座にドイツ帝国に最終通告を出したとされ、エジプトに常に根強い反英感情を生んだきっかけとされる。)
449: 影真似 :2021/04/03(土) 22:13:14 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
次に、南米に目を向けると、広大なアラウカニア・パタゴニア大公国を見ることが出来る。
史実ならばわずか二年でその姿を消したアラウカニア・パタゴニア王国の建国者、オルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンはここでは立派なフランス開拓団のリーダーであった。
1855年と本来より五年早いものの、史実と同じように土着民族とされていたマプチェ族に共感した彼は、開拓団の目的とも合致することからマプチェ族をフランス帝国の一員とすると決意し、その後本国も彼の提言に乗っかり、1862年にフランス領アラウカニア・パタゴニア大公国が建国された。これに反発したチリ・アルゼンチン政府が侵攻してくるものはねのけ、1961年に統一されたばかりのアルゼンチンが反動で分裂したところに殴り込み逆に併合、チリも
アメリカで発生した1857年恐慌に追い打ちを受ける大敗北に国内が崩壊寸前になったところを併合された。更に、アルゼンチンとチリを一気に飲み込んだことに、パラグアイ、ウルグアイ、ブラジル帝国は1864年に三国同盟を締結。更に、1870年にボリビア、ペルーも加わり、五国同盟を締結し、中東でエジプトを獲得したイギリスもまた漁夫の利を得ようと懲りずに支援を開始したため、フランスが本腰を入れて現地の融和と戦力化に力を入れ続けた。そして1879年、五国同盟側の進行によって太平洋戦争が開幕した。
だが、イギリスが裏で支援していると知っていたフランスは日仏合同軍を結成。かつてのエジプト軍を上回る勢いで同盟軍を粉砕していき、1884年までに、ペルー、ボリビアが国内のインディオの一斉蜂起に加え、日仏軍の猛攻によって全土占領、パラグアイ、ウルグアイも同じく全土占領、ブラジルがアクレ州、アマゾナス州、アパマー州、マットグロッソ州、マットグロッソ・ド・スル州、パラー州、パラナ州、リオグランデ・ド・スル州、ロンドニア州、ロライマ州、サンタカタリーナ州、サンパウロ州が占領されるという散々な結果となった。
バルパライソ条約では占領地の併合が行われ、仏領ギアナもアラウカニア・パタゴニア大公国に合流することとなった。(その後、併合に拒否感を抱く人々はブラジルや他の中南米、アメリカへと渡り、アメリカもアラウカニア・パタゴニア大公国を警戒して周囲の中南米国家に経済的に浸透していくこととなる。)
450: 影真似 :2021/04/03(土) 22:14:24 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
最後に、フランスの最大勢力圏であり、最も力を入れているアフリカを見てみよう。
アフリカでは本来のベルギー領や、戦争後に駄賃代わりや財政破綻を繰り返したスペインへの支援の対価としてスペイン領(フィリピンも含まれる)も加え、夢幻会の入れ知恵で本来のイタリア・ドイツ領をも組み込み、更には19世紀までにイギリスに組み込まれるアフリカ地域や諸国を次々とイギリスとぶつかりながらも融和的に組み込んでいった。中でも激しく、19世紀の最大にして最後の戦争と言われた1899年の第二次ボーア戦争であり、1870年のズールー戦争で壊滅寸前のズールー王国に併合する条件で味方し、ボーア人を追い払った日仏が、トランスヴァール共和国・オレンジ自由国が日仏合同軍の派遣要請を了承し、介入を行ったというものであった。まさかかつての敵に味方するとは思わなかったことや、「太平洋戦争」から導き出した想定戦力以上だったことから、最終的に二国ともフランスへ帰属することとなった。(そしてこれ以降、日本とフランスはバランスブレイカーであり、手出し厳禁というのが暗黙のルールとなった)
こうして、第二次ボーア戦争後には、イギリスが保有するエジプト、西アフリカ、ケープランド(初期のまま)、ポルトガル領以外は全てフランス帝国領となり、アフリカは「フランスの裏庭」とまで呼ばれるようになったのである。
こうしたフランス帝国の血と努力の結晶は、後のAB風邪とスペイン風邪のダブルパンチで世界が復興に追われる中、日本との協力もあって広大な市場が作り出す経済活動は決して致命的になることはなく横ばいから徐々に徐々に上向きになっていき、愚かにも、神に与えられた明白なる使命という看板を掲げ、あろうことかAB風邪とスペイン風邪、そしてペストをそれぞれ掛け合わせた最低最悪のBC兵器によってフランスを陥れようとしたアメリカに対するフランスの返答がどうなったかは歴史が証明している。
451: 影真似 :2021/04/03(土) 22:15:02 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
以上です。フランス分割、夢幻世界を始め様々な世界線で堕ちていき、FFRが巻き返し何とか巻き返している中で、唯一覚醒した世界に轟くフランス帝国とはこういうことだと言うのを書いてみたかった。
最終更新:2021年04月04日 16:12