763: 影真似 :2021/04/10(土) 19:43:25 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
投稿無し確認。予告通り投下します。

日本大陸 日仏ゲート世界 小ネタ 「インドシナ・フランセーズの躍進」

インドシナ・フランセーズ。対外的にはインドシナ連邦として知られ、現在は領邦制で構成されるフランス帝国連邦の構成国家の一つであるが、かつては東南アジア地域の植民地及び保護国から成り立っており、歴史の一部を語るにはアウスタリ大公国建国前、つまり日仏が東南アジアに進出した1610年まで遡る。
日仏が共同して東南アジア及び南太平洋への進出を強めると、アユタヤ王朝に存在していたアユタヤ日本人町が大いに発展した。元々14世紀から夢幻会の海外進出の足掛かりとして、身寄りのない浪人や商機を狙う商人などを送り込んでいたが、アユタヤ側も日本人を貴重な傭兵として欲していたために、織田政権が日本を統一した後は武功を求めるものは、アユタヤに積極的に誘導された。しかし、史実と異なり本土でカトリックによる拝火教やマニ教による迫害があったことから、キリシタンの存在は皆無であった。そして1610年から日仏の進出後は後のアウスタリ大公国への中継地点として急激に発展し、1628年にはもはや町ではなく都市であり、東南アジア一かつ世界でも有数の経済都市となった。

764: 影真似 :2021/04/10(土) 19:44:28 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
大きな転機は、山田長政という一人の男であった。彼は史実と同じくアユタヤにて官位を貰い、国に尽くしていたがアユタヤ王朝25代目チェーターティラート親王が死亡し、弟のアーティッタヤウォン王が即位したが、幼すぎるため官史たちはシーウォーラウォンに王になるように願った。しかし、長政は彼がチェーターティラート親王を処刑したこと、以前から彼に官位を与えたソンタム王の兄弟を殺害する計画を立てたり、王弟シーシンの侍妾を誘惑して死刑宣告を受けたりしたこと、そして何より幼すぎる王が即位する原因となったシーウォーラウォンが王になる状況はあまりにも都合が良すぎるとして大反対。その後、アーティッタヤウォン王を廃位し、王となったシーウォーラウォンであるプラーサ―トトーン王は、史実よりも対日仏強硬派となっており、アユタヤ王朝の利益が日本人町に大きく奪われていると感じていた。そこで手始めに、1929年に長政を左遷しパタニ王国との戦闘のどさくさに紛れて毒入りの軟膏により暗殺しようとしたものの、織田政権後に造られた大陸日本版練武館で修業をしていたことや、史実を知る転生者のサポートによって暗殺は防がれた。暗殺されそうになったことを知った長政はその後アユタヤ王朝内で彼に同調していた親日仏勢力の内、手勢100人を従えて廃位されたアーティッタヤウォン王を救出した。これに怒り狂ったプラーサ―トトーン王は1630年に「謀反の動きあり」として日本町を焼き払い住民を虐殺しようとするも、事前に内部に通じた長政を通して知った(という史実情報の補足)日仏の逆鱗に触れ、1630年同年にはアユタヤ王朝は初めて結成された日仏連合軍によって制圧。その後領土の拡張はフランスに任せて自分たちはその手助けをしながら利益を貰えばいいという夢幻会の方針もあって、アーティッタヤウォン王を盟主とし、長政が補佐する半植民地国家のインドシナ・フランセーズが誕生した。その後、どさくさに紛れて侵攻してきたパタニ王国を粉砕すると、ベトナムの空白地帯を埋めるように東に進み、鄭阮紛争中で過剰に反応してきたベトナムの鄭氏や阮氏などの勢力に対して、ゲリラ戦術を学んだ日本軍が逆にゲリラ戦術で翻弄するなどして粉砕し、1640年には親日仏勢力を取り込んで、ベトナム全土を植民地として併合した。

765: 影真似 :2021/04/10(土) 19:46:08 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
そして、1642年にカンボジア王アンノン一世が、インドシナ・フランセーズ及び日仏の圧倒的な軍事力と富に参ったカンボジアが保護国になる依頼をし、それに反対した王子のボトムリヤチカ王子が反乱を起こそうとするも、史実では彼を支援していたイスラム商人は日本の提言でフランスが行っていた初期的かつ実験的な他宗教への融和的対応の
方に利があると判断し支援を受けれず、その後追い込まれた彼はオランダ東インド会社を手引きし、同年にカンボジア・オランダ戦争を引き起こした。しかし、ゲートも利用した地の利やベトナム植民地兵も交えたゲリラ戦術にオランダ東インド会社側は敗走し、1643年には日仏は報復としてオランダ領マラッカ、ブルネイに侵攻。1644年の講和においては、オランダはマラッカとブルネイをはじめとするボルネオ島の支配を認めることとなり、オランダ東インド会社は上記二カ所及びカンボジアから撤退。なけなしの対価としてボトムリヤチカ王子がオランダ側に引き渡され、本土にて公開処刑された。(この時の経験が宗教、文化的融和の先駆けや狩猟旅団の設立の切っ掛けの一つとされている)
その後、1644年には正式にカンボジアを保護国にし、マラッカ、ボルネオ島に進出すると、以後は1700年に至るまでインドシナ・フランセーズとしての意識の統一に力を注いだ。
1706年には内部分裂に陥ったラーンサーン王国(ラオス)が、長年融和的政策で目覚ましい発展を遂げるインドシナ・フランセーズへの保護国化を対価に援軍を求め、1707年に派兵した後1710年には独立勢力を鎮圧し、ラーンサーン王国を保護国としてインドシナ・フランセーズへと加えた。1747年には再興ペグー王朝に追い詰められていた復興タウングー王朝(ミャンマー)が保護国化を対価に援軍を求め、1748年に派兵した後、1750年に再興ペグー王朝を粉砕し、復興タウングー王朝をも加えていった。

766: 影真似 :2021/04/10(土) 19:47:13 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
更に、南東方面の勢力図がフランスとオランダの二強で固定されると、1752から復興タウングー王朝の領土から西に進み、史実ナガランド州、マニプル州、ミゾラム州に進出して併合し、それに反応して侵略してきたトリプラ州のトリプラ王国を粉砕し併合。翌年の1753年にはブータンから圧力をかけられていたクーチ・ビハール(アッサム地方)の要請で保護国化を実行したことに激怒したブータンが、メーガーラヤ州のジャインティア王国と連合を組んで侵攻してくるも1754年には粉砕し、両国を植民地として併合。1755年にはイギリスの浸食が進むマラーター同盟に1751年に屈辱的な講和を結ばれていたベンガルが接触。それにアフリカでの競争に負けているイギリスがイギリス東インド会社を通してマラーター同盟とムガル帝国を支援する形で、1756年にプラッシーの戦いがベンガルとムガル帝国・マラーター同盟連合の間で発生し、英仏が互いにイギリス東インド会社からの傭兵、インドシナ・フランセーズからの援軍という形で派兵したため史実と比べ大規模な戦闘に発展。最終的には1764年のブクサールの戦いにおいてベンガルが勝利し、アラーハーバード条約によって、マラーター同盟側は、ベンガルにジャールカンド、ビハール、オリッサの割譲と1000万ルピーの賠償金支払い等を結ぶことになり、この敗北によって史実よりも早く甚大な被害を受けたムガル帝国を1770年にはイギリス領インド帝国とし、マラーター同盟も次々と取り込んでいった。
その後、勝利し領土と賠償金を得たとはいえ、フランスがいなければ国が傾きかねないほどの消耗をしていたベンガルは、半保護国としてインドシナ・フランセーズに自ら加わった

767: 影真似 :2021/04/10(土) 19:48:33 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
こうして、東南アジアにおいて強大な領土を持ちインドにも食い込むインドシナ・フランセーズは、フランス干渉戦争が勃発すると、ゲートを通じて援軍を送ると同時に、台湾から派兵される日本軍と共に国をかけての大反撃を行っていた。インドネシアでは、スラウェシ島を除いたスマトラ島、ジャワ島などの島々を逆侵攻した。さらに、在印イギリス軍が悪あがきにオランダの要請でセイロン島を占領しようとすると、キャンディ王国への支援による一斉蜂起に加え、南インドで追い詰められていたマイソール王国に大規模な援軍を送ることで、欧州と東南アジア、南アジアの両方でイギリスとオランダを粉砕したのである。

干渉戦争が終わり、1800年に正式にインドシナ・フランセーズはスラウェシ島を除く東インド及びセイロン島全土を掌握したキャンディ王国、南インドを掌握したマイソール王国を加え、フランス帝国連邦の一員として新生された。こうして19世紀に生まれ変わったこの国は、止まることなく躍進することとなる。1814年のグルカ戦争において劣勢に立たされたネパールが、チベットに侵攻することなくフランスに助けを求めたことからインドシナ・フランセーズが介入し、1816年にはシッキム王国の併合とネパールのインドシナへの加盟が行われ、インド帝国はこれらを認めることが条約で結ばれた。(これによって、グルカ兵のノウハウや戦力が加わったことで、フランスのゲリラ戦術・コマンドー部隊の練度はさらに高まり、イギリスではフランスの介入を招いたことで責任者が多数更迭された)これに反応したのが、1792年の清・ネパール戦争の講和条約で、ネパールを朝貢国としていた清とネパールと争ったチベットであった。

768: 影真似 :2021/04/10(土) 19:49:37 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
清とチベットは以前から日本大陸との交流で膨大な富が蓄えられているインドシナを狙っていたため、1824年に朝貢国であるネパールを宗主国である清の意向を無視し勝手に併合したとして清はインドシナに宣戦布告し、先兵としてチベット兵が送られた。しかし、中華のやり口を知る日本やグルカ兵とベトナム兵、日本のゲリラ戦術が融合して昇華されたコマンドー旅団は史実ベトナム戦争の如き活躍をし、それに日本軍直伝の火力主義が加わることで清・チベット兵は瞬く間に溶けていった。さらに、日本の意向で一気に攻め込むことはせず、おびき出して突っ込んでくる大軍を徐々に纏めて潰していく戦術を徹底した。
こうして1830年にはチベット全土を制圧された清がキルゾーンに突っ込んでいく光景が常態化し、同年に清に見切りをつけたチベット民族が清に対して反乱を引き起こし、これに便乗した回族が雲南省にてパンゼーの乱を引き起こしたため清の士気は最低となった。最終的に1835年にカトマンズにて、チベットと雲南省をインドシナへ併合する条約が結ばれた。また、これがインドを大きく削られ焦っていたイギリスが清に目をつける切っ掛けとなり、1840年のアヘン戦争史実よりも全力で戦力を投入し、南京条約よりもはるかに強欲な条約の数々を結ぶことに繋がる。その後の領土拡大で特筆すべきことは、財政破綻を繰り返したスペインへの対価にフィリピンを併合したぐらいであろう。

769: 影真似 :2021/04/10(土) 19:50:39 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
その後は、中華とロシアへの障壁として、中央アジアに存在する、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部と広大な領土を持つも支配層内部の対立やカザフ、キルギスの遊牧民たちの反乱が起きていたコーカンド・ハン国を利用することにし、様々なテコ入れによってある程度立て直したところ、1842年にウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの一部を持つブハラ・アミール国がコーカンド・ハン国に侵攻。これをフランスの支援にて撃退した後、逆侵攻したことで1845年にブハラ・アミール国を併合したコーカンド・ハン国は纏まり、親日仏勢力として新生された。その後、ロシアの圧力に直面するヒヴァ・ハン国を併合したのち、1860年にはヤクブ・ベクの乱によって東トルキスタン(ウイグル)を清から離脱させ、イギリスに清を絞らせることで再征服させる余裕をなくし、東トルキスタンを新たに加えた。更に、第一次アフガン戦争にて
イギリスを退けたアフガニスタンとも交流を図り、第二次アフガン戦争にてフランスの援護射撃を受けたコーカンド・ハン国が介入することで、1880年にはコーカンド・ハン国にアフガニスタンが加わった。こうして、インドシナを介して中央アジアに巨大な味方を身につけ、ロシアとイギリスを牽制するに至ったフランスと日本はその後も、コーカンド・ハン国への支援を続け、辛亥革命後にモンゴルと内蒙古がコーカンド・ハン国への帰属を宣言し、モンゴル帝国の復活につながることとなる。また、支援夢幻会の助言によって清との国境に沿うように巨大な壁の建設を日仏共同で進め、難民やイギリスの独壇場と化した中華を遮断する「チベットライン」を1860年に初期段階のものを建設、以後20世紀を超えても地道に要塞化され、中華の動乱からインドシナを守る壁として大いに役立った。

770: 影真似 :2021/04/10(土) 19:51:33 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
こうして17世紀初頭から築かれたフランス第二の心臓と言ってもいいインドシナ・フランセーズは東南アジアを中心に覇権国家の一員として相応しい国威を持つようになったのである。また、20世紀以降の流れは別の場所で解説しよう。

771: 影真似 :2021/04/10(土) 19:56:33 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
以上です。
疲れた(10時間の突貫工事&Wikipediaは偉大)
20世紀からは下手にいじると致命的なずれが出るのでふんわりとさせてますが、前々から思っていたのは日仏世界において日清戦争や日露戦争の描写が無いこと。最初はまあ、いつも通りカットかなと思っていたのですがアウスタリ大公国の存在を思い出してふと思った。「日清戦争はそもそも起きているのか?」と言うこと。
1650年ぐらいにはアウスタリ大公国が出来てるので、東南アジア及び中華に対して大きな変化が起きないわけないと個人的に思ってました。結果、そもそも日清戦争どころか朝清戦争で日本が気持ち支援した結果朝鮮帝国が自力で永世中立国家の立ち位置獲得してそうなぐらいボロボロになりました。

………………まあ、そしたらイギリス領インド(インド亜大陸が全部あるとは言ってない)、徹底的にフランスと日本に牙を抜かれ続けておそらくWW2で敵対必須の中華、復活したモンゴル帝国、領土が少なくなった分中華にガチで殴りに行ったイギリスなどが出来ましたが、問題ないでしょう()。これはBC兵器でも作らん限りワンチャンないやろなぁ。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2021年04月14日 20:04