797: 影真似 :2021/04/11(日) 12:40:57 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
投稿無し確認。余裕があるうちに投降しときます。
日本大陸 日仏ゲート世界 小ネタ 「WW1前後のある二国の落差」
辛亥革命によって成立したものの、イギリスの半植民地と化した。経緯としては、1840年に国運をかけたイギリスが全会一致で阿片戦争を開始。その後アロー戦争でも容赦なくイギリスがボコボコにした結果、長江以南(貴州、湖南、広西チワン自治区、広東、江西、福建、浙江)と重慶、天津を直轄地とするイギリス領チャイナが誕生し、モンゴルをはじめとする騎馬民族は清への忠誠を無くそうとしていた。急激に衰退し徐々に暴動が増加することに焦った清はどうすることも出来ず、1894年の朝清戦争において清からの完全な独立を宣言して宣戦布告してきた朝鮮を潰そうとするも、アロー戦争以降の清の衰退を見てから一か八かの可能性にかけて日本の支援を受けながらも
地道に近代化していた朝鮮に対してボロボロの清はまさかの完敗。更にコーカンド・ハン国が援護射撃と言う名の圧力を加え始めたため、完全な独立に加え、清の聖地である吉林省の割譲を認めることとなる。長年見下していた属国単体に負けた上に聖地を割譲したことで国威はボロ雑巾以下となり、あまりの惨状にブチ切れた孫文によって1900年に辛亥革命が発生。
この際完全に見切りをつけたモンゴル、内蒙古、黒竜江省、遼寧省がコーカンド・ハン国への帰属を宣言したことで、混乱は加速し、結局清は中華民国と言う名のイギリスの半植民地となる末路を辿った。更に日露戦争後にボコボコにされ回復するために新たな市場が欲しいロシアと日露戦争でロシアに対して支援をしており、日仏を戦艦のパワーゲームに引っ張り込んで頭数を増やそうと考え、味方(駒)が欲しいイギリス(WW1のフランス戦艦登場により破綻)との契約が結ばれ、それぞれインド、チャイナ、アフリカ、ロシアで労働者を交換し合い、現地民と宗主国の中間に置くことで憎悪の矛先をそらす分割統治が行われ、中華の大地は骨の髄までしゃぶられる運命にあった。なお、WW1においてチャイナ兵がインド兵と比べて動員されなかったのは余りにも問題行動を起こしすぎるからである。
798: 影真似 :2021/04/11(日) 12:42:38 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
フランスと日本の共謀により、ロシア、イギリス、中華への障壁としての役割を期待されて復活させられた現代のモンゴル帝国。中華方面では東トルキスタンを分捕り、後にモンゴル等を取り込んで完全復活を果たすも、ヨーロッパ方面ではロシアとの確執が色々多い。
というのも、1845年にブハラ・アミール国を併合してから宗教融和等の日仏式改革を試行錯誤してる際に、ロシアの圧力に直面するヒヴァ・ハン国が帰属を願い出てきて1849年に併合するも、カスピ海に進出して来たかつてのタタールを思わせるコーカンドにロシアは警戒MAXに。
そんな中、1850年にコーカサスの英雄ハジ・ムラ―トが独自に接触し、それからコーカンド本国やムラ―トの現地拠点で交渉が開始。なんとか援軍を出して欲しいムラ―トと日仏式の教育でこちらに利益がどれくらいあるか冷静に計算するコーカンドの交渉が続いた一年後の1851年、北コーカサスのムスリム宗教指導者でありながらもロシアに息子を人質に取られていたシャミールがムラ―トの暗殺を謀り、本人はコーカンドに居たため、その家族を襲撃したところ、護衛として居合わせたコーカンドの精鋭が撃退。これを知ったムラ―トはコーカンドに深く感謝すると共に、シャミールに対して激怒。また、コーカンド側も精鋭が負傷した上、宗教融和で形骸化していたがムスリム王朝として、シャミールの行為に失望し一致団結。コーカサス戦争に介入を開始した。
コーカンドが介入を宣言すると、かつてのタタールのトラウマからロシアは激しく動揺。また、コーカンドが名指しでシャミールを批判するとシャミールはロシア帝国に逃亡、北コーカサスのムスリム勢力は失望してコーカンドへ次々と恭順した。その後は40年もの戦争に少なくない消費をしていたロシアに対して、勢いに乗るコーカンドに南北コーカサスの抵抗勢力も一斉蜂起。1864年にクニーバ・コサック軍を撃破すると天秤はコーカンドに完全に傾き、これ以上の消耗は今後の黒海方面の戦略に関わると判断したロシアは講和を申し込み、1865年にコーカンドにコーカサス地方(史実北カフカ―ス連邦管区、南コーカサス)の併合を約束する条約を交わした。
800: 影真似 :2021/04/11(日) 12:45:13 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
これを切っ掛けに、タタールへのトラウマがぶり返したロシアは残る黒海進出地のクリミア・ハン及びオスマン帝国を全力で殴る方針を固め史実以上の軍勢で露土戦争に臨み、フランスの勢力がコーカサスを制し、今度はアラビア半島に直々にその手を伸ばしているのを思い知らせてやると意気込んだオスマン帝国が二年後の1867年に虐殺されるエジプトを見て顔面蒼白になることに繋がる。
時計の針を進め、1904年にイギリスが搾り取る中華からおこぼれを貰おうと手始めに独立したばかりの朝鮮帝国を進攻しようとし、イギリスの協力もあって宣戦布告したところ、即座に日本が殴り掛かってきて日露戦争に発展。極東で日本陸海軍の大火力にロシア極東海軍は消滅し、陸軍が壊滅している頃、日仏高同盟(日仏間とは別の同盟。自動参加の義務は無いため、WW1では日仏の意向を受け取り参加しなかった)を結んでいたコーカンドがロシアに宣戦布告。日仏には劣るもののロシア陸軍を
大火力と初歩的な電撃戦において日本義勇兵も混じった全力攻勢による陸路からの黒海艦隊制圧。
その後は、バルチック艦隊が黒海に入ってこようとするとオスマン帝国が通行を禁じて参戦を匂わせ、東西で劣勢であったことからあっけなく講和。1905年の講和にて史実南部連邦管区を割譲し、黒海艦隊を手に入れた後は、日仏の支援もあって地道に海軍力を鍛えていった。(同時に朝鮮帝国も永世中立国の地位を認められた)また、日本とフランスの手厚いサポートでスエズ運河とパナマ運河を順調に建設し、パナマ疑獄事件も起こすことが無く人生の絶頂にいた御年100歳のレセップスが最後の大仕事としてカスピ海側のクマ川から黒海のアゾフを結ぶユーラシア運河の計画を構築。1903年に計画を完成させると力尽きたように安眠し102年の人生に幕を閉じるも、彼の意思を継いだ日仏の運河関係者は同年に工事を始め、1914年に完成された。これによってカスピ海からインドシナへの鉄道計画も本格的に持ち上がり、それに乗じて日仏企業の新規参入も起こったため、WW1後は疫病と戦いながらも繁栄の道を辿っている。
801: 影真似 :2021/04/11(日) 12:45:48 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
以上です。日露戦争起こったか確認したら有為転変
シリーズにあったので、色々とこじつけさせて頂きました。これで日仏世界の世界観測はひと段落ですかね。
最終更新:2021年04月14日 20:07