137: 影真似 :2021/04/17(土) 18:12:24 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
投下無し確認。久々の夢幻世界投稿です。

日本大陸 無幻世界 小ネタ「ルール占領事件後の世界断片集 そのⅡ」

「日独伊三国飲兵衛」
日本とイタリアは、軍事的に同盟を結ぶほど関係があったわけではなく、知り合い以上友人未満といった感じであったが、経済的にはドイツの経済的躍進を友好国であったことからその恩恵を受けていた。その恩恵は、世界恐慌後にドイツ、オランダ、ブルガリア、エチオピアなどの日英友好国が参加する日英ブロック経済にしれっと参加することで、不況からくる史実のような膨張政策をとる必要が無くなったことから、第二次エチオピア戦争の不発と言うバタフライエフェクトを引き起こした。
また、イタリアの妨害が無いことから、エチオピア皇室のアラヤ・アババと黒田雅子の縁談が成立しており、イタリアは第一次エチオピア戦争のこともあって多少反応はしたものの、「日英の機嫌を損ねるのもなんだし、今は特に不満もくすぶってないからいいか」とブロック経済内での貿易に力を入れていた。(これによって国際連盟の影響力が失墜することが抑えられた)そんな二国間では民間においてイタリアの嗜好品、食料やブランド品が日本で注目されるようになり、イタリアでもドイツを通じて多種多様な日本食文化が流入していたこともあって、日独伊美食同好会が設立された。だが、美食とは名ばかりで実際にはワイン、ドイツビール、日本酒を飲み合って飲んだ食ったのどんちゃん騒ぎを毎回のように行っていたことから、周囲からは「日独伊三国飲兵衛」と言われるようになったという。

138: 影真似 :2021/04/17(土) 18:14:11 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
「復活する二つの太陽」
中南米において、日本にとって有名な親日国は二つ存在する。メキシコとアルゼンチンだ。
メキシコとは1888に日墨修好通商条約を締結してから、何かと威圧的なアメリカに比べて接しやすく、アメリカ大陸の拠点としては進出しやすいとして、日本との経済交流が徐々に加速し、当時の大統領であったディアスは綺羅星のように現れ、アメリカを始めとした欧米列強と対等な関係を結んだ日本に衝撃を受け、メキシコを近代化する「シエンティフェコス」と呼ばれる計画に日本資本を積極的に誘致することを希望し、日本側も海外進出を手ごろに出来るならと了承。1899年以降から日本企業の進出が相次ぎ各地で大規模な公共事業が活発化、更に日露戦争で日本がロシアに圧勝すると、ディアスは日本との関係を最重要視することを決め、1905年には日本の助言を受けて農地改革に取り掛かった。明治維新後の日本は今後海外との交流前に内部の問題を解決する国策の一つとして、国土総合開発庁を設立し、日本大陸という豊穣の大地における一部の悪質な地主や地主から国会議員となり農村で強権をふるったり、地元に利益を還元し利益をえたりすることをもくろむ不穏分子を一掃する農地改革を実施した。
国土総合開発庁と農家の直接取引を行うことで、健全な地主には国からの業務提供を持ち掛け、小作料と地租の差額を蓄え、高利貸しや商工業で私腹を肥やしていた地主を徹底的に取り締まった。更に地主上がりの国会議員は活動基盤を失い相次いで失脚、あぶれた労働者は明治維新後に加速する公共事業に吸収され、更なる国内経済の活発化を招いていた。
(これらすべてが「お前らみたいなやつがいたら海外と安心して仲良く出来ないだろ!!」というお人よしじみた動機から始まった)こうした農地改革を国内の大農園の所有者であるアシエンダへの対処方法として推進したディアスは、反対する悪質な大農園は地元警察を使って弾圧し、土地を失った失業者は公共事業に吸収されていった。その後も、アメリカの1907恐慌の影響を受けることなく順当に成長していき、ドイツとの交流も深めたことで経済的躍進は止まらず、1920年には日本とイギリスを参考したメキシコ憲法が公布、1922年には施行され、それを見届けたディアスは92年の人生に幕を閉じた。「メキシコの父」と言われたディアスの死後、実施された大統領選挙ではラサロ・カルデナスが全国遊説を行って圧勝し、ディアスの政策を引き継ぎながらも親日政策を深化。世界恐慌時には、日英ブロック経済にいち早く参加し、スペイン内戦(世界革命論を掲げる軍部によるクーデター)では共和国政府側を支援したことで内戦後はスペインとの関係も深まり中米の強国としての地位を盤石にしている。WW2序盤では、アメリカ国境でアメリカ陸軍と膠着状態になりながらも、中南米に浸透しているアメリカの影響や世界革命論に汚染されたことよって侵攻してくる中米諸国を西インド連邦イギリス軍と共に戦闘状態に突入した。

139: 影真似 :2021/04/17(土) 18:15:49 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
一方、アルゼンチンとは日露戦争においてアルゼンチンがジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦二艦を日本への援軍として派遣したことから関係の深化が始まり、1904年以降からは新たな新天地を求める日本人移民団体や日本企業などが進出した。特に、日本の人々は、大量に流入したヨーロッパ移民によって弾圧される土着文化を気の毒に思い、土着文化の記録や保護に加え、チャコ、パタゴニアといった地方に住むインディオや、ガウチョ、カウディーリョ、メスティーソ、アフリカ系アルゼンチン人、そしてヨーロッパ的生活に馴染まない農民や労働者といった大衆らを積極的に雇い入れ、南米のパリと呼ばれるブエノスアイレスの発展に取り残されていた内陸部やブエノスアイレス周縁部、先住民が多く住むパタゴニアにも積極的に進出し現地の発展に大きく貢献した(これが後世における「外国人は好きじゃないが、日本人なら大歓迎だ」というアルゼンチン世論の形成につながっている。)また、厳しい環境で知られるパタゴニアに進出する際、ブエノスアイレスの人々は自殺行為だと言っていたが、日本大陸の北海道を始めとする環境に慣れていた日本人からすれば大したことは無く、その献身は1907年にパタゴニアのコモドーロ・リバダビアで日本企業がアルゼンチン最大の油田を発見することで報われた。こうした日本勢力の献身に日露戦争から親日であったイポリト・イリゴージェンは心を打たれ、移民法や土地法といった移民に便宜を与える諸法律の改革を掲げ1916年に大統領に当選。
日本に仲介を頼んでイギリスとの交渉も行いアルゼンチンの経済的対外従属体制の改善を積極的に進めた。更に同年輸出経済による少数の大地主を基盤とする寡頭支配層を改革しようと、先に成功を収めていたメキシコとの交流を始め、パタゴニアですでにモデルケースを作っていた日本企業を参考に、農地改革を行おうとするがそれに反発する地主にさらに、労働者たちが反発し、軍隊によって地主を弾圧した。その後も、1918年には大学改革を推進し、衆教育拡充のために1,700校近い学校が増設、WW1の間には日本と共に目覚ましい成長を遂げ、1922年には製鉄業の保護、石油の半国有化(日本への配慮)、鉄道の国有化を成し遂げ、北部地域の鉄道を国家主導で推進した。(こうした活動によってWW1以降はヨーロッパ方面からの移民は激減し、更に先住民に肩入れしていると判断した白人優越主義者たちはオーストラリアや南アフリカ連邦に移住していった)その後は、世界恐慌にてメキシコと同じく日英ブロック経済に入り、日英と強調しながら、南米の強国としての地位を盤石にしている。WW2序盤では、アルゼンチンと領土問題で争うチリに付け込んだアメリカ勢力の浸透やブラジル大統領ヴァルガスなど世界革命論に影響された南米国家との戦闘に突入。その後、英領・蘭領ギアナが南米諸国を引き付けたことや、ニュージーランドを介した日本軍の援軍によって膠着状態になる。

140: 影真似 :2021/04/17(土) 18:17:40 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
「白人至上主義の暴走」

大日本帝国。200年に及ぶ鎖国間でもオランダからの技術吸収で独自に産業革命を成し遂げ、開国後も欧米列強と平等条約を結び、明治維新による無血改革、その後の日清戦争、日露戦争での圧勝に海外が驚愕し、WW1での派兵軍の活躍によって、瞬く間に列強の真加出も最上位に位置する大国となった大陸国家の登場は、それまでの白人優越という世界の常識を破壊し、様々な影響を世界に及ぼした。
そうした影響に過激に反応したのが、白人至上主義の人々である。特に、日本の融和政策を学び、英連邦の改革を行うイギリス本国に対して、白人貧困層の不満の声が増大する南アフリカ連邦と白豪主義が蔓延するオーストラリアであった。南アフリカはプア・ホワイトと呼ばれる白人貧困層の救済として1910年から人種差別的な政策を行い、イギリス本国に釘を刺されたことでイギリス本国への不満と白人至上主義を拗らせるサイクルに陥っていた。一方、オーストラリアは白豪主義をとんでもなく拗らせていた。その切っ掛けは、WW1でのパリ講和会議にてドイツ領ニューギニアを日本へ割譲することに激しく抗議したことである。この抗議はイギリスの「日本を上回る貢献をしたのか?」という一言で一蹴され、更にカナダと共に反対した国際連盟規約への人種差別撤廃条約挿入が、オーストラリアのヒューズ首相の「国際連盟を脱退する」という脅しに融和政策を進めるイギリスが「余計なことをするな」とくぎを刺したことで、最終的に前向きに検討させられるという結果になったことで、オーストラリアでは「白豪主義を守れ」というナショナリズム運動が高揚し、カナダでは国内のフランス系住民と白人至上主義者が結び付き、後にアメリカのカナダ侵攻を招くきっかけとなった。

こうした二国に目をつけたのが、日本との関係が深くルール占領事件後ドイツに肩入れするイギリスに敵意を持つフランスとポピュリズム台頭や日英立憲君主制陣営のブロック経済から締め出され市場を欲したアメリカであった。アメリカとフランス事態の関係は浅かったものの、アメリカは親中反日勢力が独自にアンザック軍の対日派を通じてオーストラリアの白豪主義勢力を支援し、フランスはイギリスへの意趣返しとして南アフリカの白人至上主義勢力を支援していた。そんな中で、唯一英連邦の中
で親日であったのがニュージーランドであり、切っ掛けは日本のドイツ領ニューギニア改め南洋諸島の獲得であった。白豪主義を掲げ、領海侵犯の頻度が多いオーストラリアと比べ、理性的であり酪農を始めとした農産業が盛んであったことから、手短な食料調達が出来るとして、ニュージーランドの経済活動が活発になったことや、日本の1917年5月1日に起きた地震に日本の支援があったことで関係の深化が見られ、1931年2月2日の地震で日本軍の救助があったことで親日国家となり、白豪主義を掲げるオーストラリアとは溝が生まれ、結果として反日派はオーストラリアに移住、親日派はニュージーランドに移住し、同じ英連邦所属でありながら二国間の対立は激しさを増していった。

141: 影真似 :2021/04/17(土) 18:19:58 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
そうした均衡が崩れたのは、アメリカの奇襲攻撃の直後にオーストラリアで起こった軍事クーデターである。
そもそも、オーストラリア軍上層部には、WW1での派兵を経験し親日派の傾向が強く、対日強硬派である世論と政府に板挟みにされていたアンザック軍の人間が多かったが、「政府は結局イギリスの傘下である限り対日強硬政策をすることはない」と考える白豪主義過激派の青年軍人たちが奇襲攻撃を好機としてクーデターを実行。更に、「イギリスからの解放」として、加速するイギリス離れを阻止するため史実よりも早くオーストラリア総督に就任していたケント公の兄であったグロスター侯爵ヘンリー王子とアリス夫人を殺害後に、英連邦脱退を宣言。更にそれに同調するかのように南アフリカ連邦が在英勢力に排除行動を起こし、南アフリカ連邦総督に就任しジョージ五世の従兄弟かつ義理の兄弟であったアレクサンダー王子を殺害した後、英連邦を宣言した。更に、暴走したオーストラリア軍がポルトガル領東ティモールを「保護占領し」、オーストラリアに宣戦布告したポルトガルに対して植民地をフランス、南アフリカ連邦が、本土を対イギリスへの足掛かりとしたアメリカが侵攻、いきなりフランスとポルトガル方面の二正面での戦闘を強いられることになったスペインは発狂。更に南アフリカ連邦軍はイギリス領にそのまま北進し、オーストラリア軍はオランダ領インドにも侵攻を開始し、オーストラリアから逃げてきたアンザック軍と合流したニュージーランド軍及び南洋諸島の日本軍との連合軍との戦闘が発生し、おまけにアメリカが国際連盟に代わる新たな世界秩序組織として国際連合の設立を宣言し、ソ連、フランス、中華民国、オーストラリア、南アフリカ連邦、ギリシャなどバルカン諸国、中南米諸国の対日陣営国が参加。
余りの世界情勢の複雑骨折ぶりに、ルール占領事件、フランスのドイツ侵攻、上海虐殺に加えて、タイガー沈没とケント公の生死不明で激怒していたジョージ六世は一時体調を酷く崩し、エリザベス女王が代行を行い、軍部、諜報部、外交官が大量に病院送りになる深刻な事態が発生した。

142: 影真似 :2021/04/17(土) 18:23:51 HOST:121-87-49-188f1.hyg2.eonet.ne.jp
以上です。
メキシコ+αvs中米国家、アルゼンチン+α南米国家、そしてアメリカの奇襲で国王陛下シリーズやった直後に王族二人死亡を発端に加速するぐちゃぐちゃのWW2に流石のイギリスもキャパオーバーを引き起こしました。
(なお、復活後は日本を上回るガチギレ殲滅モードに入る模様)

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最終更新:2021年04月19日 09:45