13: yukikaze :2021/04/24(土) 00:10:59 HOST:p565054-ipngn200408kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
引っ越し前の最後の投下。

39式戦車

全長:  7.45m
全幅:  3.25m
全高:  2.75m
全備重量:42t
乗員:  4名
エンジン:三菱4ストローク直列12気筒液冷ガソリンエンジン
最大出力:350hp/2,200rpm
最大速度:20km
航続距離:180km
武装:  56口径75mm戦車砲
     7.92mm機関銃及び12.7mm機関銃(各1)
装甲厚: 19.05~158mm

(解説)

第一次大戦が終結した時、日本陸軍は崩壊の一歩手前にまで追い込まれていた。
日露戦争での痛手からようやく回復していた日本陸軍にとって、欧州での凄惨と言ってもよい消耗戦はあまりにも負担が大きすぎた。
派兵した3個師団の士官や下士官は見る見るうちに戦場に倒れ、慌てて追加で派兵した部隊も、欧州の消耗戦の前では、大火に対して如雨露で水をかけるような状況であった。大戦中25個師団を数えていた日本陸軍であったが、戦後、13個師団にまで軍縮せざるを得なかったのも、師団を構成する士官と下士官の被害が甚大で、25個師団を維持するだけの余力がどこにもなかったことに他ならなかった。

結果的に、この時の被害と、国際環境の変化から、日本陸軍は外征陸軍としてではなく、本土防衛陸軍として再編成をされることになる。
これは海洋国家の陸軍としては退化ともとられる変更であったが(海軍力があるのならば、自国に確実に被害が及ぶ本土決戦より、敵地に近い陸で戦争をした方がはるかに合理的である)、何しろ苦心して25個師団を編成しても、欧州に派兵できた師団数は4~5個師団程度であり、そして、その精鋭部隊も半年経てば半壊状態という状況を何度も繰り返されれば、誰も彼もが馬鹿らしさを覚えるのも無理はなかった。(なお、この方針転換に対しては、極東方面において日本が領土的野心を自ら捨てた証拠として、列強各国とも諸手を上げて歓迎している。一方で、アメリカの大陸での悪目立ちが目立つことに繋がり、これが30年後半以降のアメリカの孤立化に一役買うことになる。)

さて、欧州での大損害がトラウマと化した日本陸軍は、半ば偏執的というべく火力と装甲の強化に邁進することになる。
これは、歩兵部隊の頭数が足りない分を、砲兵の火力と、戦車の突進力で補わざるを得ないという日本陸軍の軍事上の事情と、日本陸軍の奮戦の御褒美として、フランス陸軍からは、シュナイダーM1917C 155mm榴弾砲を筆頭に各種火砲を、イギリス陸軍からはMk.Ⅴ戦車が大量に供与された(もっともイギリス軍がMk.Ⅷ戦車とその改良型を大量導入したことで、型落ちになったMk.Ⅴ戦車を日本陸軍に押し付けたともいえるのだが)ことが大きいのだが、ここで日本陸軍は、後世批判を受ける決定をしてしまうことになる。

この時、日本陸軍が供与された戦車は400両程度である。
そして日本陸軍は、それらの戦車を13個師団に『均等に』配分したのである。
カンブレー戦などに参加していた面々からは『戦車は集中運用してこそ突進力がある』として、全ての戦車を集中配備した運用にするよう上申するのだが、陸軍上層部の返答はそっけなかった。

「日本本土で大機甲戦やれるような土地がどこにあるというんだ。第一、一つの師団に集中配備した場合、他の師団の歩兵が丸裸になるじゃないか」

軍事的合理性というよりも、平等性を重視しすぎて、結果的に非合理的になってしまう、日本の組織の悪い点がモロに出てしまったというべきなのだが、その一方で、「機甲師団を編成したとしても戦車を集中運用して使える土地は北海道と富士の裾野だけ」という指摘に、集中運用を重視する面々も反論できなかったのは拙かったと言えるであろう。

また、今後の戦車の開発方針に対して『攻防走を高いレベルで調和させる』とした機甲科の面々に対し「戦車はあくまで敵の陣地突破用であり、最低限の機動力で妥協する代わりに、敵陣地を蹂躙できるよう砲撃力と防御力を重視せよ」という歩兵科との間で対立が激化。
最終的に歩兵科が勝利することによって、「日本が機甲理論を身に着けるのが、他国に比べて10年遅れる羽目になった」と批判されることになる。

そう。日本において戦車とは、あくまで「歩兵を守るための鉾であり盾」であることが宿命づけられたのであった。
これ以降、空地立体攻撃など、見るべきものはあったものの、所謂『電撃戦』が、日本陸軍において主要ドクトリンに昇華できなかったのは、この時の決定によるものが大きく、以降、機甲科の面々は不遇の時代を過ごす羽目になる。

14: yukikaze :2021/04/24(土) 00:11:53 HOST:p565054-ipngn200408kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
さて、大正時代のこの決定により、日本の戦車は、後世で言うところの「ガラパゴス」的な進化へと進むことになるのだが、次に日本の戦車についての特徴を述べてみようと思う。

まず一番の特徴は、日本の戦車は同時代の戦車と比べて、主砲と装甲が強力であることが上げられる。
これは「敵陣地の突破用機材」として定義されていることから、一撃で敵陣地を吹き飛ばすような大火力と、敵から撃たれても簡単に撃破されないことを目的としているからであるのだが、それを示すように、日本で最初に作られた27式戦車は、主砲こそ41式山砲を改良したものであったが、同時代では破格の75mm砲、海軍の傾斜装甲の知見を参考に、車体前面装甲板も、避弾経始を考慮して40度の角度を持つ1枚式傾斜装甲板(45mm)にしている。
もっとも、これだけの代物を15tに纏めるために、回転砲塔は諦め、固定砲塔式にするなど、色々と妥協をしているのだが、それでもこれ以降、日本戦車が同時代の戦車に比べて、大火力と重装甲を備えるよう努力したのは間違いがない。

次に、路上の最高速度については押さえられている反面、不整地走行能力については一切妥協していない。
こちらについては、日本の道路事情が大きく影響している。
明治以降、日本は交通網の近代化整備に努力をしていたものの、それは鉄道網や航路であり、道路については、江戸時代の街道を使っているのが殆どであった。
第一次大戦において供与された大量の中古トラックを民間に放出して以降は、遅ればせながら、道路改良工事を行うことになるのだが、国土交通省の役人が「あれは国道ではなく酷道。戦艦1隻諦めればどれだけマシな道路ができるか」と嘆くように、問題の多い状態であった。(陸軍の渡河用機材がやたら充実していたのも、国道の橋の重量問題に時間がかかる(実際、この問題が解決したのは1970年代後半であった。)ためであった。)
更に言えば、日本人が異常なまでの熱意をもって開墾した水田地帯での運用を解決しなければならないという難問があった。
水田というのは、言うなれば湿地帯であり、重量物を運用するには悪夢と言っていい条件を兼ね備えている土地でもあった。
幸か不幸か、日本が最初に運用した菱型戦車は、超壕性を重視していたこともあり、全長が他の戦車と比べても長い代物であり、その不整地走行能力について、日本陸軍は及第点を上げていた。
その為、日本の戦車は、他国と比べると履帯部分が前方と後方に伸びたような形となり、また履帯幅も他国と比べると広いものとなっている。
なお、低速ギアのギア比が大きいため低速での走破能力は高く、急斜面や湿地、山林といった悪路での機動力が格段に優れているのも特徴である。

要は「歩兵が歩けるところに必ず戦車も同伴でき、歩兵の盾となりつつ、大火力で歩兵の障害物を打破する」ことを目的とした「歩兵のための戦車」であることが理解できるであろう。

長々と解説したが、39式戦車を語る上での前提条件であることから許してほしい。
実際、この前提条件を語らないことには、何故39式戦車がこのような性能を要求されたかが理解できない点があるからである。

さて、39式戦車の性能について検討が出されたのが1936年のことである。
この時期は、前述した27式戦車が13個師団全てに行き渡ったことにより、日本陸軍は、1個連隊につき、1個中隊(18両)の戦車による支援が可能になった。(師団に配備される定数は、各中隊18両(中隊本部2両+4個小隊16両)×3+大隊本部3両の計57両である。)
日本陸軍としてはおおむね満足できる状況になったところであるが、その一方で不満も現出することになる。

その一番の問題点は、当該戦車が「固定砲塔」であるということであった。
無論、当時の技術的状況を考えれば、これ以外に方策がなかったのも事実ではあるが、回転砲塔でなかったことによる、砲展開の時間ロスや、操縦手の位置関係から当該戦車の主砲は大きく左にオフセットして搭載されたため、戦闘室前面に開口されたその収容部もかなり左に寄っており、重量バランスが左に偏ってしまうなど、運用を進めるうえで粗が目立ってきたのである。

また、就役当時は強力であった45mm傾斜装甲板も、関係が徐々に悪化していたアメリカ合衆国において、75mm砲搭載型戦車開発の情報が入った(これは誤報であり、正確には「フランス向けの75㎜砲中型戦車開発」であった)ことにより、対応が可能かという懸念も沸き起こっていた。

こうしたことから、日本陸軍においては、新型戦車の開発が正式に決定されることになるのだが
その要求は以下のとおりであった。

15: yukikaze :2021/04/24(土) 00:12:41 HOST:p565054-ipngn200408kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
1 主砲は最低でも75mm砲。将来的には90mm~100㎜砲にまで換装可能なこと。
  なお回転式砲塔にすること。
2 装甲は、砲塔及び車体前面装甲を最低100mmにすること。
3 速度については、路上最大速力を30km程度にすること。
4 重量は概ね40t程度に抑えること。
5 不整地走行能力に優れていること。超壕能力は350センチあること。
6 生産が容易であること。なおエンジンはガソリンエンジンで可とする。

この時期、20t~30t級の戦車開発が主であったのに対し、日本陸軍が40t級まで許したことは興味深いところではあるが、これは「どうせ新型戦車を作るのならば、改修で30年近く使える戦車の方が費用対効果的によく、そして100mmクラスまで搭載するのならば40tはいるだろう」という、当時陸軍大臣であった杉山大将(憂鬱杉山)の判断によるものであり、27式戦車において設計者を悩ませていた重量問題が撤廃されたことに、設計者は嬉々として開発を行うことになる。

まず主砲についてであるが、陸軍としては開発中の新型対戦車砲(50口径90mm砲)の開発が遅れていたことから、陸軍の師団用高射砲として採用していた56口径75mm高射砲を戦車砲に転用して、暫定的に搭載することにしている。
同主砲は、装甲傾斜角30度の装甲板に対して、距離500m付近で徹甲弾で100mm、特殊徹甲弾を使えば170mm貫けるだけの性能を有しており、米仏の戦車相手にも十分な性能を有している。
事実M4戦車の76mm戦車砲であっても、同戦車を通常の徹甲弾で撃ち抜くには200m以下にまで近づく必要があり、500m近辺で撃ち合うには高速徹甲弾の使用が必須という有様であった。
後期生産型においては、50口径90mm砲が採用されるが、こちらは砲の軽量化等を優先したためか、徹甲弾を使用した際には、距離500m付近で徹甲弾で120mm程度とやや不満が残る能力であり、主に対戦車榴弾と風帽付被帽徹甲弾の搭載に舵を切ることになる。(そしてその最大の被害を受けたのがM26やM4A3E2突撃戦車であり、キューバにおける戦車戦で、逆上陸を仕掛けた彼らは無残な最期を遂げることになる。)

防御に関しては特に注力されることになる。
まあ「歩兵戦車」である以上、重装甲で敵弾を防ぐことが必須であったわけだが、凝り性の日本人が作っただけあって、防御装甲の厚さは破格といって良いものであった。
車体は圧延防弾鋼板の溶接構造を採用しているが、90mm~100mm砲との殴り合いも考慮して、傾斜角60度、装甲厚120mm、砲塔前面に至っては160mm近い装甲厚を備えることになる。
日本陸軍が要求した装甲厚よりも増厚しているのだが、これは傾斜装甲を備えているとは、100mm砲弾相手では、100mmの装甲厚では厳しいという予想と、当初、砲塔については鋳造砲塔とするところが、予算と技術の蓄積の問題から想定よりも脆かったことから、急遽溶接式に変更。
その際、砲塔前面が直立式になっていたことから、計画よりも増厚することになった。
なお車体底部は対戦車地雷の爆圧を外らすため、平板式を止めて3面式舟型構造を採用していた。

同戦車の防御の硬さは敵味方共に認めるところであり、37mm砲は撃つだけ無駄。57mm砲は側面に500mまで近づけば何とかなるが、前面だと格段に難易度が上がるという状況。76.2㎜砲でようやく前面装甲を打ち破ることも可能になるが、通常徹甲弾だと200m近辺にまで近づかないといけないという有様であった。
その為、アメリカ陸軍が、同戦車相手に撃ち合いができるようになるのは「T8 90mm対戦車砲」導入後からであり、同砲はM26に最優先で供給されていたため、対戦車砲部隊は絶望的な戦いを挑む羽目になる。

ただし、同戦車は重量軽減のために、後部装甲が30mm(しかも垂直)でしかなく、アメリカ歩兵からは「あのアバズレ相手にはケツを狙え」と、一旦、同戦車をやり過ごしてからの、後方からのバズーカ攻撃が推奨されることになる。
とはいえ、歩兵戦車だけあって、同戦車には歩兵の護衛がしっかりとついており、戦車の後方に回り込むには、戦車と歩兵を引き離す必要があり、成功するにはよほどの幸運と度胸が必要とされていた。

機動力については、路上における最高速力が20kmと、非常に鈍足である。
これはエンジンである三菱4ストローク直列12気筒液冷ガソリンエンジンが、小型化の代償として馬力が350馬力しかなく、重量に対し明らかに馬力不足であった。
その一方で、低速ギアのギア比が大きいため低速での走破能力は高く、超堤能力は120センチ、超壕能力は370センチもあり、不整地走破能力は突出して高く急斜面や湿地、森林といった悪路での機動力に関しては列強が繰り出した戦車の中でも最高峰であった。

16: yukikaze :2021/04/24(土) 00:16:22 HOST:p565054-ipngn200408kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
この特性については、日本陸軍も「奇襲に使える」ということで、敢えて不整地を好んで走行することもあったが、同時に日本陸軍の悪癖ともいうべき「余計な小細工をして痛い目に合う」事態も生じることになり、何人もの指揮官や参謀が問答無用で更迭されることにも繋がっている。

同戦車は、重量こそ当初の予定と比べて1t程増えることになったが、許容範囲であるとして1939年に39式戦車として採用される。
1942年の開戦時には、4個師団分の生産がなされており、それぞれ仏領インドシナ及びフィリピンへと派遣。その機動力のなさから、度々敵に逃げられることもあったが、撃ち合いになれば無類の強さを発揮し、日本戦車を舐めて不用意に会戦に持ち込んだ米仏の戦車群を鎧袖一触で蹴散らしている。
この時、スチュアート戦車が30発以上当てても、同戦車が悠然と進んで、一撃で吹き飛ばした映像は、全世界に配信され、それを見たロング大統領が激怒し「この小癪な出来損ないを吹き飛ばす戦車を送れ」と、側近に怒鳴りつけ、これまで太平洋には1両も送られていなかったM4が慌てて送られることになる。
このM4との対決は、ソロモン海を巡る戦いまで待たなければならないのだが、太平洋に送られたM4は初期型であったことから、39式戦車の敵ではなく、こちらもソロモンの島々で屍を晒すことになる。

この頃には、日本においても、同戦車を「鉄の城」「陸上戦艦」と呼ぶことが多くなり、日本陸軍の精強さの象徴ともいえる存在になっていた。
陸軍においても、同戦車の量産を推進するとともに、大隊定数を57両から36両にまで減らす代わりに、各歩兵連隊に戦車1個大隊が付属するという『装甲歩兵連隊』化を決定。
最終的には開戦前に存在していた13個師団全ての連隊に戦車大隊を付属させることに成功している。
(ただし歩兵連隊の移動はあくまでハーフトラックが主体であり、装甲兵員輸送車を装備できたのは4個師団のみであった。また戦時動員された師団については、27式戦車やハーフトラックに対戦車砲を積んだ車両が配属されているケースが多かったが、これは戦時動員師団が、フィリピンやインドシナ、更にはタヒチなどの治安維持部隊として利用されていたからであり、必要なのは土建機材でありトラックであったという点はある。)

大戦後期においては、待望の50口径90mm砲に換装。
ただし、重量問題から砲塔がやや小型化してしまい、75mm搭載型と比べると発射速度の低下等が発生。
このことと90mm砲の性能が想定よりも低かった(とはいえ、対戦車榴弾と風帽付被帽徹甲弾を使えば20ポンド砲を除けば十分以上な性能を有していたのだが)ことから、同戦車が主力であった時期は短く、紆余曲折の末、日英共同開発の105mm砲(51口径105mmライフル砲)を備えたセンチュリオン戦車(日本名は51式戦車)が、戦後第一世代戦車として、日本陸軍の屋台骨を支えることになる。

同戦車は、日本陸軍において最多となる3,000両近い生産がされ、派生型である戦闘工兵車や火炎放射戦車、更には各種自走砲も含めれば4,000両を超えることになる。(3,000両のうち1,000両以上は英伊に輸出)変わったものとしては装甲兵員輸送車も派生型として開発されたが、速度の遅さと維持費用の問題から本格的な量産こそ見送られたものの、51式戦車が配備され、用途廃止となった戦車のうち程度の良いものを改修し工兵部隊用の装甲車両として配備されたりもしている。

同戦車が派生型も含めて完全に退役するのは1970年代であるが、それはとりもなおさず、
現場においては頑丈且つ信頼性のある機材であった証拠ともいえる

17: yukikaze :2021/04/24(土) 00:23:35 HOST:p565054-ipngn200408kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
投下終了。
いつものパターンとは違い、徹頭徹尾、歩兵戦車ルートに驀進するシナリオを作ってみた。とはいえ、普通ならこのルートに行く訳がないので、第一次大戦での大被害と戦略環境の変化を理由にしてみた次第。

まあ間違っても電撃戦がドクトリンとして採用できないだろうが、本土防衛という
特性を考えるならば、戦略単位の機動性を捨てて、砲火力と装甲に割り振るのもありなのかなあと。

まあ日本製のセンチュリオンやチーフテンは見たいという欲求は強いのだが。
ただ、さすがにチャレンジャーはないだろうなあ。
どちらかというと90式の移動能力強化タイプになっているかも。

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最終更新:2021年04月24日 15:54