743: 弥次郎 :2021/06/11(金) 22:46:39 HOST:softbank126066071234.bbtec.net
艦これ×神崎島支援ネタSS「あるいは人の視野の狭さと無知について」
些かに刺激的な2月26日を終えて、多くのものが堅苦しい肩書と立場を得ることとなった。
神崎提督は「総督」という名義の「令外官」という些かカビの生えた立場を得、神崎島およびその鎮守府が行政上としては「大宰府」となった。
要するに、神崎島とその領土領空領海を管轄し、域内での政治・国境および通商において無制限の権限を有する一個の独立集団となったといえる。
このような回りくどいものをとるのも、些か厄介な事情を幾多にもはらんでいることを示す明確な証左であったが、それをほじくり返す無粋者は表にはいなかった。
少なくとも、彼らが表向きには、そして制度上も慣例上も仰ぎ見るべき御上がそのように決定し、ふるまったのだから、それを追認せざるを得ない。
なし崩しで大本営という名の、時に右往左往し、迷走も沸騰もする集団の不確か且つ無責任な指示のもとに収まるなど神崎島としてはまっぴらごめんだった。
そういう意味で、今上帝の行動と発言---すなわち、東条らを率いて自ら襲撃の場に姿を見せ、尚且つ以降の流れを掌握したのは僥倖であり、恐るべきセンスと判断力だった。
他方の大日本帝国としては、この今上帝の行動と発言に多くを救われてしまうこととなってしまった。
平たく言うところの面目丸つぶれ、というやつである。
襲撃者は前もって潰す必要があったし、襲撃が起きたならば阻止しなければならなかったし、その後の状況をうまくまとめるのも仕事だったはずなのだ。
それに、仮にも軍事国家の要人---というより最高指揮官にして最高権力者がおひざ元で襲われたとなれば、外交問題は必至だ。
神崎島からの絶縁はほぼ確実、場合によっては宣戦布告などがあってもおかしくない事態であった。
さらに問題であるのは、これらの事態を不特定多数の人間がどう受け取ったのか、である。
二人の囚人が窓の外を見た時、泥を見た囚人と星を見た囚人がいたように、受け取り方や見方など千差万別である。
これを自国の恥ととらえ風紀や襟もとを正すものもいれば、見当違いに思考を巡らす者もいる、ということだ。
殊更に、神崎島を都合の良い「駒」として捉え、神崎提督の身柄を使ってでも、と考えて動いた連中は特に。
あるいは、その背後にいる勢力や国などを考慮する必要があるかもしれないが、まあここではあえてカウントしないこととしよう。
ともあれ、千載一遇の機会を逃したというのは、彼らにとっては憂慮すべきことであり、大いに恥じるべきものであった。
これの悪いところは、『彼らの考える御上』に対する恥というところか。つまり、彼らは彼らの中で考えが閉じてしまっている、ということである。
例え御上が諫めたとしても、それを決して認めず、自らに都合よく解釈してしまうような、そのような考えと言っていい。
すなわち、帝国の抱える問題の根本に存在するものであった。
その事実を神崎が時の首相である廣田に伝えたのは、2月27日のことであった。
御名御璽の押された勅令を受け取って立場を固めた後、すなわち、一連の騒動に対する謝罪と謝辞とを改めて伝え、雑談に興じていた時のこと。
「地獄への道は善意で舗装されている…」
不意に、神崎はヨーロッパの諺を引用した。
話題がちょうど、国内の不穏な分子が今後どのように動いてくるか、ということに差し掛かった時であった。
一先ずは決着がついた。とはいえ、今後も安泰であるという保証はどこにもない、という状況。
それこそ、なりふり構わずに神崎提督に害をなそうとする人間が現れるだろう、という嫌な未来予想であった。
それを聞いて、神崎が漏らしたのが、先の言葉である。
「地獄への道…?」
「ええ」
神崎は、悪意、あるいは怨念の形を成した深海棲艦と戦ったからこそ、あるいはそれ以前の経験からか、そのように捉えていた。
純然たる怨念や呪いや厄の塊ともいえる深海棲艦と人間の境目については論じる必要があるが、少なくとも、そのように差異があるのだと述べた。
744: 弥次郎 :2021/06/11(金) 22:47:19 HOST:softbank126066071234.bbtec.net
「我々の…島の勢力・資源・軍事力・立地その他もろもろについて、目をつけている勢力が多いことは明白でしょう。
ですが、結果的に悪意を向けるにしても、それはおそらく善意の下に行われる行動の果てなのではと考えております」
「善意の行動の果て……」
廣田はその言葉を自然と繰り返してしまう。
良かれと思っての行動。良い結果を望んでの動き。あるいはよい結末を目指しての失敗。それこそが、最も恐ろしい。
「自分が正しいと思ったことは、必ずしも他者にとって正しいとは限らない。正義とは相対的なもので、ひどくあやふやです。
だから、折り合いがつけにくく、殊更自分の視点こそ絶対と、時に錯覚してしまうのです」
「つまり、彼らは悪を成すのだというのではなく、正しさのために神崎提督を襲ったと?」
「悪事をなすというのは恐ろしい覚悟が必要です。良心の呵責と戦わねばなりませんから。
一方で、正しさを振りかざしたとき、人はどこまでも残酷に慣れてしまえるのです」
それは、神崎島の記録にもあることであり、あるいは、その格言が生まれた十字軍のころからずっと普遍的に存在することか。
善意が飽和し無自覚の悪意に満ちた状態であるということこそ、最も恐ろしいことにつながってしまうのかもしれない、ということ。
他者の目線を無視しても良いという何らかの免罪符を得れば、人の枷は本当に外れてしまうのだ。
「この言葉が生まれたとされる十字軍遠征。一般には十字教のため、ということでしたが、実態としては同じ十字教徒を十字教徒が殺戮するということがありました」
なぜ、そんなことができたのか。宗旨や解釈の違いこそあれども、同じ信徒ではないか。
廣田の胸中の疑問に、神崎は答える。
「すべては神が解決してくださる、という解釈ですべてが許されたのです。
だからこそ、殺し、傷つけ、奪い、犯し、蹂躙することができた」
そしてそれは、と神崎はいっそ冷徹なまでに断言した。
「それは、この帝国の人々にも該当することです。
閣下が憂いられたように、過去の人々もまた、善意から動き、結果を得た。
善意がすべて間違っているとは言いませんが、善意がすべて正しいとも限らない。そう思われませんか?」
廣田は、それを否定できなかった。
自分たちから見れば反乱や反旗を翻したかに見える青年将校たちも、理解はできなくとも、賛同はできなくとも、一応の理屈や建前を押し立てていた。
そして、鎮圧した側の自分たちも、自分たちの大義や理屈を掲げてそれらをつぶした。だが、本質的に差異はないのではないか?
確かに法や秩序の観点から見れば自分たちは正しいことをしたとは考えられる。しかし、それは絶対正しかったかと言われると、返答に困るところだ。
島の「情報」では自分もまた過ちを犯したことがあると未来からはそう見られた一因でもある。そんな自分が絶対正しいと、誰が言える?
つまり、と神崎は言い放った。
「結局のところ、人間は自分の考えるほど全能でもなく万能でもなく、賢明でもない。
無論、私も、閣下も、すべての人がそうでしょう」
「……しかし、それでも前に進んでいくしかない。そうでしょう?」
「はい。つまるところ、結果を恐れ前に進めなくなるのは無責任です。最後はすべて自分たちに返ってくると、そう思い、踏破するのがよろしいかと」
結局は同じ穴の狢。ならば、せめて堕ちてしまわないように。
少なくとも自分たちは、神崎島という鏡を得られたのだ。それで自らを鑑みながら前に進める。
神崎提督が言ったように、変えられるのは未来だけなのだから。
745: 弥次郎 :2021/06/11(金) 22:48:54 HOST:softbank126066071234.bbtec.net
以上、wiki転載はご自由に。
聖書とか十字教って世の中の争いの6割くらいの原因と思っていますけど、金言も多いんですよねぇ…
人類悪とはすなわち人類愛である、というように、愛と憎しみは表裏一体なんですよね。
千尋の谷に子を落とす行為も、母親の愛ゆえにとも言えますし。
あるいは、正義の反対は別の正義とでもいいましょうかね。
最終更新:2023年11月15日 20:51