578: 名無しさん :2021/07/04(日) 17:37:21 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
誰も居ないようなので、流れに逆らってこのレスを含めず2レスほどお借りします。
内容は日蘭世界のソ連戦車に関する設定(画像付き)となります。

579: 名無しさん :2021/07/04(日) 17:38:00 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
ソヴィエト連邦農労赤軍 T-34-75中戦車 1941年型
 ・ 性能諸元
       全長 : 6.33 m
       全幅 : 3.00 m
       全高 : 2.51 m
       重量 : 27.2 t
       乗員 : 4名
   懸架方式 : 水平渦巻バネ式懸架装置(HVSS)
     発動機 : クリーモフM-105T V型12気筒液冷ガソリン発動機
       出力 : 500 hp
   最高速度 : 48.6 km/h
       兵装 : 37.5口径75mm戦車砲 - 1門
           7.62mm車載機銃 - 2挺
     装甲厚 : 45mm / 傾斜60°(最大)

   ttps://dotup.org/uploda/dotup.org2525313.png

   T-34-75(露:Т-34-75)は、ソヴィエト連邦農労赤軍が開発、運用した中戦車。
   T-26軽戦車やKV-1重戦車と共に同軍の主力戦車と目され、大戦中盤以降に活躍した。

 ・ 開発
   1930年代後半、外蒙古にて蒙古連合と極東カルムイク人民共和国の間で生じた蒙瓦国境紛争において、極東カルムイク人民共和国の主力であったT-26軽戦車やBT-2、BT-5快速戦車は蒙古連合が保有した五年式中戦車改や八九式中戦車にほぼ一方的に打ち据えられ、大敗を喫していた。
   これらの戦車はソ連においても未だ数的主力を勤めており、仮想敵である大日本帝国やロシア帝国とソヴィエト連邦が全面衝突に至れば、良くて同様。
   最悪はそれ以上の凄惨な光景が繰り広げられるのは明らかであった。
   当時、ソ連ではKV-1重戦車の開発が進められていたものの、米国から導入した新鋭の懸架装置であるVVSS(垂直渦巻バネ式懸架装置)がその大重量に耐えられず、改良の必要性から開発が遅延していた。
   そこでソ連はKV-1重戦車と並行し、VVSSで懸架可能な軽量かつ快速の中戦車の開発を決定。
   これがT-34-75中戦車へと繋がっていくこととなった。

 ・ 構造
   避弾経始を考慮した傾斜装甲を使用する車体を最新鋭のHVSS(水平渦巻バネ式懸架装置)で支える構造とした。
   当初はVVSSの採用を想定しており、第一次試作車では同方式を採用していたが、開発を進める中でVVSSの優秀な整備性を保ちつつ、大重量にもある程度対応が可能な改良型のHVSSが完成。
   第二次試作車から懸架装置の方式を変更し、量産車でも採用される運びとなった。
   大重量にも比較的対応し易いこの懸架装置を採用したことにより、T-34は細々とした装甲増厚などの影響を受けた車体重量の増加にも耐え続けることとなった。
   心臓部たる発動機には1937年、クリーモフ設計局が認可生産権を取得した“イスパノ=スイザ12Y”を戦車発動機向けに出力を調整した“クリーモフM-105T”V型12気筒液冷ガソリン発動機を採用。
   500馬力の出力を持つ同発動機により、最高速度は整地で48.6km/hというBT戦車をも上回る快速を誇った。
   しかし生産性や整備性を重視するあまり、設計の時点で人間工学を無視する形となった部分も多く、特に狭い戦闘室を原因とする乗員の負担は大きかったとされる。

 ・ 兵装
   主砲は米国が開発した37.5口径75mm戦車砲M3を認可生産権を取得した上で採用している。
   これは当初、独自に生産した砲弾に加えて武器貸与法による米国からの補給援助を前提としたものであったが、開戦劈頭から米ソ間の海上輸送路は大洋連合による激烈な通商破壊戦によって寸断され、孤立したソ連は国内で生産した砲弾のみで戦う羽目となっており、設計当初の目論みは破綻していた。
   また大洋連合による空襲や攻勢の影響で主砲の調達が覚束なくなると、旧来の53.5口径37mm対戦車砲や48.4口径76.2mm野砲改造型など各工場で調達し易い火砲の他、前線での鹵獲火砲を搭載して間に合わせる例が見られ、T-34-37、T-34-76といった大量の派生型が誕生した。
   なお機銃については当初からソ連従来の7.62mm車載機銃を選択しており、主砲同軸と車体前面にそれぞれ装備している。

580: 名無しさん :2021/07/04(日) 17:38:31 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
 ・ 運用
   第二次世界大戦中、性能面で大洋連合に後塵を拝し続けた四国同盟の戦車としては設計上の問題点を差し引いてなお、最も間近まで迫ることができた優れた戦車であった。
   本車の量産が始まり、戦場に姿を見せた1942年2月以降のごく僅かな期間は主敵となったロシア帝国陸軍の戦車群と互角に渡り合う光景も見られている。
   しかし欧州西部やアフリカ大陸での趨勢が決し、余力ができた大洋連合が欧州ロシア方面やカフカース方面で順次新たな戦線を構築すると、貴重な本車の配備も分散され、また存在を前提とした戦術の変更が取られたために徐々に劣勢となっていった。
   幸いにもスターリンが戦略的劣勢に陥った場合を想定し、生産工場の疎開と分散を進めたために本車の生産が途絶える最悪の事態こそ免れたものの、1943年初頭にスターリンが急死して以降は国家として統一した生産や改良の計画を取ることが不可能となり、各生産工場は徐々に低下していく品質と戦いながら、生産を続けることだけで手一杯であったとされる。
   その後、四国同盟の中では唯一降伏ではなく講和に漕ぎ付けたソ連だったが、フルシチョフ体制下で行った焦土戦や根こそぎ動員の弊害は大きく、新規の兵器開発能力は半ば失われていた。
   以降、ソ連における戦車は本車の改良型の範疇を脱することは無かったとされている。

   なお本車に関する最も大きな逸話として、知的財産権に関するバーゼル条約(※1)に則った措置が取られていなかったことは有名である。これは戦時中に完成したために申請ができなかったことも関係しているが、戦後の猶予期間においても混乱が続いていたソ連が申請を怠り、事実上の無特許状態となったためだ。
   その結果、1950年代にアルゼンチン共和国が何処からか入手した本車の設計図を基に独自に改良した国産戦車の生産を行い、フォークランド(マルビナス)戦争では主力戦車として用いた。
   また1961年のソヴィエト内戦勃発とソ連崩壊により、本車の設計図が改めて関係者ごと流出すると、かつてのアルゼンチン同様に一部の国家や勢力が勝手に本車を密造する事例が見られた。
   中でも1970年代、ウルグアイなどを経由してブラジル連邦共和国に流入したとされる密造車はブラジル内戦において反政府武装勢力の主力戦車となり、大きな問題(※2)となった。
   これが本車の与えた影響は戦中よりも戦後が大きい、と今日も言われ続ける所以である。

   ※1 : 階差解析機関開発競争が最盛期を迎えていた十九世紀半ばに欧州主要国がスイスの工業都市、バーゼルにて締結した国際的な条約。
         当初は工業所有権の保護を謳い、後に知的財産権全般を取り扱うこととなった。
         大戦当時、特に懸架装置に関する特許権が多く生きた状態であり、陣営ごとに懸架装置が明確に別れる一助となった。

   ※2 : ブラジル内戦終結後にその入手経路を辿る中で判明し、ブラジルを新たに加えた大洋連合とウルグアイの後ろ盾となったフランス連邦共和国間で緊張が高まった。
         しかし調査が続き、一連の事件がウルグアイ政府主導ではなく、ブラジル内の反政府武装勢力と協同したウルグアイの反政府武装勢力“トゥパマロス”によるものだと判明して以降は緊張が緩和。
         ウルグアイがブラジルに賠償金を支払うことで手打ちとなり、衝突は回避された。
         ただしそれ以降のウルグアイでは危機を招いた反政府武装勢力の掃討が苛烈化し、大洋連合、英連邦条約機構、フランス連邦共和国の三陣営の協力の下、殲滅されるに至っている。

581: 名無しさん :2021/07/04(日) 17:40:07 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
以上になります。
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最終更新:2021年07月08日 08:48