789: 名無しさん :2021/07/11(日) 10:08:56 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
○ フランス共和国陸軍 FT-17bis軽戦車
 ・ 性能諸元
       全長 : 5.46 m または 5.31m
       全幅 : 1.74 m
       全高 : 2.14 m
       重量 : 7.6 t
       乗員 : 2名
   懸架方式 : 垂直弦巻バネ式懸架装置
     発動機 : フランクリン/ソミュアM32 直列6気筒空冷ガソリン発動機
       出力 : 100 hp
   最高速度 : 27.2 km/h
       兵装 : 72口径25mm戦車砲 または 21口径37mm戦車砲 - 1門
     装甲厚 : 22mm(最大)

   ttps://dotup.org/uploda/dotup.org2531611.png

   FT-17bisは、フランス共和国陸軍が運用した軽戦車。
   第一次世界大戦中に開発されたFT-17に対してソミュア社が行った近代化改修型であり、第二次世界大戦開戦当時、同軍が保有する戦車で最も数が多く、実質的な主力であった。

 ・ 前史
   第一次世界大戦半ばの1916年12月、フランス最大手の自動車メーカーであったルノー社が試作したFT軽戦車は当時の協商陣営において極めて優れた能力を示し、年明け早々からFT-17軽戦車として生産と配備が開始された。
   同盟陣営、特にドイツ帝国に水をあけられていた協商陣営の装甲戦力の差を取り戻すかのように大量生産された本車は終戦までに3,400輌近くが配備され、その勝利に大きく貢献している。
   しかし大戦末期、同盟陣営が行った1918年春季攻勢、所謂カイザーシュラハトにおいてあわやパリ陥落まで迫ったその衝力の中心を担ったドイツ帝国陸軍のGKII重戦車(※1)の存在は、フランス共和国陸軍、ひいてはフランスという国家に良くも悪くも強い印象を刻み付けてしまった。
   同車は戦線の突破時に立ち塞がろうとした協商陣営の装甲戦力の過半を真正面から粉砕。
   回り込んで撃破を狙ったFT-17がその周囲を固めるLKIII軽戦車(※2)に妨げられたことも相成り、パリ近郊の防御線で野砲の集中砲火で沈黙するまでの間、無敵と紛うばかりの活躍を見せつけたのだ。
   その結果、大戦末期以降のフランスでは様々な理由から遅延していた重戦車の開発が活発化。
   既に優れた性能を示し、かつ数が揃っていた軽戦車の更新は後回しにされてしまった。
   本車の優れた性能と揃った数が、かえってフランス共和国陸軍を蝕む要因ともなったのである。

   時は流れ、1930年代初頭。FT-17軽戦車は依然としてフランス共和国陸軍で最多の数を誇る戦車だった。
   戦後、立て続けに開発、配備されたシャール1A、1Abis、2C、2Cbis。そして当時開発中のシャールB1と重戦車は数こそ少なかったが定期的に改修や更新が行われる一方、FT-17はほとんど手付かずであった。
   唯一、1924年に走行性能改善を目的に若干数がケグレス重ね板バネ式懸架装置に改修が行われたが、懸架装置の耐久性の問題と全力走行時に履帯が脱落し易い欠点が露呈し、これは失敗と見做されていた。
   結局、同車の改修は見送られ、後継となるシャールD中戦車がルノー社によって開発、配備が始まっている。

   だが折悪く巻き起こった世界恐慌に前後し、フランスの戦車開発は大幅な遅延を余儀なくされた。
   この時期、世界恐慌による経済的被害を抑え込む傍ら、旧同盟陣営諸国などに浸透していた日蘭を中心とした大洋連合とそれ以外の旧協商陣営を構成した米英などの列強諸国の間で第一次世界大戦の賠償金支払い方法を定めたベイレフェルト案の改定を巡る対立が深まっていた。
   フランス共和国はどちらかと言えば、1931年までは対外投資の引き上げによる資本再流入政策によって経済的被害を抑え込んだ側に位置したが、歴史的経緯から大洋連合と繋がりを深める選択肢は有り得ず、国際的には自然と大洋連合と距離を取る形となり、最終的に世界恐慌の余波から逃げ切ることに失敗。
   1932年には経済混乱が生じ、さらにそれとは別の理由ながら同時期に発生した大統領暗殺事件の影響でパリ大騒擾事件が起こるに至り、ついには政変を迎えて左派主体の人民戦線内閣が誕生する。
   この人民戦線内閣はソヴィエト連邦に接近し、その後ろに居たアメリカ合衆国とも繋がりを深めていく。
   これが後の四国同盟へと繋がり、ビンソン計画への参画による陸軍にとっての悲劇を招いたのだった。

790: 名無しさん :2021/07/11(日) 10:09:29 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
 ・ 計画
   ビンソン計画への参画が引き起こしたフランス共和国陸軍の戦車開発計画への影響は絶大だった。
   当時の陸軍では戦車開発を統一的に主導できるような政治的強者が第一次世界大戦終結に前後して軒並み失脚(※3)しており、ビンソン計画への参画で大幅に減じられた予算を巡って、重戦車閥と軽戦車閥、さらには歩兵科と騎兵科、それぞれを支援する軍需企業が入り乱れていた。
   結果だけ述べるならば、シャールD中戦車の調達数は大きく削減されて改良計画も取り止めとなり、シャールB1重戦車の改良は辛うじて認められるに留まった。悲惨の一言に尽きるであろう。
   これには流石に近代化の遅延が著しいとして、新戦車開発へのロビー活動が巻き起こるのだが、その一方で見送られていたFT-17軽戦車の改修に今一度手を付けようとした企業が存在した。
   それこそがフランス屈指の軍需企業であるシュナイダー社を親会社に持つソミュア社だった。
   ソミュア社のFT-17改修計画は実に簡潔だった。それは一線級とまでは行かなくとも最低限の改良で新戦車への繋ぎに足る能力を獲得させることを目指したのである。
   最終的にこの計画はFT-17bisとして纏まり、費用対効果も許容しうるとして認められる運びとなった。

 ・ 構造
   主に旧態依然とした機動力を改善すべく、懸架装置の改良と発動機の換装が行われた。
   ただし懸架装置はケグレス式の失敗と予算上の制約から基本的な構造を変えるようなことはせず、耐久性の観点から木製であった起動輪を鋼製に改め、履帯を新設計のものに付け替えるに留めている。
   機動力改善の本命は発動機であり、車体後部の機関部空間を延長した上で従来の39馬力のものから二倍以上の出力を持つ100馬力の“フランクリン/ソミュアM32”直列6気筒空冷ガソリン発動機に換装した。
   これらの改修により、FT-17bis軽戦車の機動力は従来のFT-17と比べて大きく向上。
   速度は整地で27.2km/h、不整地で14.5km/hと最新鋭のシャールD中戦車を上回るものとなった。
   また航続距離についても車体延長の際、燃料貯槽を若干だが拡張した他、取り外し可能な外装式の燃料貯槽を取り付けられるように改修し、従来の50km程度から倍の100km程度に延伸させている。

   こうした改修の基本的な絵図を描いたのは第一次世界大戦後に米国における戦車開発の顧問として渡米し、世界恐慌の発生後に暇を出されて帰国したウージェーヌ=ブリエ技師であり、
   元々は同国で計画されていたM1917軽戦車に対する改修をFT-17へと応用したものであったとされる。
   フランクリン社との交渉(※4)によって余剰となった数百機の発動機を格安で手に入れると共に改修計画が実った場合、同発動機を認可生産する旨の契約も安く結べたことで総費用も圧縮できている。
   それ以外の部分は従来のFT-17と変わらず、正面搭乗口の天蓋がさらに厚い装甲板に変わった程度である。

 ・ 兵装
   主砲は72口径25mm対戦車砲SA-Lを戦車砲として小改修したものを採用した。
   これは1926年にオチキス社が開発し、各方面に売り込みを続けていた対戦車砲であり、丁度対戦車砲としてフランス共和国陸軍でも採用の内定が行われた直後だった。
   計画の最中にはシャールD中戦車に搭載されていた27.6口径47mm戦車砲SA34を選ぶ案も存在したが、それを覆して同砲が選ばれたのは新たな砲塔を製造することなく、旧来の砲塔を最低限改修するだけで積み替えが可能で改修費用を抑えることが見込めたためであった。
   ただしそれでもなお費用の面から改修対象となった車両全てを72口径25mm対戦車砲SA-Lに積み替えることは叶わず、旧来の21口径37mm戦車砲SA18のまま据え置かれた車両も多い。
   また後述する理由からFT-17bisに改修されたのは砲戦車型と指揮車型に限られ、機銃車型の改修は行われていない。

791: 名無しさん :2021/07/11(日) 10:10:16 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
 ・ 運用
   相変わらず苦しい懐事情の中ではあったが、1934年始めから順次FT-17をFT-17bisに改修が進められた。
   既に旧式化して久しいFT-17軽戦車だったが、戦後から重戦車の開発と配備が長らく重視され続けたフランス共和国陸軍では2,800輌ほどが依然現役であり、第一線部隊に限っても1,700輌が運用されていた。
   このうち、120輌は懸架装置をケグレス式に換装した改修型だったため、残る1,580輌が当初対象でとされた。
   改修は計画を主導したソミュア社に加え、親会社であるシュナイダー社の工廠施設でも行われ、大きな問題も無く手早く進んでいくかに思われた。
   しかしこの動きに横槍を入れた集団が存在した。ルノー社の実質的後援を受ける陸軍内の派閥である。
   戦車に関するロビー活動を展開していた彼らは、特に新戦車開発の再開に力を入れており、世界恐慌による自動車販売の不振やシャールD中戦車の調達削減で痛手を被っていたルノー社を助け、後の新戦車開発の再開へと繋げたい思惑が存在した。
   この横槍は予算の面からも一定の支持を得てしまい、当初は第一線級部隊に属する機銃車型までを含めて改修を行う予定だったものが下方修正され、砲戦車型と指揮車型合わせて1,060輌に縮小。
   最終的に発動機のみならず、主砲換装までを含む完全な形の改修となったのは700輌程度であった。
   なお機銃車型については第一線級部隊と第二線級部隊の一部を新型の車載機関銃へと換装するに留めるとされ、これはルノー社が改修を担当することとなっている。

   こうした問題を経ながらも改修が行われたFT-17bis軽戦車は本国、並びにエストシナ植民地の独立戦車大隊を中心に配備され、第二次世界大戦の開戦を迎えている。
   だがそれぞれに配備された同車が辿った命運は明確に分かれており、本国の部隊に配備されたものは圧倒的な性能を誇るネーデルラント連合帝国陸軍と、それにこそ劣るがやはり高い性能を持っていたドイツ帝国陸軍やドナウ連邦陸軍の戦車群を前に完敗を喫し、悪戯に損害を重ねるだけであった。
   その一方でエストシナ植民地に配備され、支那共産党中央派の軍勢との交戦を強いられたものはT-26軽戦車などの軽装甲な車両が主な相手だったことが功を奏し、エストシナ植民地陸軍総司令官だったフィリップ=ペタン陸軍元帥の指揮下で勇戦。
   植民地居留者が脱出する時間を稼ぎ出すと共に“シャール=アズール”ことS41騎兵戦車が占領下の本国で生産され、国際連盟軍として現地に到着するまでの期間を確実に“繋いだ”。
   またペタン諸島(舟山群島)まで撤退に成功した一部は後の大陸反攻にも加わっており、第一次世界大戦からの老兵として有終の美を飾ったと言えるであろう。


   ※1 : 第一次世界大戦末期にドイツ帝国陸軍が開発、配備した重戦車。
         全周旋回式砲塔に7.7cm野砲FK96nAを転用した主砲を備え、車体はそれに耐える装甲を持たせるという第一次世界大戦型重戦車の完成形とも言える。
         戦間期は日蘭とその影響を受けられる国々を除き、本車を重戦車の参考資料とした例が多い。

   ※2 : 第一次世界大戦半ばにドイツ帝国陸軍が開発、配備した軽戦車。
         全周旋回式砲塔に26.3口径5.7cm戦車砲Sokol、または14.5口径3.7cm戦車砲を備えていた。
         懸架装置は緩衝装置を持たない旧態依然としたものだったが、速度はFT-17にわずかながら勝り、カイザーシュラハトではGKII重戦車の背後に回り込んでの撃破を試みようとしたFT-17を悉く防いだ。

   ※3 : 大戦半ば、独断でシャール1A重戦車を発注しようとした重戦車推進派のムーレ将軍が更迭。
         そして大戦末期、FT-17軽戦車の生産を優先させるために重戦車の開発を意図的に順延させ、結果的にカイザーシュラハトによるパリ失陥の危機を招いたとしてペタン元帥とエスティエンヌ将軍が戦後に責任を取らされる形でエストシナ植民地陸軍に左遷されている。

   ※4 : 世界恐慌の影響で本業の自動車製造業が危機に陥っており、藁をも縋る思いで受け入れている。
         これによって一時は持ち直しかけたが、銀行からの債権回収に晒されて破綻。
         最終的に大日本帝国の寺路自動車工業の要請を受け入れ、その傘下のフランクリン発動機として同国に拠点を移して再出発している。

792: 名無しさん :2021/07/11(日) 10:12:57 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
以上になります。

仏陸軍「やりました……。やったんですよ!必死に!その結果がこれなんですよ!(派閥争いしながら)」

793: 名無しさん :2021/07/11(日) 10:13:35 HOST:FL1-133-203-3-79.myg.mesh.ad.jp
あ、T-34-75の時と同じく文章、画像共にwikiへの保管は自由です。

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最終更新:2021年07月13日 10:52