136: ホワイトベアー :2021/09/04(土) 20:02:37 HOST:163-139-151-176.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 第47話


1950年4月11日、欧州連合の数少ないアジアの植民地であるフランス領インドシナとオランダ領インドネシアにて植民地支配からの独立を目指すベトナム独立同盟会(以後ベトミン)とインドネシア諸民族独立連合軍が武装蜂起、後に東南アジア戦争と呼ばれる大規模な紛争がインドシナとインドネシアにて勃発した。

ベトミンはもともとは反植民地主義を唱えていたインドシナ共産党の一派であったが、共産社会の実現よりもベトナムの独立を重視する派閥であり、西欧戦争後の欧州連合の誕生でソ連とフランスが同盟関係を構築すると共産党を脱退し、ホー・チ・ミンを主席とし、ヴォー・グエン・ザップおよびファム・ヴァン・ドンがともに指導する非正規政党となった。

もっとも、この頃では当然ながらどこからの支援も受けれなかった事や、インドシナが欧州連合の前線となっていた事からフランス正規軍が多く駐留していることも合わさり、あくまでも非暴力的かつ合法的な手段での植民地からの独立を目指す組織であり、そこまで過激な勢力ではなく、むしろ独立を目指す勢力では最も穏健な勢力とも言えた。

だが、政府当局にとっては過激でなかろうが独立を求める非公式政党であることには変りなく、その他の過激な独立派組織と一纏めにして弾圧していくこととなるが、その甲斐なくベトミンは農村を中心にその勢力を拡大させていき、1940年代中盤には母体であったインドシナ共産党を越えるほどにまで成長していた。

そして、1946年に日本での女性権利向上団体による天皇陛下暗殺未遂事件やアメリカ合衆国での黒人によるロサンゼルス暴動(※1)などの各テロ事件に欧州連合(の一部)が関与していることが判明すると事態は一変、ハワイ条約機構は報復としてそれまで自重していた東アジア植民地独立運動家達への支援を積極的に行っていくように政策を変えるとベトミンの方針にも変化が見られていく。

当時の日米両国は事件の報復としてベトミンと接触を強めており、独立後にイギリス連邦及び欧州連合に加盟しないこと(積極的中立主義)を最低限の条件として極秘裏に物資の提供や軍事教練の実施などの各種支援を打診しつつ、中華民国の各軍閥に軍事的、経済的圧力と言う鞭と政府高官への賄賂と言う飴を与えて中華民国領での物資輸送と人員輸送、さらにはベトミンの領土内滞在に対する黙認を認めさせるなどベトミンを支援する動きを活発化させていた。

これを受けたベトミン指導部は帝国主義者であるアメリカや日本からの支援を受けることに思うところがあったが、現実的に考えれば何処かしらの列強の支援を受けなければ独立は不可能だと言う判断から日米の打診と支援を受け入れ、武力による独立運動を開始する。

日米の直接的な支援の下にベトミンは中国国境よりもたらされる自動小銃や短機関銃などの軽火器、対戦車ロケット、携帯式地対空ミサイルなど武器やそれらの弾薬、迷彩服、医療品、その他多くの物資や潤沢な資金、さらに中華民国内で大日本帝国陸軍特殊部隊やアメリカ戦略諜報局による教育などを受けられ、急速にその軍事力と影響力を拡大させていった。

そして、これらの軍事力強化と平行して1947年にはカオバン省やランソウ省の山中などにいくつもの拠点を設置し、武装蜂起に対しての準備を進めていくなどそれまでの穏健な方針を投げ捨てた独立戦争の準備を推し進めていく。

無論、こうしたベトミン側の動きは隠れて行われていたものの。フランス諜報部も馬鹿ではあるが無能ではない。1947年4月までには彼らは自らが長年かけてインドシナに構築した情報網から《ベトナム独立同盟会が武装蜂起を企んでいる》と言う大まかな情報をつかんでおり、ベトミンが一度蜂起してしまえば鎮圧は可能だが、その後の植民地統治に大きなシコリを残すと考えた植民地総督府はベトミンの先手を打つべく軍を動員した大規模な取り締まりを計画していた。

137: ホワイトベアー :2021/09/04(土) 20:03:24 HOST:163-139-151-176.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
この時のフランス陸軍は1個軍4個師団をインドシナに駐留させており、ベトミンの鎮圧するには十分な戦力を有していた。仮定の話になるが実際に彼らが動員されたら、いくら強化されているとは言え最低でもベトミンは大きな被害を受けることは間違いなかった。

しかし、フランスインドシナ政府と現地軍の行動は日米による欧州連合への『中国国境付近でのいかなる軍事的行動もハワイ条約機構に対しての挑発行為と見なしてありとあらゆる手段を用いて反撃を行う』という事実上の脅迫と《中国国境近くにて軍事行動を取れば満中紛争以降、中国を自らの勢力圏と欧州勢力との緩衝地域としていた日米による先制核攻撃を招きかねない》と考えたフランス本国の妨害によってこの計画は結局実行されず、ベトミンに十分な準備を整える時間を与えてしまう。

この時間を活かしたベトミンはトンキン各地に訓練を受けた戦闘員を私服で浸透させ、さらに武器や弾薬、ボディーアーマーなどの物資の集積など武装蜂起の準備を着々と進めていき、準備を終えた1950年4月11日にトンキン各地にて約10万を動員する大規模な武装蜂起を決行するにいたった。

この武装蜂起が発生したと言う報告は即座にハノイのフランス領インドシナ総督府やフランス東洋軍司令部に伝えられ、総督や軍司令官等は本国の政治家らに罵倒の言葉をあらん限り叫びながら、ようやく生意気なベトミンを叩ける大義名分に喜び駐留軍を治安維持の為に出動させた。暴動発生直後のフランス側はベトミン軍をまともな装備も持っていない暴徒集団と考えており、すぐ鎮圧できると考えていた事と暴動が発生箇所が広域であった事からフランス軍は少数の部隊を各地に展開させていった。

しかし。この時のベトミン軍はそれまでの雑多な独立派武装組織とは違い、確固たる組織体制を構築しており、さらに日米と言う二大工業大国兼技術大国の支援を受けれたことからM1自動小銃(AK-47)やM14自動小銃(AK-74)、M1931軽機関銃(PK)、M1914分隊支援火器(RPD)、M1930分隊支援火器(RPK-74)、四六式対戦車ロケット砲(AT4)、三四式携帯型対空ミサイル(FIM-43)などの先進的武器で武装し、マルチカムが施された戦闘服の上にケブラー製でNIJ規格レベルIIIAレベルの性能を誇るボディアーマーである35式防弾衣と戦闘用ヘルメットである35式鉄帽などの防具などを纏い、最携帯型トランシーバーを有し、日米式の軍隊教育を受けた戦闘能力だけなら世界トップクラスの武装組織であった。

対して当時のフランス軍の装備は本国軍でもMAS 36小銃やFM mle 1924/29軽機関銃、MAS-38短機関銃、パンツァーシュレックが主力であり、植民地軍にいたってはベルティエライフルやショーシャ軽機関銃が未だに現役であった。機甲戦力の中核もルノー FT-17 軽戦車がそれを担っており、無線システムに至っては整備すらされていない始末で、後に駐留していたドイツ系フランス軍人(ドイツ軍は条約で東南アジアに展開が不可能なのでフランス外人部隊と言う体で参戦した)から、「フランス軍はかつての大戦時と同様に戦ってる」と言う皮肉を言われる程度には装備的に遅れをとっていた。

また、戦い方に関してもベトミンは日米よりゲリラ戦を叩き込まれていたのに対して、フランス軍は前大戦や満州戦争などいわゆる正規戦を前提とした訓練しか施されておらず、フランス軍が局地的には数で劣っていた事や装備面での差と合わさりベトミン軍と接敵=敗北と言う方程式ができる程度には敗北に敗北を重ねていく。

特にフランス軍にとって重大な敗北はハノイ陥落であった。

138: ホワイトベアー :2021/09/04(土) 20:03:56 HOST:163-139-151-176.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
フランス領インドシナの首都であったハノイは植民地統治の重要施設が多くあり、1個師団8,000名の兵士が守備部隊として駐留して万全の守りを固めていた。しかし、ベトミン軍はわずか半月でハノイ周辺の部隊を撃破することでハノイを包囲、同都市に浸透していたベトミン軍部隊と共同で攻撃を開始一ヶ月近い激戦後にインドシナ方面軍司令部やインドシナ総督府などが占拠され、フランス軍全体の指揮系統が一時的にではあるが麻痺してしまった。

この為、フランス軍はフランス領インドシナ北部の戦場での指揮統制をとることが不可能になってしまい、数が多いベトミン軍に圧倒される形でドンフォイ以南の地域へと叩き出されてしまった。

しかし、ベトミン軍も完全な勝利を迎える事はできず、勢いに乗って南部ベトナムを奪還せんと攻勢に出たものの、体制を立て直したフランス軍が東洋艦隊の援護の下にドンフォイにてこれを撃退。以後一進一退の激戦を繰り広げるもドンフォイ以南は死守し続けた。

ハノイ陥落の陥落とインドシナ北部の奪還を受け、翌12日にはホーチミンが飛行機を使い中華民国からハノイに入り、旧インドシナ総督府にてフランスからの完全なる独立とベトナム民主共和国の樹立とフランス軍の完全撤兵と5年後の南部でのベトナム民主共和国合流の意思確認を行う選挙の実施を条件にフランス側への和平の打診をハノイにいた世界各国のマスコミに宣言。また、フランスに見切りをつけたラオスもどさくさに紛れて独立を宣言する。これを受けた日米は正式にベトナム民主共和国およびラオス王国を即座に承認、国交を結ぶと同時に本腰を入れた軍事援助を開始する。

日米からの支援はベトミン改めて新生ベトナム民主共和国軍の重武装化と規模の拡大に大きく寄与する事になるが、それが効果を表すまでには今しばらく時間が必要であった。

一方欧州では、インドシナでの戦況を事態を重く受け止めたフランス本国政府はベトミンの提案を、「ここで引けばアフリカ植民地の今後の統治に響く」として拒絶。ドイツやソ連などの欧州連合加盟国の支持を得た上で、『ベトナム民主共和国の独立宣言は無効であり、ベトナム民主共和国を名乗りベトナム北部を不法占領する武装勢力には断固とした対応を取る』と大々的に宣言する。合わせて従来の植民地支配ではフランス領インドシナのこれ以上の統治は難しいと考え、ベトナム南部に傀儡とは言え名目上は独立国であるコーチシナ共和国とカンボジア王国を成立させた。

これら2ヶ国は成立はイギリスの新しい植民地統治方法をモデルとし、植民地にある程度の自治権を認めるフランス連合構想にもとずいた行動であり、コーチシナ共和国の成立から前後してフランスはインドシナに連合傘下の「インドシナ連邦」を置き、その連邦の枠内で各国に自治を認める方針を発表する。

そして、インドシナの平和と秩序を維持するためと称してフランス本国から1個機甲師団、4個歩兵師団を中核とした第3軍と3個空挺旅団を中核とする第1空挺軍、アフリカ植民地から植民地軍6個師団を動員、計25万人からなる大規模な援軍をインドシナに送り込む事を決定。フランスの盟友であるドイツやソ連もフランスへの支援を表明し、1億米ドル近い資金や膨大な軍需品がフランスに提供され、さらに5万近いゲルマン系の兵士やスラブ系の兵士がフランス外人部隊に入隊するなどベトナム北部への軍事的意欲を隠そうとすらしなかった。

こうした欧州連合側の動きに対して、ベトミンのパトロンである日米両政府は共同で
『フランスならびその同盟国は本来なら平和的に解決可能な事態とベトナム民主共和国の平和への願いを一方的かつ強引に軍事的と言う短慮な方法で抑え付けようとしている。自由と平等を愛し、平和を願う我ら両国はこうした野蛮な行動を非難するとともにフランスならびその同盟国に反省を促す為に以下の制裁を加える』
と言う欧州連合から「鏡を見やがれこのファ○キン野郎が!!」や「どの口が平等を愛し、平和を望むとか言えるだよ!!」とか言われかねない声明と東南アジアの植民地での戦闘行為が続く限り欧州連合加盟国国籍の船舶ならび同国国内の組織より依頼を受けて運行する全ての艦船のパナマ運河ならびスエズ運河の使用禁止。両国国内にある欧州連合加盟国財産ならび同国政府・軍高官の財産の凍結などの制裁を発表。コンスタンティノープル条約によってハワイ条約機構加盟国以外で唯一最恵国待遇でスエズ運河の使用が可能なイギリスは中立を宣言。ハワイ条約機構・欧州連合双方の軍需品の輸送を拒否した為にフランス軍の補給能力がバルト艦隊する羽目になった為、フランス軍は圧倒的な補給が確約されているベトミン相手に途絶え途絶えの補給で地獄のゲリラ戦を戦うことになる。

139: ホワイトベアー :2021/09/04(土) 20:07:02 HOST:163-139-151-176.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上になります。wikiへの転載はOKです。久々の日米枢軸ルート本編となります。

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最終更新:2021年09月06日 10:53