469: 影真似 :2022/02/13(日) 14:35:39 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
投下無し確認。

夢幻世界 小ネタ 「大鷲は東へ飛び去った」

「アメリカ軍はアメリカの国是である自由民主主義への供物としてその命運を終えた」
―アメリカによる国際連合設立の報告を受けたダグラス・マッカーサーの独白。この後、アメリカ本国に偽装して日本への降伏を行い、数奇な運命をたどることになる。


後世、WW2における研究において歴史をかじった人間なら誰もが思うであろうことがある。それは「アメリカ軍の醜態ぶり」である。
WW1からWW2へと至る戦間期においては日独英全てからその潜在能力を警戒されていたが、蓋を開けてみれば軍事計画は初動の電撃的侵攻も含め現実的な側面よりも理想的な側面を重視する者ばかりで、兵士に至っては自らを正義として疑わない血に酔った新兵たちが度重なる戦争犯罪を仕出かすという「戦争をお遊戯会か何かと勘違いしていらっしゃる?」と言うような有様であった。
前者においては軍部とホワイトハウス合作の「ぼくのかんがえたさいきょうのけいかく」を軍部にほぼ丸投げしていたことが判明しており、最初のイベリア半島侵攻までが想定以上に上手くいってしまったため、それを過熱するように煽るマスコミと熱狂する民衆、自らが正しかったとドヤ顔で言いながら手柄を総取りし、次の「計画」と国際連合内での調節を軍部と国務省に実質丸投げした挙句、その場のノリで次の戦争計画を立てているホワイトハウスという地獄のような構図が出来上がり、WW2におけるアメリカの軍事計画は初動の電撃戦の焼き直しや艦隊決戦をメインとしたものが多発するという有様であった。ある意味では、アメリカ軍は戦争以前に守るべき国によってその土台を滅茶苦茶にされた最大の被害者であった。

そうした全ての元凶ともいえるポピュリズムの暴走が本格的に加速したのはWWI後のことである。戦争では日本の派遣軍のインパクトに負け、その後のルール占領事件のゴタゴタでアメリカのことなど世界は気にも留めていなかった。中年米では、何故か日本が肩入れしていたメキシコとアルゼンチンが大きく成長し自国の干渉を生意気にも跳ね除け始め、それ以外の国ではトロツキストの暗躍が徐々に活発になっていたため棍棒を振舞わすことが出来ず、トドメに自らが爆心地となった世界恐慌により日英陣営のブロック経済から締め出されたことで自らを神に祝福された新大陸を有する現代のローマ帝国という自尊心と鬱憤が爆発しポピュリズムが後戻りできない所まで進行した。

470: 影真似 :2022/02/13(日) 14:37:13 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
そうした情勢で世界恐慌への対抗策としてアメリカは暴走する国民の自尊心を分かりやすく満たす形として戦艦の製造を大々的に行うこととなる。これは当時の大統領であったルーズベルト大統領が国民の権利と自由を侵害するとして大反対され実現できなかったニューディール政策を戦艦を中心とした関連事業を中心にアレンジしなおした苦肉の策であったが、当時のホワイトハウス内部のポピュリズム派閥やメディアによって超巨大戦艦の建造計画という情報のみが過剰に報道され、国民も日英を粉砕することが出来るという希望と願望によってあれよあれよと飛びついたことでアメリカはポピュリズムによって大艦巨砲主義に傾倒することになり、1930年のロンドン海軍軍縮条約において交渉を一方的に打ち切り、日英陣営との亀裂を決定的なものとすることになった。(アメリカ国内のメディアでは、条約会議において一方的に退席したことを「アメリカの正義に基づいた英雄的行動」とバイアスをかけて報道し、国民の日英陣営への敵対心を煽った)
その流れはやがて「国民受け」を狙う見栄えの良い戦艦を作るような流れを生み出し、若年層を中心に大艦巨砲過激主義が生またのである。彼らは政府とメディア、世論によって生み出されたポピュリズムの代行者そのものであり、大艦巨砲主義と大きくアピールすることで軍部での影響力を拡大していった。こうした過剰な大艦巨砲主義への系統は空母や航空機などの航空主兵論者や陸軍はおろか、アーネスト・キング等の海軍の重鎮たちの反発を大きく呼ぶこととなったが、彼らは守るべき国民と政府によって追いやられることになる。
ポピュリズムによってまとめっていたが既に独自路線を行う勢力が跋扈していた政府では、批判を繰り返す軍人たちをそれぞれの勢力が独自にマスコミにリークし、世論を盛大に煽ることとなった。それをみた国民は正義は我々にあると水を得た魚のように彼らを「国民の希望と誇りを奪おうとする恥知らずの軍人と」盛大なバッシングとデモを連日のように行い続け、それをいいことに彼らは次々と閑職に追いやられるも、国への愛国心も持って必死に理性を保っていた。そうした現状に怒りを露わにし、否をたたきつけたのが空軍独立論者で戦艦無用論を提唱し続け軍法会議によって1926年に除隊されていたウィリアム・ミッチェルであった。このままではアメリカ軍、否アメリカという国家が致命的な間違いを感じてしまうと感じた彼は過去の軍法会議で唯一除隊に反対したマッカーサーへ相談し、「万が一のことがあれば軍の皆を頼む」と言って、彼の静止を振り切って最後の献身としてホワイトハウス前での演説を行った。

471: 影真似 :2022/02/13(日) 14:40:14 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
しかし、演説は途中で激高した一部の民衆によるリンチによって中断され、ミッチェルは1932年5月15日に帰らぬ人となった。
この出来事は、アメリカで追いやられていた軍人たちに大きな衝撃と祖国に対する失望を感じさせた。そこに後世では「ポピュリズムに対する最後の防波堤」と言われるルーズベルト大統領がこのままでは民衆によってアメリカ軍部の崩壊が起こるとして怒りを露わにしたままのマッカーサーとの交渉を行い、当時問題となっていたボーナスアーミーと言われていた退役軍人、レインボー師団のメンバー、閑職に追いやられていた・あるいは失望した一部軍人などを纏めて表向きフィリピンにおける対日防衛力の強化として纏めてフィリピン勤務を命じたのである。7月28日から始まった彼らの大移動には当時国内で差別が始まっていた日系人や富裕層ではないユダヤ系も便乗して多数フィリピンへと移動していった。キングなどの海軍重鎮たちは動こうものならアメリカに対して致命的な混乱を招くとしてなんとか自制したものの、こうした動きに対して、アメリカ世論は「新大陸を追放された国民の弾圧者」などと好き勝手に煽り続けたことでフィリピンとアメリカ本土の溝は深まることとなる。
この大移動はアメリカ戦闘機のターニングポイントとも呼ばれる。1920年代に設立された航空会社の数々は世論が大艦巨砲主義一色で航空主兵論が否定されるようになったところに間もなく、大恐慌に加えて過熱する世論の影響で航空業界の暗黒時代が到来していた。
その為、買収するような資金や機会が大きく消滅しも自らの会社の利益をどうにかして確保しようとしたことを優先したため、買収や合併もされずに経営破綻の危機が危ぶまれる会社の数々はこのまま潰れるのを待つならば、と一発逆転の賭けに出て本土からフィリピンに進出するケースが多く存在した。そうしたケースにおける代表的な例を軽く挙げても、ノースアメリカン、
ノースロップ、グラマン、ダグラス・エアクラフトと後世から見れば豪華メンバーが勢揃いしており、世論の影響で倒産したまま誰も買収しなかったロッキード社の元社員と恐慌と世論の余波でより良い環境を求めて便乗したフレデリック・レンチュラをローレンス・ベルがまとめ上げてフィリピン現地で設立したベル・エアクラフトやマクドネル・エアクラフトなども頭角を現した。
それらの会社は他にも進出してきたり現地で頭角を現してきたりした航空会社と激しい競争を繰り返し、幾多の吸収合併を得て研磨を繰り返し、ある程度落ち着いた頃にはワスプエンジンと先鋭的な機体でトップを独走するベル・エアクラフトとそれに対抗するかのように現地での合併吸収と成長を続けたマクドネル・ダグラス、ノースロップ・グラマンの三強体制が築かれることになった。
また、航空業界の競争過熱に比例するかのように、軍部では如何にして戦艦も用いず、または空母と併用して戦艦を沈めるかが活発に議論され、潜水艦に関してもフィリピンに移動してきた多数の関係者が対戦艦に対抗するための戦略を練ろうと躍起になっており、対日と言うよりは対戦艦、それもアメリカの戦艦を仮想的としていたほどである。

472: 影真似 :2022/02/13(日) 14:43:29 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
一方で、フィリピンに移動してきた航空企業が資金をどこから調達してかというと、その答えはミンダナオ島のダバオにある日本人町であった。フィリピンは1909年に「ペイン・アードリッチ関税法」というアメリカからの輸出は無制限・無関税であるのに対し、その逆は一定の割当制が採られるという理不尽な条約が締結されていたことに加え、砂糖などの金になる輸出作物を重視し米などの食料作物を軽視する方針が採られており、フィリピンへの軍人たちの大移動後は「裏切りへの懲罰」として世論の意のままにフィリピンの商品に一部関税を設けるなどの愚策を強行されていたフィリピン内の状況を見ていた、当時マニラ麻を中心に現地で商売をしていた日系企業は、「これが同じ国の同胞に行う仕打ちか」と憤慨し、新たにフィリピンに来た軍人たちや企業への食料提供や土地を確保するための現地住人との交渉などを独自に善意で行い始めた。その最中に、アメリカの航空会社の企業が中心と聞くと、日系企業は「ならフィリピン全土を飛び回わって、日本にも行ける民間機が欲しい」とこぼして製造されたのが民間航空機であり、これが日系企業と現地に移動してきたアメリカ航空会社の関係の始まりであった。特に日本大陸本土に本社への報告をする際に現地で製造してもらった民間航空機で本土に来ればその性能の良さに他の日本企業も目を付け、彼らがフィリピンに渡ってきた経緯を聞くや否や、あっという間に注文が増加した。無論、単なる善意というわけでなく、広大な日本大陸での商売において大衆向けではない社用向けの民間航空機の存在は新たな市場の開拓となっており、妙な海外信仰と本国で起きた追放劇という二重効果によって、フィリピンに進出して来た航空企業はダバオにある日本人町をある種の抜け道として日本本土との取引を行っていた。
こうした動きは、イギリスはフィリピンとアメリカ本土の分断を進行させると黙認(決して日本が制御できないからというわけではない)、アメリカでもルーズベルト大統領がこの流れを許容しつつも本人が暗殺未遂に巻き込まれるまで黙認していた。その理由として、彼はイギリスやドイツも関わってくる可能性の高い対日戦略のリスクは極めて大きく、中華民国の市場を通じて経済回復を行った方がまだ現実的という意見を持っていたことや、下部を中心にポピュリズムの浸透が進み、フィリピンへと去らなかった現実を見据えていった非ポピュリズム派閥の重鎮であったキングだけでなくスプルーアンスやハルゼーと言った有能な人材までも次々と追放、あるいは閑職に追い込まれかけていた軍部の現状を打開しようとマッカーサーと秘密裏に連絡を取り合うことだけでなく、ソ連のスパイ網拡大を把握しつつも許容してまで、ポピュリズム勢力の衰退を狙っており、ニューディール政策と中華市場への大規模介入を行うことでアメリカの経済回復を夢見ていたが、それがホワイトハウス内部のポピュリズムの一部派閥へ察知されたことで暗殺騒動に繋がったとされる説が根強い。

473: 影真似 :2022/02/13(日) 14:45:33 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
フィリピンとは打って変わってアメリカ本土の様子を見てみると、戦闘機事情は悲惨なものであった。多数の航空会社が本土を去った結果、中小航空メーカーを吸収しながら巨大化したボーイングと軍部との関係が深かったことで生き延びることが出来たカーチス・ライトの二社が二大勢力となったが、大移動した大量の軍人たちの穴を埋めるかのように熱に浮かされるまま『アメリカン・ジャスティス』を信じる下士官が大量に昇進し、その穴をさらに同じように熱に浮かされた若者たちが埋めたことで上層部を除き下が瞬く間にポピュリズム一色で染まった結果、軍艦以外の兵器に対する予算が激減したのである。特に、基準排水量が最低でも85000トンを超える超大型戦艦「ユナイテッド・ステーツ級建造計画」が国家の威信をかけて進行していた状況において、戦闘機ではカーチス社のホークシリーズ等の流用で基本的には事足ると軍部で判断され、ボーイング社に至ってはP-26がホークシリーズに劣ると判断されたため、超大型戦略爆撃機の計画アピールを行うも多数の大艦巨砲主義者と無駄な予算を使いたくない財務省にこれでもかと酷評されたことで、失望した超大型戦略爆撃機の部門メンバーが丸ごとフィリピンに移動し、ベル・エアクラフトに丸ごと抱え込まれて以降、失意のまま戦闘機製造から撤退し民間機市場のみに関わることとなった。
この後、アメリカ航空界では民間機のボーイング、軍用機のカーチスとして役割分担がされ、カーチス社が少ない予算で死力を尽くし、横須賀奇襲に使用される機体の原型であるSB2Cシリーズを開発し、その成果を発揮してもある程度現実を見据えた軍部上層部の声をかき消すように大艦巨砲主義者の巣窟になっていた軍部にとっては、戦闘機はあくまでも艦隊決戦を補助するものでしかなかった。

時計の針を進め、各地で常識を疑うような出来事が玉突き事故のように重なり、オーストラリア・アメリカ連合軍がニューギニア等へ大規模侵略を行っている時、フィリピンは表向き対日戦略の構築を本土に報告しながらも完全に沈黙を保っていた、否正確には本土の正気を疑っていた。そしてアメリカが国際連合の設立を宣言したとの情報を把握したマッカーサーなどのフィリピン師団はフィリピン自治政府との合意の上で日本軍との単独交渉を開始、その結果表向き敗北後フィリピンから脱出しようとしたマッカーサーが捉えられたことで降伏したとの情報をアメリカの士気を下げるために偽装し、フィリピン共和国として独立した上で単独降伏を行った。

474: 影真似 :2022/02/13(日) 14:47:12 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
そして、秘密裏に行われた裏交渉での内容の大まかな内容して求められたのは「独立したフィリピン共和国に関しては、アメリカに関連する一切の責任を追及しない代わりに、イベリア半島における派兵を行う」、つまり、その身の潔白は血をもって証明せよというシンプルかつ単純なものであった。いくらお人好しな民族性だからと言って、宣戦布告も無しに外交に来ていた英国王族を始め多数の民間人を爆殺した挙句、それを正義の行いと言いふらす恥知らずにも程がある行動は、元々現地で付き合いのある日本人を例外として「あいつらも冷酷非情なアメリカ人なのか」という疑惑を持つなという方が無理な話である(断定とまではいかないのが彼らの民族性を現している)。
この講和条件は一時フィリピン内のアメリカ軍人たちの間でも控えめな論争が行われたが最終的には受託する形で決定した。
その大きな理由として、かつて自分たちが誇りを持って掲げていたアメリカ軍人という証を、同じ証を持ったものがイベリア半島にて現在進行形で地に貶めていたことに対する禊であり、「偉大な理想と信念を持ったアメリカ合衆国」に対する最後の愛国心であったとされている。
この情報がアメリカで大々的に報道されなかった理由としては、ユダヤネットワークを全力で駆使した活動、及びユダヤ広告主、ユダヤ新聞、ユダヤ記者、ユダヤ購買者、ユダヤ人広告依頼者と非常に深い関係を持っていた全アメリカ新聞発行部数の3分の1を占めていたハースト系新聞社の暗躍抜きで語ることは出来ないであろう。加えて、モルガンやロックフェラークーン・ローブ、等のユダヤ系財閥も表向きは「愛国心」等の国民にひびきの良いことを看板に次々と真っ先に日本の攻勢が考えられる西海岸へ比重を傾けていったが、これは彼らが日英と共謀して西海岸の再編事業に入り込み地道に日英の非爆撃地点に彼らの勢力を密集させ、日本がスムーズに西海岸を攻略できるインフラの整備、そしてアメリカ国民やアメリカの軍事施設を出来る限り密集させる等の仕込みをアメリカのポピュリズムの暴走時から地道に行っており、アメリカ内乱時には彼らも多少の犠牲は払ったものの混乱に乗じてロッキー山脈西以降からアメリカ勢力の駆逐を日本と共同で行ったことで、戦後西海岸全域をユダヤ人独占国家であるシオン連邦共和国という大金星を勝ち取っている。
(また、同国は2011年時にアメリカ共和国が企てた世界同時核多発テロ計画未遂においてMI6と共同でモサドが計画の情報を手に入れることに貢献している)

475: 影真似 :2022/02/13(日) 15:02:31 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
話を戻し、フィリピン共和国の派遣軍としてイベリア半島に向かったマッカーサーらは、日英の装備に身を包み、オスマン帝国やイタリアの協力、コルシカ島の独立運動を隠れ蓑にしたこともあってサルデーニャ島に到達。そこからまずは、アメリカとの陣取り合戦が行われていたバレアレス諸島に対して航空機による奇襲爆撃を実行し、援軍を想定していなかったアメリカ軍を撃破しながら同諸島を確保。続いて、スペインの南東部のアメリカ軍勢力を撃破するために行われたアリカンテ上陸作戦では鬼神のごとき活躍によってアメリカ軍は次々と駆逐されていき、現地のスペイン住民はその身をもって自分たちのために戦い続ける姿に徐々に心を絆され、イベリア半島南東部からアメリカ軍の駆逐した際には喝采を挙げながら「フィリピン軍」を祝福していた。その後は、太平洋戦線にてアメリカ海軍の「ユナイテッド・ステーツ級が日本の戦闘機によって手も足も出ずに撃沈」という決定的な敗北が起こったタイミングでフィリピン共和国の独立とイベリア半島の援軍の正体が彼らであることを暴露し、全アメリカ国民が激しく動揺。特に、太平洋戦線の状況悪化やドイツの徹底的な補給線の破壊に加え、イベリア半島で徐々に劣勢になっていた現地アメリカ軍は発狂し、集団自殺とまで言われた「第二次バトルオブブリテン」に突入していくこととなる。また、アメリカ軍によって多数の不発弾と人間の死体が散乱した南西部の一部では、汚染によって人が住むことが出来なくなった地域が発生しており、この問題は該当地域の土壌を丸ごとくりぬいた上で、汚染された土壌を2011年に消滅した元アメリカ共和国跡地に建設された国際最終廃棄物処理場にて処理するという強引な方法によって、地域環境再生のスタートラインに立つことが出来た。

一方で、フィリピンの元アメリカ所属の航空企業はチベットにて行われ、総数5000万以上の死傷者を出した印華戦やアメリカ解体時において活躍した超大型爆撃機や戦闘機の開発チームにベル・エアクラフトを始めとした数社が参加した以外は、日英陣営の戦闘機のライセンス生産に従事しており、予算の関係上計画案のみで終わっていた案に使えると思ったものがあれば三菱や中島などの生産元と交渉して、コネを構築するなどを行い、戦後においては、日英の大手航空企業と提携を結び、ライセンス生産で培ったノウハウを生かして、ビジネスジェットや独自の戦闘機開発の発展において大きく貢献していった。

最後に、マッカーサー達のその後に簡単に触れていく。彼らは現地で農園を営むのどかな生活を送るか、現地の政治家・官僚としてかつての祖国の二の舞にならぬよう国家運営に従事するという今までの反動か軍人であることを辞めて新たな道を歩む二パターンに大きく分かれることが大半であったが、マッカーサーはフィリピン陸軍特別顧問として元レインボー師団のメンバーと共に国防を担う次世代を育成することに心血を注ぎ、晩年には、ウィリアム・ミッチェルの銅像がフィリピン空軍の象徴として建てられたのをみて「これでゆっくり休める」と言って安らかに眠った。

476: 影真似 :2022/02/13(日) 15:04:24 HOST:182-165-183-108f1.osk2.eonet.ne.jp
以上です。

多少、ユダヤ系の暗躍で寄り道してグダったり、荒削りな内容ですが、ポピュリズムが暴走したことへの軍への影響がイベリア半島、しいてはアメリカそのものに帰ってきたというだけの話です。史実日本要素として、自国の技術に対して価値を見出せなかった(アンテナ関係)、艦隊決戦至上主義への傾倒をポピュリズムという劇物で悪化させた結果、マッカーサー率いるフィリピン共和国が史実442連隊が日系人という偏見を血で拭ったようにアメリカ人という偏見を血で拭ったり、世論がヒートアップした結果「そんなにボロカス言うならフィリピン行くわ」と
多数ネームド航空企業がフィリピンに行った結果、多数の名機が計画のみで終わったりと多数のトンデモバタフライエフェクトが発生しました。
多分、この世界のWW2後期や戦後に日英側で開発された戦闘機・航空機には本来ならば生産された数々の名機のエッセンスが散りばめられているでしょう。

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最終更新:2022年02月18日 14:13