114: 名無しさん :2022/04/08(金) 23:00:30 HOST:sp1-79-88-169.msb.spmode.ne.jp
近似世界 20世紀前半
第二次世界大戦への道
欧州の異変
事の始まりは、第一次世界大戦における“事実上の引き分け”だった。
1914年、ユーゴスラビアの民族主義者カヴリロ・プリンツィプによって引き起こされたオーストリア皇太子暗殺……通称サラエボ事件は、オーストリアによるセルビアへの最後通牒と、それによる欧州各国の戦争計画の連鎖的発動を誘発させ、瞬く間に全世界を戦争へと巻き込んだ。
そうして世界が英仏中心の連合国とドイツ帝国盟主の中央同盟国に色分けされ、史実通りドイツ陸軍がベルギーからフランスへ雪崩れ込んだ所から、最初の齟齬は発生する。
シュリーフェンプランに従って行われたドイツ軍の侵攻は、
夢幻会の大方の予想に反して大きな滞りもなく進み、マルヌ会戦にてフランス軍を総崩れに貶め、勢いそのままにパリへと突入したのだった。
このドイツ帝国軍の成功の裏にあったのは、東洋の超大国・日本の存在だった。
10年前の日露戦争の終盤に行われた日本によるペテルブルグ直接攻撃は、地球の裏側の出来事だからと関心が低く他人事だった欧州諸国に大きな衝撃をもたらした。
特に、自国の目と鼻の先を日本海軍が通過していったドイツ帝国の驚きは一番のもので、彼らを受けた衝撃そのままに軍民問わぬ“日本研究”へと走らせたのだった。
その結果早期に配備されたA7V等の戦車や、本格的な武装を施した航空機、無線電信、そして大量の自動車は、無理のある計画だった筈のシュリーフェンプランに一定の実現性を与えてしまった。
尚且つ、史実にてドイツ帝国の背後を襲うことでその快進撃に歯止めを掛けたロシア帝国だが、この世界では日露戦争の後遺症によって社会経済が早くも不安定化。
動員を始めたものの遅々として進まず、更にはそれが原因で社会不安を招き、国そのものが揺らぎはじめていた。
後にロシアは革命騒ぎによって、戦わずして戦争から離脱することになる。
パリ占領後、ドイツ帝国軍は講和不成立と見ると直ぐさま消耗抑制へと姿勢を変更して防御を固めた。
それに対し、パリを奪還しようと積極的かつ無謀な攻勢を繰り返すフランス軍とそれに付き合わされるイギリス軍らの損害が積み重なっていく。
連合国側で参戦した日本は、比較的小規模ながらも高度に機械化された機甲師団を送り込み、フランスの大地で縦横無尽にドイツ帝国軍の防衛線を引き裂いた。
しかし、その傷口を広げ戦線を押し上げる役目となる筈の英仏軍が既に息切れしており、思うように前進することは叶わなかった。
とはいえ日本でも、欧州の大地で数百万の敵軍を真正面から押し返す軍勢を直ぐに用意することはできない。
アメリカが参戦して200万の軍隊が新たに荷揚げされたのは良いものの、それもドイツの塹壕線を前に積み上げられる屍の山を高くするだけだった。
結果として、日本が本腰を入れて対処しようと準備を進めていた頃に史実通りキール軍港の水兵反乱からドイツ革命が勃発。
そのまま、ドイツ側がパリを保持した状態で講和条約が開始された。
史実と違い軍事的な余力を残しきったドイツと対照的に、人材が払底し始め息切れした英仏、予想外の損害に及び腰となった米と、事実上の引き分けの状態で戦争が終わってしまったのだ。
名目上は帝政が崩壊したドイツ率いる中央同盟側が敗戦国とされ、実際に賠償金の支払いや、ある程度の領土割譲も行われた。しかし、これらの要求額は史実に比べ低く抑えられたものだった。さらには軍備制限もなく、ドイツとしては史実に比べて非常に恵まれた状態だった。
その他の国に関しても、反乱祭りとなったオスマン帝国は解体されたものの、ブルガリア王国は領土割譲を免れる等、有利な状態で戦争を切り抜けた。
決定的な被害を免れたオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアを手放しつつもなんとか存続したが、元々国として疲弊していたのに加えて浪費した戦費によって経済が不安定化し、以後ドイツへの経済的な依存・従属が進んでいくこととなる。
115: 名無しさん :2022/04/08(金) 23:01:25 HOST:sp1-79-88-169.msb.spmode.ne.jp
東洋の変革
1911年、中華の地では大きな変革が訪れていた。
南明出身の思想家、孫文の影響を受けた共和革命……辛亥革命である。
この革命で中原を支配していた清帝国は倒れ、共和制の中華民国が成立することとなる。以後、孫文から袁世凱、段祺瑞、張作林と政権を経るにつれ中華民国政府は段々と強権的になりつつも、国の近代化・工業化に邁進していった。
史実にてこの後の中華分裂の原因となった第二次、第三次革命は、革命の発端となった南方諸省が、この世界ではそもそも南明という別の国だった為に不発に終わったのだった。
この時、中華民国に手を差し伸べていたのはドイツと
アメリカの2国だった。
ドイツは植民地競争の出遅れから中華に影響力を持とうとし、中華民国としても露骨な進出を行う英仏と比べ、帝国主義的意識を露にしていなかったドイツからの助けは歓迎できるものだった。
アメリカも、日露戦争後に日本の黙認を得て経済進出している朝鮮に次ぐ、新たな“フロンティア”として欧州諸国が独占する中華市場を狙い、そのマネーパワーを行使した。
この2国の協力もあり、中華民国はソ連五ヵ年計画にも匹敵する勢いで急速な工業化を成していくこととなる。
他方、清帝国崩壊時に独立したチベットとモンゴルについては、中国とは対照的に日本が積極的に関係し、その独立と中立を保障する覚書にサインしている。
これは、将来的な中華の膨張を防ぐ為の政策だったと言われている。
また元々は中華王朝だった南明だが、象徴としての皇室は残りつつも、日本の介入の元過ごした300年近い時間は極めて深い中華との意識的な断絶をもたらし、もはや完全に別の国としてのアイデンティティを保持していた為、北方での革命騒ぎについては極めて冷静に静観していた。
二度の海軍軍縮条約
1920年のワシントン海軍軍縮条約、1930年のロンドン海軍軍縮条約は何事も無く無事に締結された。
2度の会議を通じて決定された、艦艇保有比率の大まかな内訳は
5(日):5(米):5(英):2(仏):2(伊):1(独)
である。
日本の潜在的国力から言えば10(日):5(米英)を主張する事も可能だったが、個艦性能で十分優越できると判断した日本の譲歩によって日米英同量となった。
常日頃から巨大な日本への対応に苦悩しており、日本の保有率をなんとか自国の1.5倍程度に抑えられないかと悩んでいた米英両国の関係者は、そうとは知らずに胸を撫で下ろしたのだった。
ワシントン会議にて、日英という2大海軍国に挟まれている
アメリカが強く求めていた日英同盟の破棄は、中華及び大西洋での利権の相互尊重を取り決めた4ヵ国条約にて発展的解消という形で達成された。
日本側は、国際情勢の推移から
アメリカの警戒心を買ってまで日英同盟を維持する程の理由は無かった為、積極的な賛成ではないものの前向きに検討していた。
また、
夢幻会が日英同盟存続によって発生する「英国の背後には超大国・日本が控えている」という状態が、昭号計画に従い史実をなぞって第二次世界大戦を導くルート上でどういった作用を引き起こすか予測を付けられなかった事もある。
衰退著しいイギリスは同盟解消をかなり渋ったものの、日米両国の間でバランスを取る事を考えた際には
アメリカにも一定の融和を見せなければならない事から、最終的には同意したのだった。
116: 名無しさん :2022/04/08(金) 23:04:36 HOST:sp1-79-88-169.msb.spmode.ne.jp
以上となります。
いい感じにやろうとしても、うまくいかないことはそれなりにあるという所でした。
大戦も早く書いていきたい…(時間が無い)
最終更新:2022年04月09日 11:08