381: yukikaze :2022/05/03(火) 16:18:34 HOST:p308016-ipngn200406kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
ようし。やっとできたぞ。ロマン以外考えていない戦車が。
三式重戦車 『ジオ』
全長: 10.00m
車体長: 6.67m
全幅: 3.07m
全高: 2.44m
全備重量: 45.8t
乗員: 4名
エンジン: 三菱12HM20WT 4ストロークV型12気筒空冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 570hp/2,100rpm
最大速度: 34km/h
航続距離: 150km
武装: 三式55口径105mm対戦車砲×1 (45発)
九七式車載7.7mm重機関銃×2 (5,400発)
装甲厚: 20~180mm(増加装甲含む)
(解説)
帝国陸軍が1943年に採用した重戦車。
帝国陸軍において最大最強の戦車であり、数こそ少なかったものの、沖縄戦や樺太を巡る戦いにおいて獅子奮迅の活躍をみせ、帝国陸軍機甲部隊の有終の美を見せつけるとともに、国防陸軍においても、同戦車の影響を多大に受けた61式中戦車の採用を促すことになる。
三式重戦車が生まれた直接的な原因は、1939年に行われたノモンハン事変である。
軍事的には日本軍の辛勝、政治的にはこれまで大日本帝国において傍若無人な暴力集団と化していた関東軍(並びに満州組の面々)の政治生命に止めを刺すことになったこの事変は、日本陸軍の兵器開発にも大きな影響を与えることになる。
この事変において、帝国陸軍は新鋭戦車である九七式中戦車を投入したのだが、同戦車は、陸軍技術本部が強硬に主張した45口径57㎜砲を搭載しており、ソ連軍の主力戦車であったT-26やBT-7を圧倒。陸軍兵士から「無敵の鉄牛」「無人の野を行くがごとし」と、絶賛の声を受けながら、ソ連軍を蹂躙していた。
だが、予想以上の劣勢に危機感を覚えたジューコフ将軍が、半ば強引に実戦配備間近であったKV-1戦車(史実より半年早く採用)を戦線に投入したことで、状況は悪化していく。
後に独ソ戦でドイツ軍を散々悩ませるKV-1戦車は、この戦場においてもその破格の防御力で帝国陸軍を苦戦させており、街道上に布陣していた1両のKV-1戦車のために、1個中隊の九七式中戦車が損害を受けるという事態まで引き起こすなど、帝国陸軍機甲部隊の関係者を恐慌状態に落とすことまで発生している。(もっとも、同中隊の大被害の原因は、戦車のスペック差と言うよりも、関東軍参謀の辻少佐の私物命令による無茶な進軍によるものであり、同事変で戦死し、一時軍神扱いされた辻が、戦後ボロクソに叩かれる要因となっている。)
最終的には、投入された4両のKV-1戦車は、主に技術的なトラブルによって、帝国陸軍に撃破乃至は鹵獲されることになるのだが、陸軍技術本部は運び込まれた同戦車を調査し、その結果に絶句することになる。
一言で言えば、同戦車は当時の日本にとってはオーパーツと言ってもいい存在であった。
30.5口径の76.2mm戦車砲、主要部はいずれも60mm厚の装甲防御力、日本では未だ研究室レベルであったトーションバーサスペンションの実用化、九七式中戦車に搭載した空冷ディーゼルエンジンの馬力を凌駕する液冷ディーゼルエンジンの採用。
そして50t近い戦車を実用化し、それを主力戦車として『量産』出来るという事実。
仮に九七式中戦車が、陸軍参謀本部が推していた短砲身57mm砲では絶対に対応することはできず、長砲身57mm砲を搭載させたことで何とか渡り合えたことに陸軍技術本部は安堵したものの、同時に現有の九七式中戦車のままでは、3年後には質量ともに圧倒的に不利になることは明らかであった。
こうしたことから、陸軍技術本部としては「現有の九七式中戦車の攻撃力の強化」によって、ソ連新型戦車との戦力差を縮めるとともに、ソ連新型戦車を確実に撃破できる新型戦車を開発することで、ソ連に対処しようとしたのである。
382: yukikaze :2022/05/03(火) 16:19:34 HOST:p308016-ipngn200406kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
この方針のもと産まれたのが、一式砲戦車(史実と違い、八八式75mm高射砲をベースとした戦車砲搭載)であり、新砲塔チハとも言われる九七式中戦車改(史実三式の車体に四式中戦車の砲塔を積んだ代物)であった。
いずれも、大戦中盤以降に、南方において連合国軍の戦車(シャーマン)相手に死闘を繰り広げ、
アメリカから「日本戦車侮りがたし」という評価を得ることになるのだが、その一方で、母体となる九七式中戦車がコンパクトに纏まっていた(元が57mm砲戦車であり、輸送等の関係で大きさに制限があったことから当然である)ことから、最初から75mm砲戦車として開発された他国の戦車と比べると、色々な面(特に継戦能力)で妥協していたのも事実であり、更に言えば、仮想敵戦車であるKV-1相手として考えた場合、「九七式中戦車よりはまだ戦えるもののやや劣勢」といえる代物であった。
だからこそ、「打倒KV-1」として彼らが期待をかけたものこそ、3式重戦車『ジオ』。
連合国軍から『イエロータイガー』『サムライタイガー』と呼ばれることになる重戦車である。
以後、同戦車に対する特徴を述べていく。
主砲については、KV-1戦車を1,000m以上で確実に撃破するために、55口径105mm対戦車砲を採用している。
同戦車砲は、重量30kgの砲弾を砲口初速900m/秒で撃ち出し、射距離1,000mで厚さ250mmの均質圧延装甲板の貫徹を狙った砲である。当初は、小柄な日本人の体格で、全長123cm、重量30kgの砲弾を装填するのは難しいとみられたことから、自動装填機を砲後尾に装備する予定であったが、開発に難航したことから、早期実戦配備のためにオミットされている。
そのため、砲弾重量を20kg程度にまで軽量化することにしたのだが、それでも装填手の苦労は一方ならず、分当たり2発が限界という状態であった。
もっとも、105mmという大口径砲であったことから、砲弾の威力については、通常の徹甲弾でも射距離500mで180mm、同1,000mでも165mm(いずれも装甲傾斜角=30゜における貫徹力)という代物であり、本戦車の主砲に耐えられるのは、それこそIS-3重戦車くらいであった。
それを証明するかのように、宜野湾に突入した同戦車の一度の砲撃によって、シャーマン戦車が2台撃破されるという事例も発生しており、良好な弾道性能も相まって、同戦車のスコア稼ぎに役立っている。
主砲弾については、22発が砲塔バスケットや後部張り出し部など即応弾として配置され、残りが操縦席右側にある弾庫に収納されている。45発の内訳としては、3式徹甲弾が24発、3式多目的榴弾(粘着榴弾)が21発となっている。
3式多目的榴弾については、自戦車と同等の装甲厚を備えた戦車を確実に倒すために開発された砲弾であるとともに、ベトンで作られた陣地突破用の砲弾としても期待され、戦後、同砲弾を接収したアメリカ軍も改良の上採用している。
防御構造に関しては、当時の戦車においても、破格と言っていい代物であった。
元々、同戦車は、機甲部隊の破城槌役を担っており、更には、数では絶対にソ連軍に勝てないことから、KV-1やT-34が装備する76mm砲を多数受けても簡単に撃破されないことを重要視されていた。
そうしたことから、まず、被弾確率があらゆる角度で最も高い砲塔のデザインについて、角度の深い円錐形にすることにしたのだが、ソ連と違い冶金技術が浅かった日本では、ソ連のような防弾鋳鋼構造を量産することはできず、最終的には、垂直に立った平面装甲板で構成された角張った形状の砲塔を基本構造とし、更に砲塔の前面に、大きな楔形の増加装甲ボックスが装着された他、砲塔の左右側面にも板状の増加装甲が装着されることとしている。
なお、この装甲ボックスの内部はがらんどうで、防弾鋼板製の仕切り板が傾斜を付けて縦方向に2枚挿入されているだけの簡素な構造であったが、これは成形炸薬弾に対する防御力を重視した空間装甲であり、装甲厚自体は薄いため運動エネルギー弾に対する防御力はそれほど高くない。あくまで運動エネルギー弾については、最大装甲160mmの砲塔正面装甲で受け止めることになっている。
車体前面と共に斜め方向からの被弾確率が高い車体側面上部については、下側に切れ込む形の傾斜装甲を採り入れ全高を2.44mまで抑えている。
避弾経始の向上を図って車体側面、後面共に適度な傾斜角が与えられており、特に車体側面は、成形炸薬弾などから身を守るために外壁と内壁の間に空間を設けた空間装甲を採用している。
383: yukikaze :2022/05/03(火) 16:20:12 HOST:p308016-ipngn200406kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
また、車体前面は、試作車では圧延鋼板2枚を上下部分で組み合わせて溶接したものであったが、試験を経て、さらに避弾経始を改善するため前面上部の装甲板を2枚組みにし、車体前端部が三角錐の頂点になるようなデザインとなっている。
車体前面で120mm、車体側面や後面の薄いところでも60mmという厚さ且つ40゜近い傾斜が設けられていることも相まって、生半可な攻撃では同戦車を撃破することは困難であり、車体底部も地雷に対する抗堪性向上のために船底形としていたことから、同戦車を撃破するには、それこそ「戦艦の主砲でも持ってこい」と、戦車兵に豪語させる程であった。
三式重戦車のエンジンは、最低ラインとして550hp、可能ならば600hp必要であるという試算から、九七式中戦車の心臓であった九七式統制エンジンの改良型ではなく、新規エンジンの開発が求められていた。
当初、技術本部では、鹵獲したKV-1戦車のエンジンを元に開発するのはどうかという意見が出たが、同エンジンはアルミ合金を多用し、工作精度も精密なものを要求していたこと、更には液冷エンジンであったことが嫌われることになり、使い慣れた空冷ディーゼルで開発することになった。
幸運にも、当時三菱では、試作までこぎつけたものの、戦備方針の変化によってお蔵入りした魚雷艇用エンジンがあり、魚雷艇以上に数が出ると踏んだ三菱の意向もあって、同エンジンを改修したものを、三式重戦車用エンジンとして使用することにしている。
とはいえ、同エンジンは、技術本部が求める馬力を稼ぐために、2基のターボチャージャーによって過給する必要があり、また出力、重量などを追及したため、統制ディーゼルエンジンの特徴である予燃焼室式を取りやめたことで、燃料の汎用性の高さ、圧力の低さによる製造しやすさ・扱いやすさを失い、後述する問題を引き起こすことになる。
三式重戦車の足回りについては、KV-1戦車のトーションバー方式をそのまま採用している。
技術本部にしてみれば、従来のシーソー式連動懸架では、20t級まではともかく、40tを超えるであろう重戦車用の懸架装置として使えるかは微妙であり、更に同盟国のドイツでもトーションバー方式に切り替えているのを見れば、同方式への転換は必要であると結論付けられることになる。
もっとも、コイルスプリングと比べて同じ重量で衝撃を吸収でき、そのために軽量に出来て尚且つ、まっすぐで細い為スペース効率も良い反面、コイルサスペンションよりもコストが高い事と生産性が悪いという問題は、同戦車にも例外なく押し寄せることになり、冶金技術の未熟さも相まって、足回りのトラブルは日常茶飯事であった。
なお、防御力を極限まで高めることから、前面装甲等の開口部をなくした結果、変速・操向機は後部に納められ、後部に配置した起動輪を駆動するようにしたのだが、これによりこれらの機器からの操作力の伝達は、車底に這わされた細長い金属バーを通じて行われることになり、当時の技術水準も相まって、操作に大きな力を必要することとなった。
更に言えば、同戦車のクラッチとトランスミッションも構造的な問題を抱えていた。
同戦車は、開発期間の短縮を図るために、KV-1戦車のクラッチとトランスミッションを参考にしたのだが、KV-1戦車のクラッチとトランスミッションは、重戦車用としては小ぶりに作られていたが、これが過大な負荷を作動部や接触面にかけることになった。
技術本部側もこの問題は重要視しており、それぞれ大型化して耐久性を高めようともしたのだが、そうした場合、同戦車の砲弾数などを減らすか、あるいは車体を大型化するしかなく、結果的に部品の耐久性を高める並びに予備のトランスミッション等を用意するという方策を取ることになる。(勿論、戦局の問題から、予備のトランスミッションが現場に配備されるのはまれであった。)
384: yukikaze :2022/05/03(火) 16:23:06 HOST:p308016-ipngn200406kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
こうしたことから、変速操作は、人力では停止状態でなければ不可能であり、操縦手は、ハンマーでレバーを一撃して変速操作するという状況であった。(当然、レバーの破損が続出し、ハンマーでの操作に対して禁止令が出たが、誰も守らなかった。)
また、過大な負荷によるギアやロッドの破損も多く、戦場で敵戦車に撃破されるよりも、奇しくも、ノモンハンでKV-1戦車が遺棄されたように、機械トラブルによる遺棄の方が多いという状態であった。
操縦手が「ジオ…動け…! ジオ…なぜ動かん!!」と、突然止まる車両に対して罵声を浴びせるのも、この機械系トラブルに最後まで悩まされたからであった。(なお、幅広の履帯のお陰か、悪路の機動については意外と優秀ではあった。)
そしてこの三式重戦車最大の問題は、取得費用であった。
強力な主砲に強力なエンジン、強固な装甲に、この時代の日本では贅沢なサスペンションにトランスミッション。
当然のことながら、その取得コストも跳ね上がることになり、その値段たるや、新砲塔チハの3倍、一式砲戦車の5倍という代物であった。値段を見た東条英機陸相が「優秀な戦車を作れとは言ったが、費用のことも少しは考えろ」と、怒鳴りつけたのもむべなるかなであった。
当然のことながら、同戦車の生産計画は大幅にカットされ(これが東条無能論の根拠とされているのだが、一式砲戦車や新砲塔チハでもシャーマンと戦えるのだから、同じ金額の場合、どちらを優先させるかは火を見るより明らかである)、結果的に単価が上がるという悪循環に陥っており、1943年8月に正式採用されたのち、1945年3月までに生産された数は100両程度でしかなく、それらも本土決戦のための切り札として留め置かれていた。(南方で運用するにはインフラの問題等が横たわっていたという事実もあるのだが)
だが、1945年にいよいよ戦火が本土にまで押し寄せてきたことで、いよいよ同戦車も出撃することになり、沖縄及び北海道に配備されている。この配置については陸軍内部からも「沖縄はともかく何で北海道なんだ」という異論の声が多々あがったが、阿南陸軍大臣及び梅津陸軍参謀総長は意にも留めず、淡々と兵力の移動を進めている。
この両者の判断がなければ、宜野湾への陸軍機甲部隊の突入も、千島及び南樺太での遅滞防御戦闘も成功しなかったと見られており、また、吉田機関と『クレムリンの枢機卿』との接触がこの時期からあったという理由にも繋がっている。
沖縄及び南樺太などでの活躍については、多くの書籍で記されているため割愛するが、その活躍は、「達磨」「独活の大木」扱いしていた日本陸軍将兵から「陸の戦艦」「本戦車が量産されれば連合国など物の数ではない」と絶賛され、同戦車に対する米ソの機甲部隊の将兵達にトラウマを植え付ける代物であった。
三式重戦車を更に洗練したIS-3が配備されたソ連はともかく、M26パーシングすら敗れ去ったアメリカ陸軍では、最優先で同戦車の確保を行い、徹底的なレベルで調査を行っている。
最終的にアメリカ陸軍が同戦車へのトラウマを払拭したのは、M103重戦車の採用後であったが、アメリカ陸軍戦車兵からは、シャーマンはもとより、パーシングに対しても「ジャップの戦車にあっさりやられるようなブリキの戦車などいらん」と、パーシングへの搭乗を拒否する事例が相次ぎ、M48『デイヴィー・クロケット』の早期配備が進められることになる。
余談ではあるが、アメリカ陸軍から不要扱いされたM4の引き取り先の一つが日本国防陸軍であり、M4A3E8とM36のコンビは、1950年代の日本陸軍の機甲部隊の屋台骨を支える要因となっている。
385: yukikaze :2022/05/03(火) 16:23:40 HOST:p308016-ipngn200406kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
同戦車の疑問の一つとして挙げられるのが、秘匿名称である。
『ジオ』について、日本陸軍の命名基準に従えば、『重戦車+27番目に試作された車両』であるのだが、この時点で試作されていたのは、一式砲戦車『ホニ』を含めても4種であり、通常ならば『ジホ』とされるのが適当である。
通説では、「日本陸軍が他国の諜報を混乱させるために敢えて法則を無視したのでは」とされていたが、関係者の証言では「いつのまにか『ジオ』と呼ばれていた」とされており、現在においても『ジオ』とされた理由は不明である。
もっとも、日本陸軍の命名規則も戦争が進むにつれてかなりいい加減なものになっており、(例えば新型中戦車と新型軽戦車の開発計画で『ケヌ』『チヌ』となっていたり、砲戦車においても、『ホニ』の後に『ホイ』がでるなどしている。)同戦車の命名基準が本来の基準と異なっているのも、その影響が大きかったのではと推測される。
なお、アメリカにおいて、某怪獣映画における怪獣の名前が『ジオ』とされたが、その怪獣は本家と比べるとあまりにも弱く、日本とアメリカのミリオタから「三式重戦車を舐めてんじゃねえぞ」とクレームがつくという珍事が起きている。
386: yukikaze :2022/05/03(火) 16:34:11 HOST:p308016-ipngn200406kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
投下終了。
実現性? 重量問題? 君達は日の丸をつけた重戦車が戦場を蹂躙し、
敵戦車を吹き飛ばす光景が見たくないのかね?(彼は完全に狂っていた)
スタイルとしては、IS-3をベースに、砲塔の主たる部分がレオ2A5という代物。流石に複合装甲とか無理ですんで空間装甲にしていますが。
勿論こんなもの独力で作るのは無理ですんで、史実よりも早めにロールアウトしてフィンランドではなくノモンハンに連れてこられたKV-1君を鹵獲することにしていますが。
(何気にジューコフはここで退場する羽目に。ソ連の参謀総長、ドミトリー・グリゴリエヴィッチ・パヴロフになっているだろうから、史実よりもソ連は悲惨なことに)
戦争も終盤になって出てくる&ほとんどハンドメイド物&ただしガチで強い&達磨ということで、某木星帰りの作った最後のMSもネタに。やりすぎた感はあるが。
スイカバー? 半ばやけくそになったシャーマンやパーシングがしたかもしれんが、返り討ちにあっただろうなあ。
ついでにいえば、61式戦車は、
戦後夢幻会の無砲塔戦車ではなく、征途の61式戦車に近い代物になるんじゃないかと。余りにも派手に活躍しましたので。
最終更新:2022年05月18日 19:55