321 :SARU携帯:2012/02/19(日) 00:21:25
『還(かえ)らざる川――River of no return』
1943年、日米戦争(と津波)で疲弊し、加墨戦争によって更なる荒廃が進んだ旧米墨国境地帯は周辺勢力にとっての懸案事項となっていた。
具体的には加洲共和國への帰属を決めた旧ネバダ州と傷つきながらも南部独立勢力の雄として台頭して来たテキサス共和國の間に存在するアリゾナ、ニューメキシコ両州である。
特に西側のアリゾナ州は南部に加洲にとっての死活地であるヒラ河のクーリッジ・ダムを抱えており、墨軍北進時には戦略目標となった。
列強の介入によって一応の平穏が得られた物の、自国の独立確保と勢力伸張を目指す加洲、コロラド國、テキサス共和國の角逐の地として俄かに注目を集める事となった。
既にアリゾナ州が東部難民受け入れと引き換えに加洲共和國の庇護を得ていた事から当初は飽くまでも両州の復興と自立が目標とされていた。
が、帝國の現地権利代表である加洲と白人優位的な空気から背後にドイツの影が見え隠れするテキサスの動向を鑑みて“適切な境界”を定めて分割する方向へ舵が切られた。
まず列強及び周辺勢力(加洲、コロラド、テキサス)の手によって復興委員会が編成され、旧アリゾナ、ニューメキシコ両州は峡谷暫定自治区としてその統治下に入った。
次に各地で迫害を受けているメキシコ系旧合衆國市民を自治区南部、具体的にはヒラ川左岸(南側)の指定地域に集め、元の住民は別の場所へ疎開させた。
この頃には加洲とテキサスの政治的対立が顕著となっており、コロラド國を含めて“新たなる国々のかたち”を視野に置いた自治区再分割すら当事者抜きで話し合われていた。
ここで新たな役者が舞台へと引き揚げられた――メキシコ合衆國である。
これまでもメキシコ代表は殆ど添え物の如き扱いながらオブザーバーとして委員会に同席していたが、加洲・テキサス両代表が猫撫で声じみた態度で
『旧合衆國のメキシコに対する歴史的過ちを認め、峡谷暫定自治区のヒラ川以南を返還する』
という協同声明を発表すると、メキシコの朝野は驚愕に包まれた。
長らく
アメリカに理不尽な扱いを受け、積年の恨みを晴らす段になって列強諸国によって“人類の敵”と名指しされ、結果として国家の主権すら大幅に制限される境遇に置かれていたメキシコ国民にとっては望外の吉報であった。
322 :SARU携帯:2012/02/19(日) 00:26:06
協同声明では自然国境を尊重して旧アリゾナ州の西北端(グランドキャニオンを除いた区域)が加洲に、リオ=グランデ川以東の旧ニューメキシコ州はコロラド國とテキサス共和國に割譲。
残りのコロラド川、ヒラ川、リオ=グランデ川に囲まれた区域とグランドキャニオンが新生・峡谷洲共和國(Repubric of Canyon states、通称・峡洲)として独立する旨も公表された。
述べるまでもないがこれはメキシコの為に成された事では無く、むしろメキシコの総てを隔離すべく定められていた。
加洲とテキサスが“旧合衆國の行為”について謝罪したもの、今回の処置で旧米墨間の領土問題は解消した物としてメキシコが主張する加洲からテキサスに掛けての広大な領土主張を完封した。
新国家・峡州の誕生もその一環であった。
元々、旧アリゾナ・ニューメキシコ両州は人口密度が希薄で独立国家として自立可能な社会資本も整っておらず、このままでは周辺諸勢力の草刈り場となると共に難民が無秩序に拡散し、列強諸国のアメリカ風邪封じ込めにも支障が出る恐れがあった。
加えて加墨戦争に端を発した継続戦争以後、旧米諸勢力住民は“メヒ公(シカーノ)を連想させる存在事象は見たくないし聞きたくもない”のが本音で、これを奇貨として“目障りな連中”を物理的に隔離し、更には社会的にも分離する奇手が打たれたのである。
そしてメキシコの北進を阻む新国家の名称と公用語(後者は先住民言語の尊重も並記されていた)には英語が用いられ、スペイン語起源の旧州名は跡形も無かった。
当のメキシコ系“元”合衆國市民やメキシコ国民の中でこうした真相に気付いた者は少なからず居たが、だからと言って現実としてどうにかなる物ではなく何も知らない大多数と共に上面だけの慶事に上面だけ酔っていた。
“領土返還”の付帯条項として割譲返還される地域の内、ヒラ川左岸から5マイル(フェニックス等、一部の要地は8マイル)以内を安全保障上の非武装地域(DMZ)とし、その南端から幅2マイルには地雷原が延々と敷設され完全無人化された。
難民としてヒラ川を渡った人々は今や鉄条網の遥か向こうで“国境”となって横たわるそれをこう呼んだ――還らざる川、と。
―終―
最終更新:2012年02月21日 20:54