938:yukikaze:2022/09/11(日) 00:05:03 HOST:p179063-ipngn200304kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
ようやっとできた。

61式戦車

全長:    9.53m
車体長:   6.96m
全幅:    3.59m
全高:    2.46m
全備重量:  48.0t
乗員:     3名
エンジン: 三菱12ZF22WT 2ストロークV型12気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 600hp/2,000rpm
最大速度: 42km/h
航続距離: 250km
武装:   58式45口径120mmライフル砲×1 (44発)
      12.7mm標定銃M2×1 (300発)
      7.62mm機関銃M1919A4E1×1 (6,000発)
装甲厚:  16~280mm

(解説)
国防陸軍が1961年に採用した戦後最初の戦車。
所謂『第一世代戦車』であるのだが、攻防性能については、当時としては一級品であり、国防陸軍も
『第二世代戦車』としての改修を加えつつ、85式戦車配備後も、国防陸軍機甲部隊の屋台骨を支える
ことになる。

1950年6月25日に発生した朝鮮戦争は、当事者-就中、半島の2勢力-の見込みに反して、3年という長期に渡って続けられることになった。
最終的には、平壌とソウルへの原爆投下及びそれに伴うアメリカへの国際世論の批判により、京畿道と江原道までを北朝鮮が確保した状態で休戦協定が結ばれることになったのだが、この戦争によって、戦争が開始されるまで国際的評価が落ちていた日本は、2万人近い死傷者を代償に、アジアにおける有力な西側国家として、再評価されることになる。

さて、戦争中盤から、アメリカと並んで多国籍軍の主力として活躍し、満州人民共和国義勇軍や中華人民共和国義勇軍と全力でガチバトルをした日本軍であったが、その戦闘中、彼らが最も苦しめられた兵器こそ、1948年にソ連が威信を込めて繰り出したIS-3重戦車であった。

IS-3重戦車。西側ではスターリン3型重戦車とも呼ばれるこの戦車は、史実では1945年9月のドイツのベルリンにおける戦勝記念パレードでお披露目されたのだが、この世界においては、独ソ戦が1944年までソ連の不利が続いていたことなどもあって、戦時中は、T-34やそのリファインであるT-44の生産が最優先されており、KV-1系の重戦車の開発・生産は後回しにされていた。
とはいえ、彼らが重戦車が不必要と考えていたわけではなく、東部戦線でドイツのティーゲルⅡに幾度となく煮え湯を飲まされたことや、樺太で火事場泥棒を仕掛けたところ、三式重戦車によって、戦車連隊が消滅した戦訓から、こうした重戦車群を叩き潰す最強の破城槌の開発は、戦後も継続されていた。

そんなソ連にとって幸運だったのは、反米を拗らせたが故に、祖国を離反してソ連に庇護を求めた満州人民共和国の存在であった。
彼らの大義などソ連にしてみれば雑音以外の何物でもなかったのだが、満州の資源と極東における親ソ政権樹立からの緩衝国家建国は、ソ連の国家戦略上、無視できるものではなかった。
何しろ、当時のソ連は、独ソ戦の大半がソ連領内で行われたことで、国土の荒廃は目を覆わんものであったし、その割にソ連が獲得できたのが、東欧及びポーランドの半分である。
受けた損害と比べて得られた報奨は過少。おまけに親ソ容共なルーズベルト政権は稚拙な戦争指導により国民にノーを突きつけられた挙句、ソ連がせっせと築き上げたレッドセルも暴露されたことで、アメリカ国内のソ連への視線は非常に厳しくなり、レンドリースの支払いがせっつかれる有様。
火事場泥棒で行った南樺太や千島への侵攻も、防衛でやっとだった極東戦力のうち、無理をして抽出した戦力によるものだったことを見れば、当時のソ連が相当無理をしていたことがわかるだろう。
そうした中で、極東の資源地帯に降ってわいたように出来た反米政権である。
更に言えばこの政権は、食料や石炭、重油だけでなく、使い捨てにしてよい労働力(過半が、満州に逃げ込んできた難民や満州人民共和国の統治に反抗的な住民、そして日本から逃げてきて、ソ連に取り入って満州人民共和国上層部に潜り込もうとした共産主義者や社会主義者)を、ソ連にとっても余剰となった戦車や大砲等とバーターで交換したのである。
この後ソ連が、お目付け役を置きはしたものの、基本的には満州人民共和国の意向も尊重するという他の社会主義国家からすれば破格と言っていい扱いを与えたのも無理はなかった。

939:yukikaze:2022/09/11(日) 00:06:02 HOST:p179063-ipngn200304kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
さて、そうした満州人民共和国側からの『お土産』の中に入っていた物が、三式重戦車の設計図と整備マニュアルであった。
動力機構等がスターリン重戦車に酷似していたことから、NKVDが「赤軍にスパイがいた」と騒ぎだす場面もあった(ノモンハンで鹵獲したKV戦車の機構を参考にしたという証言で事なきを得た)が、ソ連にしてみれば、当該戦車はスターリン重戦車の正統な進化系であり、生産性こそ決して褒められたものではなかったものの、当初予定していたなだらかな曲線で形成された砲塔を搭載した型は、まさに理想的な重戦車として好意的にみられることになった。

1949年に行われたモスクワ条約機構(史実ワルシャワ条約機構に満州が加わったもの)記念パレードにおいて、赤の広場を威風堂々と進むその様は、スターリンや赤軍上層部を大変に満足させるとともに、西側を慌てさせることになる。
朝鮮戦争でも同戦車は猛威を振るうことになり、40両しかない同戦車の前に、韓国軍は、寄せ集めの部隊であったことを差し引いても、1個師団があっさりと壊乱し、救援に向かったアメリカ軍は、宜野湾のトラウマを再発させる大打撃を受け、予備兵力だった日本国防陸軍が、連絡将校だったアメリカ将校が同情に溢れたレポートを残す程の、血で血を争う激闘の末になんとか撤退に追い込む程であった。

こうした事態に、国防陸軍は文字通り頭を抱えることになる。
T-34の85ミリ搭載タイプは、供与されたシャーマンのイージーエイトやジャクソンで対応はできた。
T-44及び極少数だけ出ていたT-54(1946年型)についても、上記車両で何とか食いつくことはできた。
だが、スターリン3型については処置なしであった。
攻撃力はT-54と併せて100ミリ砲に換装されていたものの、西側諸国の戦車を討ち取るには十分な攻撃力を発揮しており、何より防御力が非常に硬かった。
戦車砲や対戦車砲から繰り出される徹甲弾は、良好な避弾経始によって弾かれ、肉薄した歩兵による対戦車火器の攻撃も、側面等に施された空間装甲によって効果を減じられるという有様。
唯一の弱点は、上空からの攻撃には弱いというものであるが、戦場に常に戦闘攻撃機が控えていると考えるのはよほどの楽観論者以外おらず、とどめに日本よりも貧弱な半島のインフラでも、ある程度の制約はあるとはいえ、普通に作戦行動がとれたことを考えれば、こんな化け物が大群で半島や日本に押し寄せてきたら目も当てられないと考えるのも当然であった。

こうしたことから、国防陸軍ではスターリン3型を打ち破る戦車の開発を最優先で進めることになるのだが、これはこれで難問であった。
その最大の理由は、スターリン3型を撃破するためには、必然的に同戦車を超える戦車砲の搭載が必要であるのだが、それほどの巨砲を積むのならば、必然的に戦車の重量も重くなり、取得コストやインフラ面での負担が重くなってしまうというものであった。
そのため、T-44やT-54を倒すための30t級戦車と、スターリン3型用の駆逐戦車の2本立てにする案が出され、こちらが本命視されるところまで来ていたのだが、そっちはそっちで、スターリン3型を撃破するに足る駆逐戦車の数量を確保する必要があり、そうなると異なる系統の車両を並行整備するよりも、単一種の方が、配備後の維持費用や教育にかかる費用が安上がりという意見が出されることになり、最終的には、スターリン3型を撃破できる戦車(ただし可能な限り軽量化すること)という縛りの元戦車開発がスタートすることになる。

以下、同戦車の特徴について語っていく。

主砲については、当初はアメリカ陸軍が開発していた『M58 60口径120mm戦車砲』の搭載を考慮していたものの、アメリカ陸軍からの同意が得られず(一説には、日本の防諜対策のザル具合に難色を示したとも。1950年代後半の外務省を中心としたクレムリン・グループの摘発や1970年代の西山事件を見る限り、アメリカの心配も杞憂ではなかった)、『三式 55口径105mm対戦車砲』を基にした『58式 45口径120mmライフル砲』を搭載している。
特筆すべきはその装填方法で、車体の低姿勢と重量軽減、そして車内容積の効率化を図るために、『回転式自動装填装置』を採用している。同機構については、弾頭と半焼尽薬莢(装薬)が分離した砲弾を戦闘室直下の円形ドラムに格納し、それらをホイスト式の自動装填装置が拾い上げて装填する仕組みである。

940:yukikaze:2022/09/11(日) 00:07:32 HOST:p179063-ipngn200304kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
具体的には

1 砲手が操作ボタンで弾種を選ぶと、回転トレイが起動し、揚弾機の位置まで選ばれた弾が移動する。
2 横に並ばれた装薬と弾体は、カセットごと同時に砲尾部までに引き上げられ、砲弾がランマ―により薬室内に挿入される。
3 次に装薬がランマ―で薬室内に挿入される。
4 装薬を終えた弾薬カセットは、弾庫まで下がり、底部は排出装置の位置まで戻る。
5 排出装置により空薬莢の底部が、砲塔後部に備えられた薬莢排出ハッチから排出される。

理論上の発射速度は毎分8発であり、装填装置のトレイに26発、車内の予備弾薬庫に18発搭載している。
もっとも、予備弾薬庫から砲弾を装填し砲撃をする場合には格段に発射速度が遅くなり、1分あたり2発にまで落ち込むことになる。
また、同時期にソ連で採用された『コルジナ』自動装填装置よりははるかにマシではあるが、同戦車で採用された自動装填装置の不具合も整備兵の頭を悩ませる代物であり、同機構が安定して作動するまでには数年近い時間を必要とすることになる。

なお同戦車には、主砲に二軸式のスタビライザーを装備するとともに、アメリカのM47でも採用された基線長式測遠照準器を搭載しており、1,500m以上の射程においても相当に正確な測定が可能になっている。
ただし、M47が装備していたものと比べるとやや性能は劣っており、また暗視装置についても開発が間に合わなかったことからオミットされているものの、これらは改型や改2型で改修が施されることになる。

車体については、重量軽減が求められていたことから、可能な限り車体をコンパクトにすることで、重量の軽減を行うことにしている。
同戦車では車体の全高を抑えるためそれまでの操縦手の着座姿勢とは異なり、後方に体を傾けたいわゆるリクライニング方式を採り、その位置も操縦室内の中央部に配している。
同戦車の車台は圧延防弾鋼板の溶接構造で、地雷への対処として床板は緩やかなV字形とされ、車台側面装甲板も上方に向かってわずかに傾斜し、前面装甲板は中央部が突出したV字形となっていた。
車体の装甲厚は部位の重要度に応じて大きな幅が付けられており、一番厚い前面装甲では190mmあったのに対し、一番薄い下面では16mmしかなかった。
同戦車では、回転型自動装填装置により弾薬を被弾率が低い車体底部に集約し、生存性の向上を狙った。
また、湿式弾薬庫とすることで弾薬への延焼を防ぐ設計となっていた。
これは乗員と弾薬をまとめて防御できるため効率的で、車高も抑えられ被弾率が低くなるほか、引火した場合でも乗員が脱出する時間を稼げるという利点があった。
これらの防御方式は、ただ砲弾を搭載しているだけの、同世代の他国戦車と比べると、進歩的な方式であったが、その構造から車体底部の弾薬に誘爆した際には爆風が戦闘室を直撃し、砲塔が真上に吹き飛ぶなど車体が激しく損傷しやすくなるデメリットを有していた。
更に言えば、上記利点についても、砲塔・車台とも小型に設計されているため、車内の容積にそれほど余裕がなく、暗視装置等の追加搭載によって更に狭くなったことから、実際には乗員の脱出にかかる時間は、他国戦車と比べてもそれほど優れている訳でもなかった。

砲塔は同世代の戦車の特徴になっていた丸いお椀のような亀甲型の鋳造鋼タイプを捨て、避弾経始に優れた細長い鼻のような鋳造/溶接式の新型砲塔が採用された。
実際正面から見ると暴露面積は亀甲型より少なくでき、形が細長いため砲塔内の容積を広げられた。
同戦車の砲塔には被弾による誘爆を防ぐため砲塔内に弾薬は置かれなかったが、その分各種機器を置くスペースが確保されており、同戦車が改修によって長く主力戦車として踏みとどまれる一端となっている。
砲塔の装甲厚は一番厚い前面で280mmもあり、T-55中戦車が装備する100mmライフル砲では貫徹することが困難であった。

941:yukikaze:2022/09/11(日) 00:08:08 HOST:p179063-ipngn200304kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
61式戦車の走行装置は、朝鮮戦争時にスクラップとして取得したセンチュリオン中戦車を参考にしている。
「ホルストマン式」と呼ばれるサスペンションの構造は、上方に3本のコイル・スプリング(螺旋ばね)を配し、このスプリングと連結する形で前後に独立したアームを設けて鋼製のカバーに収め、アームの前後に転輪を装着してサスペンション・ユニットとしていた。
センチュリオン中戦車と異なるのは、上部支持輪が車台側面ではなくこのユニットの上部中央に配されていたことで、61式戦車は上部支持輪付きのサスペンション・ユニットを片側3個装着していた。
試作車では第1、第3ユニットの前後に油圧式ショック・アブソーバーを装着していたが、生産型では簡略化のため前部のみに変更された。
同機構は、高速性能については3式重戦車でも採用されたトーションバー式と比べれば劣るが、トーションバー式と違い、車体を貫通しないことから、車体を上げる必要がなくなり、車体の低姿勢化に役立っている。

駆動方式については、M47と同じく、アリソン社製のCD-850-4クロスドライブ式自動変速機(前進2段/後進1段)をライセンス生産したものと、三菱が開発した2ストロークV型12気筒液冷ターボチャージド・ディーゼルを組み合わせ、パワーパック方式にしている。
そして操縦装置も大きく改善され、国防陸軍の制式戦車としては初めて、操向レバー式に代えてハンドル式操縦装置が導入されている。
もっとも、三菱の液冷ディーゼルエンジンは、三菱にとっても初めての方式のエンジンであったことから、必ずしも信頼性が高くなく、また液冷ディーゼルエンジンに整備兵が不慣れなことや、様々な燃料を使用できる多燃料エンジンとすることが求められたこともあり、稼働率の悪さに国防陸軍の戦車将校が三菱に怒鳴り込むという事も発生している。
最終的には、絶え間ない改良とマニュアルの整備等から、信頼性も構築し、出力も750馬力にまで上がることになるのだが、機関の強化は、各種暗視装置や防御強化のための爆発反応装甲等の設置によって相殺されており、速度については40km強と、チーフテンと並んで速度が遅かった。(ただし、路外走破については、水準以上の機動力を見せている。)

同戦車は、1961年に61式戦車として正式採用されたが、かつての三式重戦車に勝るとも劣らない垢ぬけたフォルムと攻防性能は、各国の戦車将校たちの注目の的となり、特に仮想敵国となっているソ連は、同戦車の性能を最優先で取得するよう動いている。
国防陸軍も同戦車を最優先で取得するように動くが、性能に見合うだけの取得費用が求められており、毎年1個大隊(50~60両)配備するのが精一杯であった。(80年代には国力の上昇と量産効果から、毎年70両以上が生産され、最終的には24個大隊の61式戦車が取得されている。)
同戦車は、各機構の信頼性向上とアクティブ型暗視装置を装備した61式改、エンジン出力の更なる向上と爆発反応装甲装備の改2、そしてアクティブ型暗視装置をサーマル式暗視装置に改修した改3と、初期型を含めれば4つに分類されており、8個大隊が改3、残りが改2となっている。

同戦車は、後継となる85式戦車採用後も、国防陸軍の一翼を担うものと期待されていたが、既に拡張性は限界を超えており、どれだけ頑張っても2.5世代戦車でしかないこと。
また、師団はともかく、旅団の整備能力では同戦車を配備しても持て余すという判断から、85式戦車導入後、余剰となった61式戦車を各旅団に配備させるという計画は、最終的には北方の3個旅団だけに留め、それも最終的には85式戦車に代替するようにしている。

同戦車は、80年代の中華民国による台湾領有宣言で、台湾と沖縄に一時的に派兵された時を除けば、有事において出撃したことはなく(湾岸戦争では85式戦車のみ参加)、その攻防性能を戦場で発揮したことはなかったものの、85式戦車が全車予定通りに配備された2012年を以て退役するまで、半世紀近く日本の国土を守り続けることに成功している。

942:yukikaze:2022/09/11(日) 00:34:54 HOST:p179063-ipngn200304kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
投下終了。和製T-72。ところどころチーフテン。

1960年代初頭にこれ出来るかというと無茶無理無謀ではあるのですが、それでも問題ありそうなのが自動装填装置位で、後はこの時代の技術力で何とかなるもの。
暗視装置なしというのがいささかあれですが、それも改修でカバーできるようにしています。
ぶっちゃけ一番の問題はコストとこれを操るだけのインフラ整備。

この時期の国防陸軍、61式中戦車をこつこつと配備する傍ら、アメリカで余剰になったM47やM48を供与してもらって何とか糊口をしのいでいる状態。
それですら70年代ではかなりヤバい状態になったので、M48A5に改修してもらった上で再供与という所にまで追い込まれていました。(M41も普通に現役)

そりゃ国防陸軍も85式生産進める傍ら、61式を旅団に配備させようとするよねなのですが、
61式も最終系が2.5世代戦車でしかないことから、結果的にバースト。
旅団の機甲部隊は、やむを得ず一部の部隊を除いて自走対戦車ミサイル部隊に改編(お情けでM41の火力向上版が残された)させられましたが、やはり色々と不備があったため、85式の改変を待って残りの旅団の機甲大隊に機動戦闘車が配備されることになりました。

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最終更新:2022年11月14日 20:26