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日米枢軸ルート 小ネタ 『1875年海軍防衛法』

1870年代初頭、イギリス海軍は世界第1位と目される圧倒的な海軍力を有しており、その国防方針として非公式ながら〘2国標準主義〙を掲げていた。
これは『世界第2位の海軍と世界第3位の海軍が保有する主力艦の合計と同数の主力艦をイギリス海軍は保有する』というもので、1870年代初頭のイギリス海軍は、世界第2位の海軍とされていた日本海軍(主力艦:53隻)と第3位の海軍とされていたフランス海軍(主力艦:26隻)を上回る80隻近い主力艦とさらに多くの補助艦艇を保有し、世界最大最強の海軍と世界的には見なされていた。

しかし、この認識は大きな間違いで、実際には世界第2位の海軍と見なされていた日本海軍の海軍力はイギリス海軍すら追随を許さないほど強大なものとなっていた。
この認識の誤差が生じた原因は何か?
それは当時の欧州と日本では〘主力艦〙と見なされていた艦艇が大きく異なっていたことだった。

イギリス海軍を含めた当時の欧州列強・・・いや、日本を除く世界中の海軍では、〘装甲フリゲート〙や〘装甲スループ〙などいわゆる〘装甲艦〙と呼ばれる艦艇が海軍の主力艦とされていた。
これらは火砲による攻撃に耐えられるように装甲が施され、蒸気機関を主な推進機関とする近代的な軍艦で、それ以前まで欧州にて主力艦であった木造の戦列艦に変わる主力艦として整備が進められていた。
しかし、技術力や設計のノウハウが不足していたことから補助動力として使用するために帆走設備は残され、武装の配置も旧来の艦舷配置やそれを発展させた中央砲塔式が主流であるなど帆船時代の名残が強く残っており、今だに完全な近代軍艦とは言えなかった。
簡単に言えば、史実帝国海軍で運用されていた装甲艦『扶桑』や『金剛型コルベット』と同世代の艦艇たちが当時の欧州列強において主力艦とされていた。

対する日本海軍であるが、彼らは史実で前弩級戦艦に分類される近代〘戦艦〙や同世代の近代〘装甲巡洋艦〙などの欧州列強よりもさらに先進的な艦艇たちその主力艦として整備していた。
どれだけイギリス海軍が日本海軍を上回る主力艦を揃えたところで、史実『定遠級装甲艦』よりも旧式な〘装甲艦〙では日本海軍の〘戦艦〙や〘装甲巡洋艦〙に対抗できるはずがない。

この事実は1872年に日本が最新鋭にして世界に2タイプしか存在しない近代〘戦艦〙である『扶桑』『長門』の2隻を親善訪問として欧州に派遣したことをきっかけとして英仏建艦競争の集結から時間をおかずに明らかとなった。

日本海軍の欧州訪問によってイギリスを筆頭とした欧州諸国は日本の主力艦と自身の主力艦がまったくもって別ものであったことをはっきりと理解させられ、同時に今まで主力艦として整備してきた全ての装甲艦の陳腐化を招いたことから《扶桑ショック》と呼ばれる大きな衝撃を世界にもたらした。

この結果、世界最大の海軍として最も多くの装甲艦を保有していたイギリス海軍は一夜にして最も多くの旧式艦を保有する海軍へと変貌、世界最大最強の海軍の座から引きずり降ろされてしまう。
世界の海洋覇権を握ることで世界帝国となった大英帝国にとって、制海権を獲得するために必要な海軍力にて他国に後れをとることは自身の体制そのものを崩壊させかねない、決してあってはならない事であった。
そうであるからこそ、《扶桑ショック》後のイギリス海軍が日本海軍に追い抜かされた現状はイギリスという国家にとって看過できるものではなく、イギリス政府は大英帝国を維持し続けるために日本海軍を新たなる仮想敵国と定めて対抗戦力の整備目標の検討と新型艦の設計を開始するようにイギリス海軍に指示する。

当時のイギリス海軍は[19世紀のイギリスに海軍は存在せず、ただネルソンの亡霊のみがそこにいた]と後に評されるほどにトラファルガー海戦とネルソン提督の勝利から抜け出せておらず、その主流な海軍戦略は敵海軍の主戦力を撃破する事で制海権を獲得することを重視しており、如何にして敵海軍の主戦力を探り当て、自身の主戦力で打ち破るかを追求した艦隊決戦主義の強いものであった。
このイギリス海軍の戦略の前提にあるものは敵対する国家の海軍の自由な行動を抑制できるだけの主力艦をイギリス海軍が保有していることである。すなわち、最低でも日本海軍に匹敵するだけの主力艦を整備する必要があるのだ。

719:ホワイトベアー:2022/12/02(金) 23:48:40 HOST:157-14-234-250.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
また、これまでの仮想敵国が欧州にその主力を駐留させていたのに対し、日本海軍主力がいる日本本土は欧州ではなく太平洋北西部に位置しているという地理的な問題もある。

イギリス本土からインドまで部隊を展開させるにはスエズ運河を通過するか、喜望峰を経由するかの2のルートが存在していた。しかし、喜望峰ルートはアフリカ大陸をほぼ一周する関係からインド洋に到着するまでには長期の期間が必要であり、スエズ運河は日本が抑えていることから有事の際には機雷等で封鎖される可能性が大きいことから有事の際に短時間でアジアに援軍を送り込むのは困難と考えられていた。
これは大英帝国の心臓と称されるほどイギリスの世界覇権にとって重要なインドの防衛を考えると頭の痛い問題だった。

大英帝国の心臓たるインド帝国を無防備にするわけにはいかず、さりとて有事の際にイギリス本土からインド洋に短時間で援軍を送り込むのは困難である以上、イギリス海軍の取れる選択肢は本国からの援軍が到着するまでの間、単独で日本海軍を相手に時間を稼げる程の大規模な戦力をアジアに展開させるしかないのだが、イギリス海軍が警戒しなければならない地域はアジアだけではい。
脅威度で言えば日本には劣るものの、ドーバ海峡を超えた欧州大陸にはほんの数年前まで建艦競争でしのぎを削っていたフランスをはじめとしたいくつもの列強が虎視眈々と蠢いており、大西洋の向こう側には日本の同盟国であるアメリカ合衆国とそこに駐留する戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻を主力とした日本海軍大西洋艦隊が存在している。
いくら日本海軍主力の脅威に備えるためにアジア方面に大戦力を派遣させる必要があるとは言え、これらの国々への警戒や備えを怠るわけにもいかない。。
一時的ならともかく長期にわたりイギリス本国や欧州周辺の戦力を減らしてアジア方面の戦力を増強することは政治的にも外交的にも困難であった。

イギリス政府からの指示を受けたイギリス海軍は、こうした事情を勘案しながらあらたな戦力整備基準の検討を開始。
総数としては日本海軍の海軍力を圧倒し、有事の際に本土からの増援が到着するまで日本海軍主力に単独で対抗可能なように日本海軍主力の8割程度(※1)の戦力を恒常的にアジア方面に展開させつつ、今後さらなる海軍力の増大が進むであろう欧米方面でも海上戦力の優位を維持し続けられるだけの海軍を整備することを目的として『日本海軍が保有する主力艦の二倍の主力艦の保有』を目指す《対日2倍構想》がイギリス海軍内で新たに構想される。

当時の海軍大臣であるジョージ・ハントを通して海軍の構想はイギリス議会に報告され、議会も海軍力増強の必要性には理解を示した。しかし、肝心の《対日二倍構想》に対しては予想される負担の大きさから反対されてしまう。

当時の日本海軍は1872年の時点で《扶桑型戦艦》を8隻、《扶桑型戦艦》よりも古いながらも同型と比べても多少劣る程度の能力を有する世界初の《戦艦》でもある《相模型》戦艦を12隻の計20隻の戦艦を整備していた。
また、戦艦と比べると戦闘能力は低いものの、イギリス海軍が保有する装甲艦に匹敵、あるいは多少上回る程度の防御力と攻撃を備え、20ノット近い高速を発揮できる《装甲巡洋艦》という艦種の艦艇も戦艦とは別に30隻近く保有しており、イギリス視点では50隻近い主力艦を保有する大海軍であった。

対するイギリス海軍であるが、彼らは1860年のグロワール級装甲艦就役を契機としてフランス海軍と激しい建艦競争を繰り広げてきた為、フランスが普仏戦争に敗北する1871年までに80隻の装甲艦を整備していた。そのなかには13000トンクラスの巨艦にして、イギリス海軍初の帆走設備を持たない外洋航行型装甲艦である『デヴァステーション級装甲艦』といった先進的な艦艇も存在していたが、しかし、それらは日本海軍の主力艦たる《戦艦》を前にしては主力艦足りえず、イギリス海軍は再度1から短期間で海軍力を整備しなおさなければならなかった。

つまり、《対日2倍構想》に則るのならイギリス海軍は40隻の戦艦と60隻近い装甲巡洋艦を主力艦として新たに整備する必要があるのだ。
当然、主力艦だけで海軍が回るわけがなく、補助艦艇にいたってはさらに多く建造しなければならない。

720:ホワイトベアー:2022/12/02(金) 23:50:51 HOST:157-14-234-250.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
それだけの規模の艦艇を建造するには天文学的とも言える莫大な予算が必要であることは誰の目から見てもあきらかであり、いくら世界最大の帝国である大英帝国であっても「はい、どうぞ」と簡単に承認できるわけが無かったのだ。
しかし、イギリス海軍が実施した1874年度艦隊演習の報告書が公開されたことやジャーナリストを通した情報の拡散もあって、イギリス国内で海軍増強を求める声が増大し、その結果もあって、1875年には今後30年以内に《対日2倍構想》を達成することをイギリス海軍の今後の戦力整備の基本方針と定めた《1875年海軍防衛法》が議会を通過。《対日2倍構想》は正式にイギリス海軍の戦力整備方針として採用されることになった。

《1875年海軍防衛法》には《対日2倍構想》の実現のために立案された第一次海軍拡張計画に関する予算の計上も盛り込まれており、《1875年海軍防衛法》の成立を受けてイギリス海軍初の近代戦艦である『エイジャック級戦艦』8隻とその発展型にあたる『アドミラル級戦艦』6隻の合わせて14隻の戦艦が整備された。

『エイジャックス級戦艦』は前年から建造が開始されていた『インフレキシブル級装甲艦』を元にしつつ、日本海軍の『扶桑型戦艦』の設計を参考に取り入れて設計された艦艇で、機関技術の問題で速力こそ日本製の戦艦群には劣るものの、装甲にはライセンス生産した関東鋼(史実クルップ鋼)を採用、主砲として新規に開発したアームストロング Marks I 12.5in砲を連装砲形式で艦前後に1基ずつ配置することで攻守の能力に関しては日本の主力艦と同等クラスの優良な艦で、その発展型である『アドミラル級戦艦』も当時の主力艦としてはトップクラスの性能を持っていた。

第一次海軍拡張計画で整備されたのは主力艦だけではなく、植民地の沿岸防衛を目的とした沿海防戦艦として『エイジャックス級戦艦』を原型に小型化させる形で設計された『コロッサス級二等戦艦』を初め、巡洋艦や水雷巡洋艦、砲艦(スループ)、水雷艇などの艦艇も多く建造され、僅か10年の間でイギリス海軍はその戦力を大きく向上させる。

しかし、この段階では未だに日本海軍との間には如何ともしがたい差が残っており、1885年には第二次海軍拡張計画が議会を通過、さらなる軍拡を推し進めていく。

721:ホワイトベアー:2022/12/02(金) 23:51:23 HOST:157-14-234-250.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
(※1)当時の日本海軍は主力艦として扶桑型戦艦(史実敷島型戦艦相当)を8隻、その前進の相模型戦艦(史実富士型戦艦相当)を12隻の計20隻の戦艦を保有していたが、うち6隻はアメリカ東海岸に駐留しており、アジア・オセアニア方面に展開・駐留している戦艦は14隻であった。
そのため、当時のイギリス海軍はその83%(小数点以下切捨)に当たる10隻の戦艦をアジア方面に駐留させることを計画した。


第一次海軍拡張計画建造艦
主力艦14隻
巡洋艦50隻
水雷巡洋艦22隻
砲艦(スループ)26隻
水雷艇22隻
海防戦艦6隻

722:ホワイトベアー:2022/12/02(金) 23:51:54 HOST:157-14-234-250.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上になります。
wikiへの転載はOKです

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最終更新:2023年01月15日 10:05