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日蘭世界 世界観考察ネタ 死に祝福された國・フランス連邦共和国~FFRの死生観~
FFRという国家は極めて特異な国家である。主神や宗教がということではなくその死生観が、である。
FFRという国家、国民はFFRの主神リシュリューの導きの下で正しく生きる、それが彼らFFR国民の人生である。
そして正しく死ぬことで死の国の主祭神であるオセアンの下へと渡るそれが彼らの現世の人としての最後である。
それが彼らの死生観、死というものがひどく身近なのだFFRという国は。
それはその年を締めくくる行事として毎年の末、大晦日にその年の全てのFFR国民の死者をオセアンの下へと送る転属者送別式があることからも良く分かる。
しかしながらそれは死に魅入られている訳ではない、寧ろ死に祝福されているのだ。
FFR神話において死後の世界、魂となった死者は他国の神話の様に存在するがFFR全国民はその存在を事実として信じている。
それは彼らにとって揺るぎなき現実があるからだ。
後に死の女神となる戦艦オセアンが座礁し刀折れ矢尽きてなおそれでもなおその砲をエスト・デ・パリに向け続け、
エストシナ奪還の報と全作戦終了を告げられるまでその場を離れることを拒んだこと、
加え解体された後もエストシナを守る様に度々現世に姿を現すことからも死後の存在の事実を補強していた。
しかしFFR神話において死後の世界、彼らの言う所の霧の向こうは仏教の極楽浄土やキリスト教における天国の様な幸福に満ちた場ではない。
主神(リシュリュー)の指揮下を離れたFFR国民は死の女神(オセアン)の指揮下へと入る。
即ちFFR国民は現世でも戦い、死後も戦い続ける。
彼らの死後の世界とはFFRと変わらぬ日常、常在戦場である。
斯様な死後を想像する様になった理由はやはり先の大戦の影響であろう。
先の大戦においてフランスのキリスト教非白人国家に負けたことからその威光を喪失、
また脱走した支那植民地現地人兵士の蛮行によりこの世の地獄が幾つか生まれたこともその理由であろう。
天国は無く現世が地獄ならば死後は如何にや?故にフランス人達は死後というものを恐れた。
故に地獄ではない死後というものを求めその証となるものを欲した。
その時に存在したのが死者と共にある艦(ふね)、戦艦オセアンである。オセアンの存在はある種救いであった。
死後もオセアンに乗り生前と同じ様にフランスという国を守ろうとする兵士達、そこから推察されるのはただ一つ。
死後も生前と同じ様にある、フランス人はそう考え信じた。
そこからだろう当時芽生えつつあったリシュリュー信仰に同調するようにオセアンへの信仰が芽生えたのは。
リシュリューの現世で生み出し続ける伝説の影、FFRのそこかしこの影にあるオセアンもまた死の国の伝説となっていったのだ。
リシュリューと同じ戦艦であり、生…現世のリシュリューと対極の様に死と共にあるオセアン。
オセアンを信奉すれば死後も生前と同じ状態にあれると考えるのはある種当然であった。
そして支那植民地の戦闘や客船イル・ド・フランスを守り抜いた者達の転属。
国家として成熟する過程で国力に勝り終末兵器を保有するOCUに対する恐怖から国民皆兵へと走ったFFR、
その国においてオセアンへの信仰は死した後にオセアンの指揮下へ入るという死生観として完成した。
また結果的にであるがこれによりジョルジュ=ビドー初代FFR大統領が基礎を築き上げてしまったリシュリューの下で正しく生きること、
ビドーの遺言である『フランス人たる』ことで正しく死ねオセアンの下へと転属出来るという現代FFRの人生観も完成した。
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そして霧の向こうで転属していった者達はオセアンの指揮下で戦い続けるのであるが…実はFFR神話においてその辺は明文化されていない。
そもそもFFR神話は明確な経典というものは存在せず主に国民の想像や宗教学者らの推察によって形作られのが現在のFFR神話なのである。
故に地方や人により神話内容は千差万別であるがある程度の方向性は有している。
それは霧の向こうでは霧の向こうの更に向こうから来る悪意よりFFR、いや現世を守るために先達達や女神らが戦い続けているとされている話だ。
FFRや共和国時代の兵士や国民だけではない革命政府やブルボン朝、それ以前の者らもフランス人であるならばオセアンの指揮下に入り現世と霧の向こうの境界線を守り続けているという。
それは想像上の存在であるが畜生以下の存在、悪魔であり人を喰らう怪物であると幾つものFFR神話は言う。
ある者は外の世界からの侵略者ともある者は人の悪意の澱みとも言うがその原型、基礎は一つであると意見が一致していた。
死んだ支那の人間、人の形をした人非人共の成れの果てだ。見当違いの呪いを現世に抱き群れを成して現世に侵攻しようとしているのだという。
それを想像させたのはやはり支那植民地動乱やフランス本土での蛮行の影響が大きいだろう。
そしてその蛮行の際の国家という垣根を超え集い人間の尊厳を守ったという事実はFFR神話で人間の賛歌として歌われる。
故にその影響からか幾つかのFFR神話では霧の向こうでは他国の兵や戦艦陸奥ら異国の女神がFFRの女神と共闘する話も存在する。
FFR国民が生を謳歌しながら死を望むのは一人の兵士としてこの列に加わる為である。
人間としてあるために、後に続く者の為に彼らFFRの国民は死を望み、権利として死が存在する。
最後に結びとなるがFFRという国家は死に祝福されているのは間違いない。
しかしながらそれは生の為死、今を生きる者達の為の死であるのだ。
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以上投下完了。転載はご自由にどうぞ。
FFRの死生観でござんした。
FFRにとって死は喜びであり死後もその人物は戦い続ける。後に続く者達の為に。
故に彼らは死を恐れない人の尊厳を守る戦いに加わる為にオセアンの指揮下に加わるだけなのだから…死は永遠の別れではなくいつかまた会える彼らは考えています。
その日の為、胸を張り先達に会う為に彼らは今日も我らが指揮官の下で腕を磨き続けるのです。
最終更新:2023年01月16日 09:38