714:ホワイトベアー:2023/01/28(土) 23:02:24 HOST:om126254226140.33.openmobile.ne.jp
日米枢軸ネタ 設定集 『Pkw27 中戦車』
Pkw27
全長: 6.30m
車体長: 6.90m
全幅: 2.47m
全高: 2.43m
全備重量: 18.0t
乗員: 5名
速度: 25km
主砲
:18.4口径57mm戦車砲
(弾数:50発)
:47.8口径47mm戦車砲(改修型)
(弾数:50発)
副武装
:7.92mm機関銃×3
エンジン
:三菱MT- 4式空冷12気筒V型ディーゼルエンジン(230馬力)
装甲厚
:最大25ミリ(車体前面、砲塔前面等)
《解説》
Pkw27は西暦1908年にドイツ帝国陸軍が主力戦車として導入した中戦車で、世界大戦においてはドイツ帝国軍の新型戦車開発が遅れたこともあって改修を施されながらではあるが主力戦車として最後まで使い続けられた。
開発は三菱重工が担当し、製造もドイツ帝国国内の工業的な技術水準や設備の問題から初期は三菱重工がこれを行っていたが、西暦1910年以後は三菱からの支援もあってドイツ帝国国内での製造ラインの整備が完了したため、ドイツ帝国有数の自動車メーカーであるダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフ社を中心としたドイツ帝国国内企業が担当するようになった。
ドイツ帝国軍が戦車の整備を開始した背景には満州戦争の存在があった。
人類史上初めて戦車や航空機などの機械兵器が大々的に投入された満州戦争における戦訓は、史実とは違い世界各国で重く受け止められることとなったのだ。
それは中欧の新興列強であるドイツ帝国においても同様で、ドイツ帝国軍内には満州戦争が終結する前から戦訓を分析・研究するための特別部門を組織するなど積極的にその戦訓を取り入れようと動いていた。
その結果、ドイツ帝国は次の戦争に勝つためには軍隊の機械化が不可欠であると判断し、国内の有力な自動車メーカー等も参加する交通技術試験委員会を設立、国産戦車の開発等の検討を開始する。
しかし、当時のドイツ帝国は航空機や単一巨砲型戦艦など多額の予算が必要となっていたことや国内の技術水準の問題から早々に短期間での戦車の自主開発は不可能と結論づけられ、短期間での戦車の整備と技術の習得を行うべく戦車の輸出に前向きであった日本に戦車の設計を依頼して開発された。
715:ホワイトベアー:2023/01/28(土) 23:03:10 HOST:om126254226140.33.openmobile.ne.jp
本戦車の最大の特徴は車体の上に全周旋回を可能とする主砲塔を装備し、車体前部と車体後方には7.92mm機関銃を1挺装備する副砲塔を1基搭載する全装軌式の多砲塔戦車であることだ。
これは側方や後方などの装甲が薄くならざるをえない場所への攻撃を防ぐためには複数の方向に死角なく機銃を配置するのがもっとも効果的だと三菱がドイツ帝国に吹き込んだためであった。
厄介なことに当時日本軍が運用していた戦車が全て多砲塔戦車であったことがこの三菱側の主張に説得力を持たせており、戦車というものがどういうものか一切わからないドイツ帝国側の人間はこれを真に受けてしまったためだ。
車体上の全周旋回砲塔には主砲として陸軍造兵廠大阪工廠が『1式中戦車』の近代化改修計画の一環で試作していた3式57mm戦車砲(18.4口径)を装備、本砲は照準方式は肩当を用いて砲手が担いで直接照準操作を行う方式を採用しており、これによってPkw27中戦車は目標への高い追従性と行進射を可能としていた。
無論、スタビライザーや火器管制装置を有していない本戦車で行進射を行うためには高い戦車兵の練度が必要とされていたが。
弾薬としては車内弾薬庫に57mm砲弾を50発搭載する。
3式57mm戦車砲は榴弾威力の高い短砲身砲で、トーチカ等の硬目標への攻撃力はあまり望めないが、ドイツ帝国軍は戦車の運用教義でも日本陸海軍のそれをモデルとしており、中戦車に求めた役割は歩兵に随伴して敵敵防衛線の突破や逆に自軍の防衛線の防衛を支援する所謂歩兵戦車としてのそれであったことや、硬目標射撃に向いていないと言っても徹甲弾を用いた場合は射距離1,800 mで17.5 mmの装甲を貫徹することが可能だったことから大した問題とは認識されなかった。
しかし、3式57mm戦車砲はイギリス陸軍の主力戦車であった『ホーネット中戦車』ならば射距離1,800 mであって正面から撃破できたのだが、フランス軍の主力戦車であった『FT-10』中戦車を正面から撃破するには威力が足りなかった。
そのため、大戦が勃発した後の1915年末からは日本製の『90式41mm速射砲(史実1式機動速射砲)』のライセンス生産版である『4,1cm FK 10』を応急的に戦車砲に改造した『41cm KFK 15 L/48』を主砲として装備したタイプも登場し始める。
装甲には浸炭処理された表面硬化鋼が使用され、車体前面と砲塔前面の装甲圧は最大で歩兵砲から放たれる37mm弾に抗堪できるように25mmを誇り、車体及び砲塔側面と後面でも小銃弾や榴弾の破片に抗堪するために8-10mmmmの装甲圧を有している。
ただ、ドイツ側の技術不足のため日本軍戦車で用いられていた溶接を用いることができず、これらの装甲板は防御上好ましいものではないリベット接合によってフレームに接合されているなど問題も抱えていた。
エンジンには機械式過給機を搭載し、最大で230馬力を発揮可能な(欧州では)大出力エンジンである三菱製のMT- 4水冷直列6気筒ガソリンエンジンを搭載し、操向装置にはクラッチ・ブレーキ方式および遊星歯車機構を採用していた。
サスペンションには4個の転輪をリーフ・スプリングの中央に取り付けるリーフ・スプリング方式を導入、転輪(片側)は8個+制衝転輪1個、上部支持輪(片側)が4個で構成された。
1908年より調達が開始されたがドイツ帝国本国に本格的な生産ラインが整えられるまでは年に30両程度と小規模な生産規模に抑えられていた。
1910年からドイツ帝国国内での生産が開始されると、当時の欧州での軍拡競争の影響もあって大量量産が行なわれ、1914年の開戦までにはその累計生産数は2,063両に達するなど名実ともにドイツ帝国陸軍の主力戦車となっていた。
716:ホワイトベアー:2023/01/28(土) 23:03:47 HOST:om126254226140.33.openmobile.ne.jp
ドイツ帝国陸軍初めての戦車として良好な性能を示し、大量生産が行なわれた本戦車であったが、現場での評価は大きな割れていた。
というのも、もともと本戦車は歩兵随伴戦車というコンセプトの下に開発され、配備当初は各歩兵師団隷下に新設されることが予定されていた戦車大隊にて運用される計画だった。
しかし、参謀本部内で『戦車の能力を最大限活かすなら各歩兵師団に分散配置するのではなく、いくつかの部隊に集中的に配備し、機械科部隊とセットにして機動打撃戦力として運用するべきだ』という意見が1912年に採用されてしまったせいで戦車師団化が決定した各騎兵師団にその多くが配備されてしまったのだ。
繰り返しになるがPkw27は歩兵随伴用に開発された戦車である。
そのため、その速度は歩兵と足並みを揃えて前進することが前提にあり、最大でも時速25kmと騎兵と比べると遥かに遅かった。
さらに多砲塔戦車ゆえのその扱いの複雑さやその地位の低下などから騎兵から戦車兵に転科を余儀なくされた将兵や騎兵閥と呼ばれるグループからの評判は英国紳士風に言っても余り良くはなかった。
それでも開戦時にはドイツ帝国陸軍が編成をしていた11個の騎兵師団のうち8個で主力戦車として運用され、世界大戦勃発した際にはドイツ帝国軍地上部隊の先鋒としてフランス本國侵攻に大きく貢献することになる。
717:ホワイトベアー:2023/01/28(土) 23:13:40 HOST:om126254226140.33.openmobile.ne.jp
以上になります。wikiへの転載はOKです。
史実では日本の能力不足で量産ができなかった試製九一式重戦車が
日米枢軸世界では欧州で大暴れをすることになりました。
ちなみにPkwはPanzerkampfwagenの略で後ろの27は試製九一式重戦車の前身である試製一号戦車が完成した年から取っております。
最終更新:2023年05月03日 23:53