691:名無しさん:2023/02/25(土) 14:01:45 HOST:24.184.151.153.ap.dti.ne.jp
無幻世界:大正小考

1. 前書き
激動の幕末から明治維新、日清・日露の両戦争を経て日本を一等国の立場に導く原動力となった明治帝。
国民を愛し、民主主義国であった米国の暴走を受けてなお、立憲主義の守護者としてあり続けた昭和帝。
これらの歴代天皇と比較すれば、在位期間も短く、また生来の病弱さ故に表舞台に立つ機会の少なかった大正帝の評価が一段下がるのは致し方ないことではある。
しかし、こと日本の発展や、第二次世界大戦における同盟国の勝利に与えた影響の大きさを考えれば、その存在は決して軽視出来るものではない、と筆者は考える。
本稿では、これらに影響を及ぼした「輸送」という観点から大正帝の業績について語ることとしたい。


2. 大正帝と苦悩
1879年、明治帝の三男として誕生した大正帝であったが、生誕時より病弱で幾度も体調不良や病気に罹り、生涯を病と共に過ごすこととなる。
そんな大正帝であったが、皇太子時代には南西諸島地方を除く各地への行啓や、大韓帝国への外遊をも行うなど、その責務を果たすよう務めていた。
これらの行啓は健康養成という目的が強かったものの(外遊に関しては本人の希望による)、実際には旅程の途中で体調を崩すことが度々あり、幾度か延期や中止を余儀なくされていた。
その理由として一番大きく、大正帝に限らず歴代天皇を悩ませてきた問題。

それは、「国土があまりにも広すぎる」ことである。

北海地方樺太州から九州地方薩摩州までで、差し渡し一万キロメートルを超える。
これに南西諸島地方や南洋諸島地方、朝鮮や満州まで含めれば更に広くなる。
この広大な国土に対し、疎密の差こそあれ満遍なく人口が分布するのが大日本帝国という国家である。
そして当時、線路や港湾こそ整備されつつあるものの、まだまだ運搬具たる車両や船舶は発展途上であり、移動には多大な時間を要するのが当然であった。
一つ例として挙げると、1921年当時ですら、東京-大阪間の移動は特急列車でも40時間程度かかる。
当然ながら肉体にかかる負担は尋常ではなく、途中で何度も休憩を取る必要があったため、移動だけでも3日程度は見なければならないほどだった。
健康な人間であってもかなり過酷な旅程であり、まして病弱な身であれば考えるまでもないだろう。

また、大正帝自身の苦悩もそうだが、政府機関にとっても国土の広さは大きな壁であった。
1910年に併合した朝鮮、後に勢力圏となった満州や南洋諸島まで、あまねく天皇の威光を知らしめ等しく臣民としての生活を送れるようにする、というのは国家の重要課題である。
しかし現実には移動だけでも上述するような苦労を伴い、物資の輸送に至ってはとにかく便数を増やすことでどうにかするしかない、という状態であった。
これらのことから、1912年の即位後、最初の勅として「移動・輸送手段の速やかなる改善」が命じられることとなる。


3. 移動時間を短縮せよ
検討の結果、提示されたのは以下の三案であった。
①既存の鉄道や船舶の強化
②空港の整備と航空機の導入
③道路の整備と自動車の導入

①案は、路面電車として事例のある電気鉄道や、海外の技術による燃料の改質や主機の改善が主軸になる。
費用面では一番優れるものの、その分効果も限定的になるだろうという見積だった。

②案は、当時研究が進められていた航空機の本格導入である。
日本においては、1909年には陸軍が、1912年には海軍が研究会を設立し、1913年には民間団体も発足するなど、意外と早い段階から導入が進められていた。
海外においても、英国において航空機による貨物輸送が行われるなど、少しずつ利用範囲が広がりつつあった。
とはいえ、まだまだ事故が多い上に輸送量にも限度がある、という意見が大勢を占めていた。

③案は、上流階級において広まっていた自動車の民間導入促進になる。
既に何社か民間企業が設立され、また英国製の御料車が利用され始めていたのも大きい。
軍用貨物自動車の生産も始まっており、燃料も国内に油田があることもあって不安はない、という点で最も有力な案になる。

最終的に、この段階では③案を採用し、まずは国内での自動車生産を軌道に乗せる、はずだった。
事態を大きく動かしたのは、遠く欧州における銃声だった。

692:名無しさん:2023/02/25(土) 14:03:56 HOST:24.184.151.153.ap.dti.ne.jp
4. 第一次世界大戦
1914年に始まり1918年に終わった第一次世界大戦は、日本にとっては日英同盟による陸海軍の派遣、列強として一等国入りを果たすなど大きな影響があった。
しかしそれ以上に軍にとって深刻だったのは、兵站の脆弱さと技術力の未熟が明確化したことにあった。

軽工業製品の工業生産力という点では欧米列強に追随しつつある日本だが、物理的な距離は如何ともし難い。
物資を輸送するのにかかる時間や費用、兵士にかかる負荷、食料や兵器の損傷・劣化など問題点には枚挙に暇がなかったのだ。
また、第一次世界大戦において、航空機の活用による偵察や爆撃、戦車による塹壕線突破、潜水艦による通商破壊など新兵器による戦闘が繰り広げられていた。
日本軍はこれらの脅威を戦訓として取り入れる一方で、自国ではこれらの兵器が生産できないし、生産しても運べない、という現実を受け容れるしかなかった。

財界においても大きな問題に直面していた。
戦後に始まった独国への支援やオスマン帝国との交流にあたり、船腹量が絶対的に不足していたのである。
「持てるものの義務」を果たすことで富裕層への風当たりを良くしたい、あるいは「困った人を見捨てられない」という篤志から始まった支援だが、運べなければ意味がない。
幸いにして生産力は戦争向けに大幅に拡大したこともあって余裕があったが、港湾労働者も船腹量もそうそう増やせるものではない。
そして経済発展期に入りつつあった台湾や朝鮮、満州への輸送も急増し始め、いよいよ破綻が近づいているのは明らかであった。

今後も貿易量は増える一方であり、また守り開発すべき新たな領土も獲得したことを考えると、早急な解決が必要とされたのは当然だったと言える。


5. 鶴の一声と全方位的対策
最終的に、検討案は形を変えながらもすべて進めることが決定された。
決定打となったのは大正帝の「何も一つの手段だけで総て解決しよう、などと考えなくてもよいのではないか」という言葉であったとされる。
自転車や遊艇の経験もあり乗馬を嗜んだ大正帝からすれば、必要な場面で乗り物を使い分けるのは当然だったのだろう。

この流れを受けて、1920年中に以下の三つの調査会の設置と、一つの法律の施行が行われた。
①「鉄道幹線調査会」設置(鉄道省)
②「海上輸送方針研究会」設置(拓殖省・海軍省合同)
③「航空輸送会社設立準備調査委員会」設置(逓信省航空局)
④「自動車製造補助法」施行(農商務省・陸軍省合同)

英国系企業だけではなく、戦後の軍備制限から日本に避難してきた独国系企業に助言や参画を受けながら、これらは徐々に結実していくこととなる。

①:
高速化が見込まれる全線電化・動力分散方式を採用。
高速鉄道を集中運転する専用線を敷設することで効率を高め、東京-大阪間を16時間以下で結ぶことを目標とした。
②:
海上輸送全体にかかる時間を計測し、最も時間を必要とするのが荷役作業であることを特定。
最終的に「共通規格の金属製容器に荷物を収納し、容器ごと運搬する」「そのための専用船舶整備と専用港を整備する」ことを決定した。
このとき、①のために招聘された英国の鉄道技術者から「同様の取り組みが本国で行われている」との情報を得たことから、本件は国家間事業に発展した。
③:
英国や独国において商業旅客輸送が始まったとの情報から、貨客両面での輸送を目的とする会社設立を決定。
ただ、当時まだ危険な乗り物であったため、基本は貨物輸送を行い、国家の緊急性の高い要件の際にのみ旅客輸送を行うことが決定された。
また、航空局はこれに先行して民間航空機企業への奨励金給付、搭乗員養成、国際航空条約の批准と航空法の制定を推し進めることとした。
④:
英国・独国の自動車企業が生産した自動車を、まずは国内で一貫生産できる体制を整えることを目的とした補助金。
将来的には、民間向けの乗用車、貨物自動車の生産、戦闘車両の研究開発などが行える企業が出てくることも期待された。

とはいえ、社会実装には今しばらくの時間がかかる、というのが、関係者の認識であった。
その状況を変えたのは、人の手では抗えない災害だった。

693:名無しさん:2023/02/25(土) 14:05:13 HOST:24.184.151.153.ap.dti.ne.jp
6. 関東大震災
1923年9月1日に発生した関東大震災は、帝都・東京とその都市圏に壊滅的な被害を齎した。
1000万人近い被災者、50万人近い死者・行方不明者を出したこの災害において、しかしある種の「答え合わせ」のような事態が起きていた。

周辺地域からの物資輸送は、まるで捗らなかった。
被災した範囲が広すぎる上に、港湾部が壊滅していたことで支援物資の陸揚げも上手く出来なかったのである。
そんな中、日英独の共同事業として実証実験を始めていた輸送鉄函(英国名:コンテナ)と専用の起重機付輸送船は、大量の物資を一気に届けることに成功。
また、少量ながら試験生産が始まっていた貨物自動車による貨物輸送を行う一方、航空機からも物資や新聞の投下により流言飛語を抑えて治安維持に寄与。
図らずもそれらの有用性が証明されることとなった瞬間だった。

そして震災に関連してもう一つ語るべきは、遷都論に対する詔書の内容であろう。
これだけの大震災が再び起きるかもしれないという懸念から、政府や軍、民間においても遷都論が持ち上がることとなった。
それに対し大正帝は、詔書にて
  • 東京は帝国の首都にして政治経済の中枢であり、国民文化の源泉として民衆一般の信ずるものである
  • 不慮の災害により今や原型を留めていないが、首都としての地位を失ってはいない
  • よって、以前の形を取り戻すのではなく将来の発展を考えた新たな形にするべきである
  • ただし今後同様のことが起きた際のことを考え、国家としての機能を分散することが必要であると考える
と述べた。
これにより遷都論は立ち消えとなった一方で、急に降ってわいた国家機能の分散という内容は激論を巻き起こすことになった。


7. 地方総監府
当然ながら、反対意見も多く出ることになる。
中央集権化のもとこれまで進めてきた統治の在り方を根本から変えることになるし、最悪の場合は国家の分裂すらあり得るからである。
しかし現実問題として、再び同様の事態が起きた際の政治的混乱は否定できず、また規模を拡大し続ける国政を一か所で行うのは限界があった。
最終的には、連邦制への移行ではなく行政区分の新設と政府機能の限定的移譲という形で決着を見ることになる。

まず、国と州の間に、地方という新たな行政区分を設置する。
区分としては、全国を軍管区に対応する十の地方(北海・東北・関東・北陸・中部・近畿・中国・四国・九州・南西)に分割したものになる。
各地方には統括拠点として地方総監府を設置するが、これは六大都市の発展解消という形をとり、各地方において人口の多い都市、あるいは中心部となる都市から選定された。
ただし関東地方に関しては、東京が帝都として特別の地位にあることからこれを除外し、埼玉県大宮市に設置することとなった。

各地方総監府には、州知事への指揮権、管内への地方総監府令の公布権、非常事態における陸海軍への出兵要請権など強大な権限が付与される。
これは関東大震災のような激甚災害への緊急対応のみならず、戦時における帝都の首都機能喪失に際しても抵抗を続け国家の独立を維持するためのものであった。
一方でこれらの強大な権限に対し、地方総監の任命は天皇の専権事項であること、命令系統としては政府に優先権があることを明記し、一定の枷をかける方策が取られた。

本内容を明記した地方総監府官制は1925年9月1日に公布され、各地で総監府設置のための大規模な都市開発が行われた。
既に採用実績のある帝都復興計画を下敷きとし、港湾の輸送鉄函への対応や大規模空港の設置、高速鉄道駅や高速道路などの用地確保までを盛り込んだ
「地方総監府設置都市開発計画」は、その壮大さから大風呂敷とまで言われたものの可決、実行に移された。
これにより、東京のみならず全国的な都市化と自動車導入、船舶輸送の大規模化が起こり、急激に近代化が進展する契機となる。
そしてこれは、各都市間の交通網強化という形でそれ以外の地域にも影響が波及していくことになる。

694:名無しさん:2023/02/25(土) 14:06:54 HOST:24.184.151.153.ap.dti.ne.jp
8. 残るもの、続くもの
1926年12月25日、大正帝崩御。
偉大なる先帝、生来の病、関東大震災と重圧を背負い続けた生涯のうちに、その願いが成就するのを見ることはついぞ出来なかった。
しかし、残したものは後世において大きく花開き、日本の未来をも変えていったのは事実である。

大正帝と跡を継いだ昭和帝がその後押しをした地方総監府は、日本全土に大規模な内需を喚起した。
広大な国土全体への社会基盤整備事業は、必要となる建材の生産や工事だけではなく、従事する工員の生活水準向上、彼らへの家電や必需品生産、という形で連鎖する。
こうした良性の経済循環は、1929年に発生した大恐慌の影響すらもろともせず二桁成長を維持させることとなった。

生活に余裕の出てきた一般市民は自家用車を買い、地形障害をものともしない高速専用道路で旅行へ出掛けていく。
長年の技術導入に加え、日本に合わせて作られた自動車は、百花繚乱の様相を呈している。
民間への導入も進んだ貨物自動車は、今まで雑誌で見るだけだった流行りものを地元で手に入れられる生活を齎した。

英独との技術交流でついに自国生産が可能となった貨物輸送機、比律賓方面から売り込まれる民間旅客機など、航空機の普及も進展。
企業人向けの定期便運行のみならず、安全性を認められ皇族や華族など上流階級向けの専属輸送も行われるようになっていた。
需要拡大に対応すべく搭乗員養成校はあちこちに設置されていたし、一部では華族令嬢のために女性搭乗員までも輩出されていた。

日英独の共同事業として推進された輸送鉄函方式は、物資の輸送速度を劇的に向上させるに至る。
日本化が進み本土に追い付け追い越せと努力する台湾や朝鮮、傀儡国家とはいえ独自文化が花開き近代化を推し進める満州国の旺盛な購買力に対応出来ていた。
英独との貿易に本方式が導入されるにはしばし時間を要するが、国内においては既に船舶・鉄道・自動車の連携が成立しつつあった。

東京-大阪を半日で繋ぐ弾丸特急は、一般市民層にとり関東と近畿との心の距離を縮める役割をも果たした。
敷設費用を早々に回収できた国鉄と鉄道省は、早速他路線の敷設を計画、実行に移していく。
とはいえ、樺太州から薩摩州までが鉄道で一本に繋がるのはまだまだ先の話ではあったが。


9. 後書き
1941年に勃発した第二次世界大戦において。
運転免許・操縦免許保有者が多くいたことは戦力の迅速な増強に寄与し、内需に応えてきた工場は戦時生産にも対応できた。
自動車や貨物自動車は戦時輸送において大きく活躍したし、大量の航空機搭乗員訓練の技術秘訣は大いに活かされた。
輸送鉄函による陸海連携輸送は同盟軍の兵站を支え続け、最後まで前線の兵士に物資不足を引き起こすことはなかった。
大正帝が残したものの意味は、歴史が物語っている。

695:名無しさん:2023/02/25(土) 14:09:50 HOST:24.184.151.153.ap.dti.ne.jp
以上となります。

元々は「大陸世界にコンテナ持ち込みてえ!」という欲求からでした。
が、他の設定と整合性とりつつ史実ベースで進めようとしたら何故かこうなりました。

夢幻会補正がかかっていない状態で物事を推し進めるとしたら「やんごとなきお方」の声が必要と考え、少し積極的に動いていただきました。
なので全体の文面としては「平成ぐらいの頃に書かれた、あまり知られていない業績を語るコラム」くらいのノリを想定しています。
そのために下調べをして辻褄合わせをしたらどんどん話が膨らんでいく羽目に……
上手にまとめておられる皆様方のすごさを再認識しました。

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最終更新:2023年05月04日 23:49