5:トゥ!ヘァ!:2023/03/04(土) 19:01:18 HOST:FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp
日本大陸 ブリテンゲート 北米徳川幕府の誕生とその後。


武理天(ブリテン)。それは平安時代に突如近畿に開いた天岩戸ノ扉(ゲート)は遠い東蛮(欧州のこと。ブリテン島から見て東なので東蛮)の地である武理天へと通じていた。

同地は征夷大将軍源頼光率いる軍勢により征服され、大和の地の一部となった。
その際に現地に住みついた人々が九州武者、坂東武者と並ぶ武理天武者または東蛮武者の原形とされる。

その後源平合戦の際に平氏が逃げ込み、没した地としても有名。
この際に数多くの平氏側武者も付き添い落ち延びたため、現在に至るまで武理天の地は平氏武者の血筋の者が多いとされる。

その後時は流れ鎌倉の時代となり大陸の覇者元による元寇が起きると武理天武者も駆けつけ共に戦ったという。

現地で刃と友誼を交わした北方武者 (ヴァイキング)により教えられた航海技術は荒波で荒ぶる日本海において元寇船団を散々に蹴散らしたと伝わる。
後にこれが瑞穂武者(グリーランド侍)の原形とされる。

その後鎌倉幕府が倒れ、平和な時代から南北朝時代になるまでの間に多くの武士や農家や商家の次男三男が武理天の地へと移住し、同地は大きく発展した。

最も武理天の地は土地が貧しいため、度々東蛮(大陸側欧州のこと)への出稼ぎ(略奪)に出かけねばならず、その際にかつて北方武者の航海術が役だった。

度々襲われていたフランスにおいては西から来る恐るべきオーガ(鬼)たちと記されており、教会の記述においても西から来る黄肌の悪魔として語られている。
ブリテン島は触れるべきではない悪魔の土地として欧州の人々からは敬遠された。

後の話であるが南北朝時代に丁度フランス王国の貴族たちが徒党を組んで武理天へ攻め込んできたことがある。
彼等は東蛮武者たちの出稼ぎに悩んでいた沿岸地域の貴族たちであり、略奪者の根を断つための逆侵攻を目論んだのだ。

しかし、実際に上陸した彼等貴族連合の多くは謎のフルアーマー万能武者軍団に襲われ、帰らぬ者となった。
これら多くの沿岸地帯貴族の喪失による仏西部の混乱と、西部諸侯へ影響力を広げることを画策した当時のフランス王による介入と、それを嫌った西部諸侯との対立こそが後の100年戦争ことフランス王国内乱の切っ掛けとなったという。

因みにこの100年戦争で有名な聖女ジャンヌ・ダルクであるが、最後はフランス王に見捨てられ、西部諸侯による火あぶりにされたが、そこに乱入した略奪中の東蛮武者により連れらされたという記録が残っている。
これはフランス側の記述にあるのみで、日本側の記述にはこれといったものはなく、以降ジャンヌ・ダルクの足取りは途絶えている。

一説には後にキリシタン一揆を主導した天草四郎の家系は元々武理天出身であったため、彼がジャンヌ・ダルクの子孫なのではないかという眉唾な話も存在する。


東蛮武者たちは出稼ぎの際に欧州側から多くの人手を攫って行ったが、中には当時魔女や異端者と呼ばれる人々もおり、彼等彼女らからは多くの知識が日本へと流れていくこととなる。
彼等彼女らには東蛮武者に連れていかれることはある種の救いであり、後の欧州から人を攫ってくる行為のことを御救いと呼ぶようになる。

また当時に魔女と呼ばれた技術者たちは東蛮武者に侍るようになり、魔女または異端者同士のネットワークを通じて、欧州大陸に残る魔女たちの手助けや情報収集を行うようになった。
武者に侍る魔女の忍びこと待魔忍(タイマニン)の誕生である。


こうして武理天武者たちは略奪の傍ら航海術を磨いていき、時が室町に変わり、その中で東蛮武者たちは西へ西へと進んでいった。
北方武者(ヴァイキング)から話を聞く理想郷の噂を聞いた無謀者たちが腕に磨いた航海術を頼りに海に乗り出したのだ。
当時の人々は彼等を冒険者と呼び、あざ笑い、そして尊敬したという。

既に北方武者と共に入植されていた瑞穂(グリーランド)を中継地とし、凍える海を越えて、新大陸に到達したものたちも出始めた。

この地のことを当時の人々は西蝦夷(ヴァルハラ)と呼んでいたようである。
この時期では到達者たちの数が少なかったため、本格的な開拓とはならず、新大陸が本格的に開拓されるのは徳川家康がこの地に移転されてからとなる。

6:トゥ!ヘァ!:2023/03/04(土) 19:01:55 HOST:FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp
話を戻し日本は戦国時代に突入する。そして武理天の地も否応なく時の流れに巻き込まれていく。

日本の戦国時代は教科書でも見られるように火力戦の時代であった。
東蛮から武理天に伝わり、武理天から天岩戸ノ扉を通じて日本にもたらされた火縄銃の類は大いに活躍した。

日本の戦国時代が血と汗と硝煙の時代と呼ばれるのは、それだけの火縄銃が各地で運用されていたためであった。

この時代は日本の戦術が武理天経由で欧州に輸出され、欧州の戦術が同様の経緯で日本へ輸入されるなど、両地域が活発に交流を始めた時代でもあった。

欧州で日本武者対策として流行ったテルシオ戦術は、日本へ輸入されて短時間で攻略されてしまった。
欧州と同等かそれ以上の火縄銃がひしめき合っていた日本においては銃兵の集中射撃により容易にテルシオが崩されてしまったのだ。

この大量にそろえた銃兵の集中運用という方法は後に欧州へ伝わり、オランダのナッサウ伯マウリッツの手に寄り改良が加えられたオランダ式大隊への昇華し、更にそれを逆輸入した織田信長が編み出した三段撃ち戦術が長篠の戦いで武田の無敵騎馬隊を打ち破ったという。


戦国時代に起こったことで外せないことと言えばスペインによる武理天侵攻とそれに伴うアルマダ海戦であろう。

当時欧州で無敵を誇ったスペイン艦隊が戦国時代で散々磨かれた日本側の長距離砲と艦上火中車、そして魔女狩り時代に日本へ逃げてきた錬金術師の末裔たちにより再現されたギリシャの火の極悪コンボにより散々に打ち据えられ敗北した海戦であった。

その後幾度かスペインは無敵艦隊を再建し、武理天へ送り込んだが、織田信長や豊臣秀吉の遠征により平定され、領地を削られた三好氏、毛利氏や島津氏、長曾我部氏といった武将たちが名誉挽回のために散々に暴れまわった結果ろくな戦果を挙げることができず、スペインは予備の人員と船まですっからかんにされたという。

逆に日本側は夜間に切り込み鹵獲した船が多数存在しており、むしろスペインとの戦争後の方が船の数が増えたという。

因みにこの際に獲得したスペイン船の設計を基に豊臣秀吉は東方探索のための大艦隊を揃えたと言われているが、これは誤りである。
実際にはスペインと戦になる前から東蛮武者の手に寄り御救いされた技術者たちが東蛮経由で日本本土に渡り、そこで東蛮船を建造していた。
この東蛮船は秀吉の九州遠征や関東遠征における補給で大いに役立ち、数多く量産されている。
実際にはこれらの船を用いて東方遠征艦隊を組織したのである。

鹵獲されたスペイン船が用いられたのは徳川家康による西蝦夷開拓団とその後の新大陸と武理天を結ぶための航路構築である。

何にせよ戦国時代の終わりと共に余っていた浪人たちや新天地を目指す没落大名たちを乗せて太平洋や大西洋へ漕ぎ出すこととなる。


またこの時代なら同じく外せないのが東蛮海賊もしくはカリブ倭寇と呼ばれる存在だろう。
俗に欧州では私掠船と呼ばれる公的な海賊船が盛んに大西洋を動き回り、多大な戦果を挙げていた話である。
この中には武理天周辺や大西洋周りだけではなく、遥々カリブ海まで赴きスペイン相手に略奪を繰り広げる猛者もいた。

この東蛮海賊ことカリブ倭寇は戦争が起きる度に活躍し、1800年代に廃れるまで多くの英雄とロクデナシを生み出していった。
赤髪、怪童、凛凛、白髭の四大海賊などは当時四皇と呼ばれるまでの巨大勢力であったほどである。

このカリブ倭寇や欧州海賊をモデルに書かれたのが後の大人気漫画ワンピースと大人気映画パイレーツ・オブ・カリビアンであることは誰もが知っていることだろう。

7:トゥ!ヘァ!:2023/03/04(土) 19:02:32 HOST:FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp
太閤秀吉が天下統一に成功すると上述の通り多くの人余りとなった。
そこで行われたのが当時保守はされど人は余りいなかった西蝦夷(北米大陸)の開拓命令であった。

これには徳川家康を筆頭として幾つか領土を移転されたものも携わることとなり、かなり大規模な開拓団となった。
当時開拓団の指揮を取った家康はそれだけでは足りないと欧州側からも合法、非合法問わず多くの開拓民を募り、欧州においては多くの傭兵や自由騎士という名の根無し草たちが応募し、新大陸へ旅立ったと言われている。
これにより当時の欧州で一時傭兵不足が起きたと囁かれるほどの大移動であった。

新大陸へ到着した徳川家康は早速東海岸(東蛮武者たちが発見した海岸なので東海岸と呼ばれる)地域の開拓を始めた。

多くのならず者や根無し草、現地の先住民との切った張ったもありながらも、東海岸の地に巨大な開拓都市こと江戸(史実ではニューヨークと呼ばれる場所)を作り上げることに成功する。

この地を中心に徐々に新大陸こと西蝦夷の開拓が進んでいくこととなるのだが、これと前後するように新大陸の反対側でも多くの開拓団が到着していた。

秀吉肝入りの棄民…もとい移民船団である。
北方武者(ヴァイキング)仕込みの航海術と戦国時代の最中に御救い者(御救いされた者達のことをこう呼んだ)たちの手に寄り建造された東蛮船によってカムチャツカ、アリューシャン、アラスカ経由で新大陸の西海岸(開拓者には西日本出身の浪人や大名が多かったため、彼らが見つけた海岸と言う意味で西海岸と呼ばれる)に到着した彼等も家康と時期を前後して開拓を始めた。

彼等の多くは前述の通り信長や秀吉に負け、領土を減らされた、または家が潰えた者達と新世界に憧れた一部の傾奇者たちによって構成されており、ある意味で開拓の意欲は家康率いる東部開拓団よりも強い物があった。

彼等はここで新たに家を興さねば、後がもうないという人物も多かったためである。
もしくは困窮する本家を救うためという意味合いも幾らかは存在した。

こうして始まった東西開拓は現地のインディアンを取り込みながらも順調に進んでいった。
しかしそんな中で事件が起こる。

160X年。史実より多少長生きした秀吉の死とそれによる後継者争いである。
この争いは日本本土のみならず、遥々新大陸の開拓地にまで波及していくこととなり、事態は深刻な様子を見せ始めた。

そんな中で起こったのが関ケ原(グレートプレーンズ)の戦いである。

これは戦国が終わったばかりの日本本土や開拓が進んでいる東西の開拓地の荒廃を嫌った徳川家康と石田三成が、迷惑にならない場所での決戦を選んだ結果起きた戦いである。

両人ともインディアンの案内人の下で新大陸中央の関ケ原(グレートプレーンズ)へ終結。
両軍膨れに膨れて西軍40万、東軍50万の大軍による一大決戦が巻き起こされた。

両者共に互角の戦いを繰り広げたが最終的に勝利したのは家康の東軍側であった。
開拓の際に現地のインディアンを多く取り込んでいた家康は関ケ原においても優位な立地を把握しており、更に地の利に明るい地元インディアンたちによる後方破壊工作も相まって元々まとまりに欠ける西軍側は徐々に瓦解。
最終的には事前に内通していた西側武将の幾人かが裏切ったことにより決着。東軍の勝利、西軍の敗北となった。

その後石田三成は西部地域に撤退したが、地元の開拓大名たちに捕らえられ、家康の前へと差し出されたという。
これは折角開拓した土地を取られたくないという開拓大名たちによるある種の命乞いであったと言われている。

また東軍に味方したインディアンの多くは取り立てられ、日本式の家名と官職が送られ、正式に日本の体制に組み込まれることとなる。
崇(スー)氏や亜八(アパッチ)氏、奈馬帆(ナバホ)氏などが有名どころである。

8:トゥ!ヘァ!:2023/03/04(土) 19:03:05 HOST:FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp
関ヶ原の戦いの結果により改めて徳川による天下が敷かれたが、まだこの後幾つかの出来事は残っていた。

大阪城において起こった二度の大阪の陣と島原の乱である。
とは言え正直この二つは左程大きな意味は持たない。どちらも徳川の世を覆すほどの勢いはなく、結局のところ失敗に終わったのだから。

特筆すべき点と言えば前述した通り島原の乱を率いた天草四郎はジャンヌ・ダルクの子孫ではないかという説と、大阪冬の陣で真田傭兵(真田家が新大陸でスカウトした凄腕の先住民や開拓民をしていた元欧州傭兵)を率いた真田幸村が家康の陣あと一歩のところまで肉薄したくらいであろう。


改めて天下を統一した家康は新大陸のみならず日本本土の復興にも着手した。
最もこれは豊臣政権時代からそのまま受け継いだ事業という部分も大きい。

未だ今一戦国感覚の抜けぬ関東などには自らが陣頭指揮を取り関東江戸を設立。
日本本土における政治的拠点とした。
主に新大陸にあるのが大江戸。関東にあるのが小江戸と呼ばれる。

徳川は当主が小江戸にて本土の政を行い、次期当主が新大陸の大江戸にて大陸の開拓業や欧州者(この頃には東蛮は武理天武者のことを指し、欧州本土の人間のことを欧州者と呼んだ)への対応を行わせた。

天岩戸の扉がある武理天や太平洋上の重要な寄港地または西海岸などには徳川の分家を置き、流通の掌握に努めた。
これが武理天徳川家、布哇徳川家、西部徳川家こと御三家である。


御三家設置後家康は本格的に引退し、息子へと実質的な権力譲渡となった。
以降は明治維新が起こるまで徳川幕府は流通網の維持と新大陸の開拓に勤しみ続けることとなる。


その後の話をしよう。
徳川幕府体制はなんやかんや200年ほどは続いた。

その間に西蝦夷やら新大陸やら呼ばれていた土地は改めて扶桑と呼ばれるようになった。

扶桑こと新大陸の開拓を続ける傍ら他の地域にも調査船団を差し向けた。
そうして1600年代後半に発見されたのが豪州こと蓬莱大陸である。

この地にも移民を行いながら、太平洋一帯は徳川のバスタブと呼ばれるようになる。

とは言え200年立つ頃になると流石に体制にも衰えが見えてきたため、改めて起きたのが明治維新である。

本土の薩長同盟と新大陸の府軍の戦いは数奇なことに天岩戸の扉を通じで行われたため、専ら戦場になったのは武理天であった。

両者共に遠隔地での戦争となったため、決定打にならず、ズルズルと長期化すると思われたが、欧州大陸からの介入の姿勢を見るや天皇体制の下に一致団結。

日本本土、太平洋諸島地域、カムチャツカ・チェコト、アラスカ、蝦夷(北海道)、扶桑(北米)、武理天領(ブリテン島)、瑞穂(グリーンランド)、蓬莱(オーストラリア)による巨大な国家連邦である日本連邦が誕生した。

天皇を共通の君主とし、その下に日系国家が参加する立憲君主制連邦国家である。

こうして徳川による幕藩体制は終わり、新たに日本連邦による新しい世が誕生したのだった。


この時代の逸話は多くある。

人余りした兵士や廃業しかねた元武士の士族などが開拓が余り進んでいなかった扶桑西部地域に集まった西部開拓時代。

一旗揚げようと田舎から武理天へと状況し、一躍有名となった倫敦新選組。

戊辰戦争の終戦により職を失った者同士。
見回り保安官こと西部新選組や旧奇兵隊関係者によって結成されたオッド・ソルジャー(奇兵)強盗団の対決。

不平士族をまとめ、不毛の地と呼ばれた蓬莱(豪州)開拓に旅立ち、後に現地の人間からは崇められるようになった西郷どん。

坂本龍馬率いる海援隊による世界一周航行と冒険譚。


現代でも語られる逸話の数々は正に新たな世の到来を叫んでいたのかもしれない。
終幕。

9:トゥ!ヘァ!:2023/03/04(土) 19:03:37 HOST:FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp
〇色々補足


  • 日本連邦
幕藩体制以降の日本の形。

東は日本本土から北はカムチャツカ、アラスカ。南はオーストラリアこと蓬莱、東は北米こと扶桑で更に大西洋挟んでグリーランドこと瑞穂で最後にゲートで日本本土と繋がっている武理天(ブリテン島)

太平洋はほぼほぼ日本のバスタブ状態。まっこと広うなり申した。

大英帝国とアメリカ合衆国と大陸日本が混ざった不思議な国。別名国力モンスター。

精神性が割と幕藩体制から地続きなので、すぐに刀を抜き始めるかもしれない。

まごうことなき世界一の大国であるが、逆に東にロシア、西にフランスと面倒なのに囲まれてもいる。

第一次世界大戦や第二次世界大戦がどうなるか想像もつかない(まだ考えていない)世界なのは確かである・




  • 朝鮮出兵がない
秀吉が太平洋調査やブリテン経由の新大陸開拓に人を送り出したので朝鮮出兵がない。

このため明が史実よりいくらか長生きした。しかしあの超絶駄目君主(これでも歴代中華皇帝の中ではまだマシ)な万歴帝であったため、結局彼の次の代には崩壊し、清となった模様。



  • イギリスがない
大英帝国起こらず。このため歴史が馬鹿みたいに変化している。
詳しくはまだ考えていない。

多分インドはまだ藩王国だらけで、欧州の国々が進出していそうだけど、多分バラバラに藩王国を支援したり取り込んだりしているので、誰かひとりの王冠にはならなそう。

東南アジアはオランダ東インド会社一強のまま…に見せかけて時代に経るにつれ日本の影響力が強くなっていくので、結局オランダは後々やりにくくなっていきそう。
このため多分多くの東南アジア諸国は独立を保てる…はず…

地中海は…地中海はどうなっているんだろう…
フランス?オーストリア?それともイタリア諸国やオスマンが未だ影響力を持っているのだろうか。

史実通りの七年戦争とかは起こりそうもないネ。
そも新大陸には日本以外ろくに入植していない。欧州の人間からは悪魔や蛮族が住む地と恐れられているため。

このため専ら欧州の進出先はアフリカや南米になりそう。
中米やカリブ海はカリブ倭寇が出るからね。怖くて一般人は近寄れないよ。

アヘン戦争もないので清のイメージは極東の眠れる獅子のまま、いつものように反乱が起きて多分崩壊。
その際にいの一番にやってきそうなのは…ロシア。
最悪は中国を舞台に日露戦争になるかもね。

10:トゥ!ヘァ!:2023/03/04(土) 19:04:11 HOST:FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp
  • フランス
ゲート開通当初のフランスは日本武者のおやつであった。詳しくは仏西部沿岸地域がおやつの供給源である。

100年戦争が西部諸侯と仏王の対立となってしまったが、まあ勝利者は多分王様側。
西部諸侯の敗因は常に武理天から東蛮武者が略奪しにきていて、戦力と国力の集中が行えなかったから。
なので多分中央集権化は史実より速いかもしれない。

フランス革命は制度疲労とラキ火山噴火による余波なので多分起きる。

ナポレオン戦争は史実?通り発生。
しかしトラファルガー海戦は史実通り敗北。相手は日本だけど。
多分当時の幕府はこれで危機感を持って海軍を始めとする軍隊を近代化し始めた。

しかしながら大陸封鎖例はあれど、ブリテン島はゲートのおかげで食うものに困らず。
また専らメイン航路が新大陸方面なので特に問題なく流通が続く始末。
何なら新大陸方面からの援軍が来ていればトラファルガー海戦も史実以上の敗北に終わっているかもしれない。

あとはこれまた史実通りに戦争で勝ったり負けたりでナポレオンは失脚。第二共和制へ移行って感じ。
その後も多分第二帝政に移行だろうけど、その頃丁度良く日本は明治維新からの日本連邦化なので、ここでナポ3が上手く立ち回れば日本の好感を得て、第二帝政が長続きするかもしれない。

その後は新大陸に領土を持ってないので多分アフリカに全ブッパ。
競争相手はスペイン、ポルトガル、オランダ、オーストリアあたり。
ナポ戦争がないんでベルギー独立せず、イタリアやドイツも統一されていないので、この時期では競争相手にならない。

なので仏西葡蘭墺が熾烈なアフリカ争奪戦を繰り広げていそう。

それ以降は今のところ未定。




  • ロシア
史実では大英帝国相手にグレートゲームしていたけど、この世界では英国が存在しないので…

ロシア君はもしかすればオスマン帝国の全ブッパ状態かもしれない。
目指せアナトリア半島掌握とペルシャ湾への進出!

欧州方面への進出は…誰が止めているんだろうね。
もしかしてポーランドがミラクル起こして欧州の防壁でもやっているのだろうか。
もしポーランドが駄目ならば、最悪バラバラのドイツ諸邦地域まで雪崩れ込んで、フランスやオーストリアと睨み合いしているかもしれない。

案外最も上手くいっていればアナトリア半島掌握して、コーカサスからイランやイラクまで進出しペルシャ湾確保。
からの欧州ではポーランドぶち抜いて、ドイツ諸邦荒してフランスと睨み合いという割とデカい版図のロシアが誕生しているやもしれん。

アジア方面では清国が眠れる獅子のままなので大人しいまま。
なんかよくわからないヤベェ―蛮族日本もカムチャツカやチェコトで元気だしね。

清崩壊後はアジアのどこかで日本と日露だ!どっちもフルパワーだからきっとひでぇことにいなるゾ(戦場になった舞台が)




  • スペイン
日本のおやつ二号。頑張って作った大陸領土も無敵艦隊も食われた。
何ならフィリピンあたりも取られている可能性大。
このため最悪はアジアへの根拠地がないかもしれない。そのせいで明へ銀が届かず、かの国が史実と同じか、少し遅れる程度で崩壊したのかも?

北米が良くわからん蛮族の住処になったので、欧州からの移民の大半は中南米にやってくるだろうから、中南米舞台兼スペインやポルトガルを相手に七年戦争みたいのが起こるかも?
スペイン・ポルトガル連合vsフランス。面白いカードだ。




  • オーストリア
多分ハプスブルク帝国のまま。
ハンガリーやらスロベニアやらも領土のままになっていそう。

ロシアがガンガンオスマン叩いていそうなので、案外バルカン半島方面にも結構伸びているかもしれない。

他は…イタリア諸国が統一されなければ飲み込んでいる可能性もワンチャン?
元は同じカトリックだし。

案外イタリア一帯はスペインと折半しているかもしれないね。

11:トゥ!ヘァ!:2023/03/04(土) 19:05:07 HOST:FL1-203-136-35-38.kng.mesh.ad.jp
投下終了

馬鹿歴史は作るの楽しいねぇ!

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最終更新:2023年05月05日 23:25