726 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/27(月) 18:59:32 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [220/297]
できました。ご笑納くだされば幸いです


  中島/川西 三式艦上戦闘機「陣風」

全長:10.2m
全幅:12.5m
全高:4.5m
エンジン:プラットアンドホイットニーR-2800-34W(日本名:「木星34型」)×1
プロペラ:ロートル社式3.84m径4枚プロペラ
出力:離翔2400馬力 定格2100馬力(高度6100m)
速力:最大686㎞/h(高度6560m)
航続距離:正規1710㎞ 150ガロン増槽あり2560㎞(戦闘航続半径950㎞+全力40分)
武装:ホ5 20ミリ機関砲×6

【解説】――中島飛行機が開発した帝国海軍の主力艦上戦闘機
1943年初頭より機動部隊に配備が開始され、それまでの零式艦上戦闘機と急速に置き換えられたことから大戦中期の帝国海軍の主力戦闘機とされる
エンジンは、ライセンス生産された当時最新のR-2800-34Wエンジン(開発中だったXF‐7‐Fなどと共通)を採用し、当時の戦闘機としては最高レベルの出力を確保し、プロペラは英国ロートル社からライセンス生産したスピットファイアと共通のものを採用
この組み合わせにより、試作機は最大711㎞/hに達する快速を誇ったが、パイロット損耗を抑えるべく追加された防弾装備や主翼折り畳み機構の追加によりやや速度は低下し高度6560mで最大686㎞/hとなっている
武装は、零式艦上戦闘機用のエリコン社製改良型に替えて陸海軍共通の軽量20ミリ機関砲(両軍とも20ミリ以上は砲と呼称を統一)ホ5を6門搭載。
イスパノ社製機銃ほどではないもののスピットファイアや米国のF4Uを上回る大火力となった
三菱の「烈風」と異なり太平洋においても使用を考慮して設計されたことから航続距離は長大で、英国製ペーパータンク(300ガロン)搭載時には3000キロにも達する
ただし艦上運用上は150ガロン搭載の方が一般的であった
本機の開発に際して帝国海軍当局は完全に米国技術導入のために開き直ったとも称される態度で臨んでおり、エンジン製造ラインや艤装の製造ラインも米国から製造機械ラインを購入している
さらに多国籍での運用も考慮して人間工学的な配慮がされた操縦席回りはそれまでの日本機からすると雲泥の差といわれる居住性が確保されていた
特に艤装において米国からのライセンス部品が多用されたことは現場において非常に好評であり、のちの戦闘機のスタンダードとなった
本機の開発は中島飛行機の倉崎重蔵技師と川西飛行機の菊原静男技師が指名され共同で行われたことに特徴があるが、二人はまるで旧知の間柄であるかのようにスムーズに作業をこなし、周囲を驚かせたという

なお本機は、のちに国産のハ‐44こと土星発動機(2800馬力)に換装され(陣風改)、1947年の終戦時にあっても二線級部隊に一定数が配備されていた

733 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/27(月) 20:56:29 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [221/297]
【開発】――1940年、バトルオブブリテンを辛くも乗り切った帝国海軍はひとつの困難に直面していた
傑作機となった零式艦上戦闘機の後継機問題である
幸いにも、まるで図ったかのように三菱の堀越二郎技師は機体各部とエンジンを強化した22型(史実52型)と、エンジンを1500馬力級の「金星」発動機に換装した33型(史実64型)の構想を提出していたことから当分はこれで十分ではあった
だが、それに続く新型戦闘機の開発において困難が生じた
のちに政財官において「従軍派」と呼ばれることになる欧州戦線従軍組の人々が前線から届ける要望と、中央の要求に乖離が生じていたのである
欧州戦線からは、バトルオブブリテンにおいて英国製スピットファイアに惚れ込んでしまった士官級搭乗員たちからまず加速力と最高速力を確保し、軽快な運動性も有する、いってみればスピットファイア強化型が要望されていた
場合によっては英国製の機体の導入も考慮すべきと申し添えて
帝国海軍としては、太平洋上でも艦上機を使用することから欧州戦線に比べれば長大な航続距離が必須である。だが当分の間日米戦の脅威など存在していない現実からある程度妥協もやむなしと考えられ、1940年7月、三菱を、もっというと零戦の堀越二郎を指名して15試艦上戦闘機の発注が行われた
だが彼らは堀越二郎という男を見誤っていた
いつの間にか英国メーカー各社に伝手を作っていた彼は、英国が次期戦闘機用に開発している新型液冷エンジン グリフォンの存在を嗅ぎつけておりその人脈の限りを尽くして試作品を日本に持ち帰ってしまっていたのだ
英国としても本国が再び爆撃を受けた場合に備えて日本本土に製造ラインを確保するというのは魅力的な提案であり、帝国海軍当局が気付いたときには既に三菱と英国メーカーの間で覚書が交わされる状態にあったのだった
海軍航空黎明期に欧米製の液冷エンジンを輸入して使用経験があった海軍当局は少々顔をしかめた
海外製はもとより、国産化された液冷エンジンは油漏れやノッキングなどのトラブルを頻発させ、整備面で大幅に問題を抱えていたからである

「とてもいやな予感がする…」

空技廠の和田操廠長がいみじくもこういった予感は当たっていた

「誰だァ!こんな機体作ったのは!!」

横須賀海軍航空隊から海軍省に殴りこんできた担当者は開口一番そう叫んだという
彼らが試験的に購入し運用していたのは、英国海軍のシーファイア艦上戦闘機
その整備性は控えめに言っても最悪であり、特に帝国海軍機動部隊で運用するなど考えられない代物だったのだ
海軍のトラウマはさらに強化された
だが、堀越二郎は抜け目がなかった
なんと彼は英国海軍を抱き込んでいたのだ
英国海軍のイラストリアス級空母のエレベーターサイズは特に横幅わずか6.8m。バトルオブブリテンで高性能ぶりと長大な航続距離から防空戦闘における救世主となった零式艦上戦闘機は運用不可能だった
そのため、英国海軍は主翼の折り畳み機構追加を要望し、そこに堀越は海軍の次期艦上戦闘機計画を匂わせたのであった
堀越としては善意の行動であった
当時英国海軍は新型艦上戦闘機を計画しておらず、シーファイア艦上戦闘機は陸上機からの改設計であることから無理が多発していたからである
そこで彼は自分の欲望に正直になった
彼はわずか1か月でマーリンの後継、グリフォンを使用した新型戦闘機の構想を練り上げたうえで日英共通戦闘機とする構想を海軍当局に吹き込んでいたのだ
気が付いたときにはもう遅かった

「これを機に帝国海軍でもグリフォンが運用可能なように組織改革を行うべきでは?英米の技術水準に一気に追いつくこれは好機ですよ」

文句を言ってきた海軍省の担当者に堀越はこう告げた
腹が立つことであるが、それは事実だった
だがまだ問題があった
堀越らが試案を提出した機体は確かに高性能ではあったし陸上運用すれば素晴らしい戦闘機になることが約束されたような機体だった
だが、英国から技術導入されることになった樹脂強化された大容量の紙製燃料タンクを使っても、航続距離はわずか1500㎞程度だったのだ
確かに欧州で使用するにはこれでも構わないだろう
だが、海軍は北海や地中海のみで活動するわけではないのだ
それに、まるで何かの鬱憤を晴らすように一人の設計者に海軍当局が振り回されてしまうのも癪に障る話だった
(なお、こうした堀越に代表される態度は戦中の帝国航空技術者やメーカーにほぼ共通している。最後まで帝国海軍はそんなアクの強いメーカーたちに振り回され続けることになるのである)

734 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/27(月) 20:57:02 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [222/297]

そして、和田操空技廠長はいい笑顔でこう言った

「私にいい考えがある」

彼は、元海軍機関大尉であるにも関わらず海軍とは疎遠であったはずの中島飛行機から一人の設計者に白羽の矢を立てた
倉崎重蔵技師
人物としては英国から帰ってきてから奇人変人度を天元突破させた堀越とどっこいどっこいの若手設計者である
どこからか和田の個人的な知己を得ていた倉崎はお偉方の前でこうのたまった

「どぅあーいじょうぶ!むゎーかせて!!」

その言葉の通り、倉崎は1940年11月、空技廠に簡単な設計図を持ち込んでのけた
長年温めていたという戦闘機の構想がそこにはあった
英国との関係上、既に仮称「烈風」と呼ばれるようになった三菱案の開発案は中止にできない
ひとまず14試局地戦闘機という名目で発注をかけられていた三菱をあてにできない以上、彼らは中島に頼るしかなかった
倉崎は海軍当局が自分も暴走しかねないと危惧しているのを察し、自ら海軍子飼いの航空メーカーである川西飛行機(彼らは英国向け飛行艇の設計と水上戦闘機の開発に忙殺されていた)と空技廠から人員の派遣を受けることを申し出た
のちに19試甲戦と呼ばれる帝国海軍最後のレシプロ艦上戦闘機の開発にも関わることになる菊川静男技師がまるで厄介払いされるようにつけられたのはそういったわけだった
(彼は水上機でなく陸上戦闘機を設計させろとうるさかった)

こうして1940年12月30日、辛うじて15試(海軍昭和15年試作艦上戦闘機)となった機体は開発が開始された

この段階で、倉崎が望む馬力を出せるエンジンは存在していなかった
帝国の航空各社がそろって「海外からの技術導入がなければ2000馬力級発動機は1943年頃まで開発不可能」と訴えているのを無視して海軍当局が試作を進めていた小型高性能発動機は試験こそされていたが

「量産性最悪だこれ。こんなのシーファイア運用する方がまだマシだぞ」

といわれる代物であった。文句をいっても

「だからいわんこっちゃない」

と冷淡な態度をとるようになっていた航空メーカー。彼らは彼らで飛行機狂いの政友会総裁でもある中島知久平に感化されて「太平洋横断超重爆撃機Z機」や「最後のレシプロ戦闘機用のレシプロエンジン」の開発に血道を挙げていたのだが今はその話は置いておこう

「なら米国からライセンスすればいいじゃなーい。こっちは空冷だぞ」

倉崎と和田が軽い態度でそう述べたとき、選択肢はもはや存在しなかった
川崎?
マーリンエンジン積んだ新型機にかかりきりですが何か?
かくて1941年3月、帝国海軍の懇願によりレンドリースの適用を受けることになった航空エンジンとして、P&W-2800シリーズが来日する
その安定した高性能ぶりは海軍当局を狂喜させ、すぐさまライセンス生産が決定する
代償として差し出されたのは、帝国海軍が誇る秘密兵器だったはずの酸素魚雷だった
(なお米海軍の駆逐艦乗りたちは狂喜した)

このような紆余曲折を経て開発が開始された機体は、「烈風」と対になるものとして「陣風」という仮称が早くも内定
1941年8月にモックアップ審査にこぎつけると1942年10月に試作1号機が初飛行する
このころになると、関係各所の努力によって日本国内にアメリカ標準のエンジンや艤装品の量産工場が稼働を開始しており、海軍当局は制式採用を待たずすぐさま量産を指示した
1943年1月、「陣風」は初期製造分が欧州戦線に配備
奇しくもそれは英国機動部隊に「烈風」が納入されるのと同時であったという

735 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/27(月) 20:59:18 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [223/297]
というわけで開発経緯について一本
戦歴については後日…

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最終更新:2023年06月18日 22:16