920 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/28(火) 20:53:25 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [281/297]
意外に思うかもしれないが、1930年代のナチスドイツにとって日本という国とそこに暮らす民族の印象はそれほど悪くはなかった
あくまでも欧州一般が抱く対日感情という枠内ではあったが、新興列強である日本以前に江戸時代以来のジャポニズムの対象としての印象の方が強かったからだ
アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」においても、日本人は黒人やスラヴ民族その他の劣等人種とされた人々と比べると一段上の扱いがなされていた
むろんアーリア人至上主義である当時のオカルト思想に傾倒していたヒトラーは物まね民族であるという扱いを崩すことはなかったのだが
そんなナチスが一転して日本人を敵視するに至った理由は後世から見れば極めてバカらしいことになる
「扱いに困ったところにナチス幹部の悪感情が伝染したから」
単にそれが理由だったのだ

1940年6月、フランス降伏

そのとき、ドイツの手の中には降伏したばかりの帝国陸軍2個師団4万名(合計1万名が戦死していたことが激戦のほどを物語っている)があった
アルデンヌの森を突破して侵攻してきたドイツ軍集団に包囲されたことや、当時の第7装甲師団長エルヴィン・ロンメル中将が「自らの名誉にかけて捕虜としての権利を守る」と約束したことにより降伏を決意した彼らに対し、ドイツ軍は型どおりの扱いを行った
まさにドイツ的律義さの発露としてドイツ国内に連行された4万名あまりの捕虜たちだったが、すぐにドイツ軍は困難に直面することになる
帝国陸軍はお粗末なことにこの時点でも捕虜となった場合の心得について満足な教育を行っていなかった
あったのは、断続的な対中治安戦での中華民国諸軍閥による帝国捕虜虐待への反発から生まれた「捕虜になるくらいなら死を選べ」という風潮くらいのものだったのだ
そのため、彼らは捕虜となってしまったことにより急速な無気力状態に陥ってしまったのである
当然、捕虜の義務とされた労役の効率は上がらず、ドイツは苛立ちを深めることになる
ドイツ軍が快進撃を続けているうちはまだよかった
だが、バトルオブブリテンや北アフリカ戦線でそれが食い止められたとき、苛立ちはさらに深まる
そして、対ロシア戦後のスラヴ民族の「処理」方法を研究していたアルベルト・シュペーア率いる軍需省のある小役人が気が付いてしまった

「日本は、捕虜の扱いに関するジュネーヴ条約に批准していない。ソ連と同じく日本人に対して人道的扱いを行う条約上の義務は生じない」

この事実はドイツ的律義さで総統に報告され、結果日本軍捕虜への待遇は一変する
対日同盟交渉を主導しつつも失敗した政治的失点を帳消しにしようと焦っていた外相 リッベントロップもその動きを後押しした
控えめに言って八つ当たりであるのだが、リッベントロップとはそういう性格をした男だったのだった
かくて悲劇の撃鉄は起きる
まずは、強制的かつ奴隷的な労役が課せられた
半年余りが過ぎたころ、バルバロッサ作戦が計画よりも1年遅れで発動。数百万ものソ連軍捕虜が流入する

921 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/28(火) 20:53:58 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [282/297]
その扱いは日本軍捕虜と同様とされ、アルベルト・シュペーアらは人種的カテゴライズをこれまたドイツ的な律義さでアジア人としてスラヴ人と日本人を同等に扱ったのである
ここに第二の撃鉄が起きた
次なる撃鉄は1942年6月、悪名高いユダヤ人絶滅政策を決定づけたヴァンゼー会議によって起きた
予想以上に速いドイツ軍のソ連侵攻速度から誇大妄想的な東方生存圏の確立が確実視されはじめ、とりあえずという形で熱心にロシアの再独立と友邦としての再出発を主張していた元ソ連軍のウラソフ将軍の計画に乗ることが決められたのと同時に、同じカテゴリーに含まれていた「アジア人」日本軍捕虜の扱いが問題となったのだ
ロシア人同様に解放するには、いささかドイツ人たちは日本軍捕虜を手荒に扱い過ぎていた
この時点で生存者は3万5000人あまりに減少していたほどだったからだ
ごく短時間の討論によって、日本軍捕虜の扱いは「アジア人」から「敵性民族」に格下げされた
それは、ナチスがユダヤ人に対して設けていた区分だった
なぜならば、解放されるべきでない人々として扱われていた健常者はこの時点でこの区分以外に存在していなかったからという単純な理由である
この報告を受けたヒトラーは積極的に賛同こそしなかったが、シュペーアからの「労働により日本軍捕虜を使いつぶす」という提案に裁可を与えることになった
ちょうど、ソ連軍捕虜の釈放によって収容人員の数が減少しつつあった収容所に空きがあったことは誰も気にも留めなかった
こうして、日本軍捕虜はドイツ南部から旧ポーランドに位置する強制収容所へと「補充人員」として送られた
その名を、アウシュヴィッツ
そこで日本軍捕虜は、手続きに従ってまさにドイツ的律義さの発露ともいえる扱いを受けることになった
前述したように、敵性民族へと区分を変更されたことにより、彼らは殲滅対象と同義であると扱われていたからである
同時に収容されたソ連軍捕虜のうち共産党員や秘密警察職員を除いた人々がウラソフ将軍のロシア解放軍に志願することで釈放されて減少した収容人数の中に彼らはぴったりおさまった
そして、強制労働によってすっかり従順な生ける屍と化していた日本軍捕虜は、当時のナチスが垂れ流す宣伝により勢いを増していた人種的偏見と、単に見た目が区別しやすいという理由からある実験の対象となった
ユダヤ人の毒ガスを利用した殲滅、その実験である
1942年8月に行われたこの実験により800名が一気に殺戮されたことによりいわゆるホロコーストの準備は整ってしまった
あとは、もはや止めることができなくなった
日本軍捕虜は、後になってきちんと捕虜教育を施された人々と異なり無気力状態であった
労働力としての魅力は低いとみなされ、彼らは次々に殺戮されていったのである

1942年12月、そんな事情が外へ漏れる
大胆にもアウシュヴィッツへと潜入したポーランド軍情報将校による報告が連合軍の手に渡ったのだ
日英は恐怖し、そしてそれを未だ参戦するか否かで国論を二分していたアメリカ合衆国向けの宣伝に使用することにした

まさか、この事実を暴露されたドイツが自らの過ちを糊塗するために「ユダヤやボルシェヴィキズム、そして日本帝国主義者の地球上からの殲滅」を勢い余って宣言してしまうという事態が起きるとはこの時点では誰も予想すらしていなかった

922 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/28(火) 20:55:30 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [283/297]
というわけで、征独日本世界におけるボタンの掛け違いについて一本
難産でしたのでだいぶお待たせいたしました

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最終更新:2023年05月27日 19:24