32 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/29(水) 21:09:00 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [8/235]
すいません。投下しなおします




中島 試製「富嶽」(1944年試作1号機)

全長:46.0m
全幅:63.0m
全高:8.8m
自重:55.1トン
エンジン:三菱ハ50‐11型 B8排気タービン過給機付き空冷星型22気筒エンジン(離翔3400馬力)6基
最大離陸重量:138.0トン

最大搭載量:爆弾など最大35トン(4000キロメートル航続時) 通常時15トン(1万9000キロメートル航続時)
最大速度:610㎞/h(高度1万1000メートル)



中島 五式超重爆撃機 「富嶽 12型(富嶽改)」量産型(英名Z-plane 米名ピースメーカー)

全長:46.0m
全幅:63.0m
全高:8.8m
自重:51.8トン
エンジン:プラットアンドホイットニーR-4360-51 空冷星型28気筒エンジン(離翔4300馬力)6基
最大離陸重量:140.8トン

最大搭載量:爆弾など最大39トン(4000キロメートル航続時) 通常時20トン(1万5000キロメートル航続時)
最大速度:633㎞/h(高度1万1000メートル)




中島/コンソリーテッド 六式超重爆撃機「富嶽改二(34型)」


全長:46.0m
全幅:63.0m
全高:8.8m
自重:65.1トン
エンジン:ライカミングR-7755-20液冷星型36気筒エンジン(離翔6500馬力)6基
最大離陸重量:165.5トン

最大搭載量:爆弾など最大52トン(3000キロメートル航続時) 通常時25トン(1万3000キロメートル航続時)
最大速度:680㎞/h(高度1万1000メートル

82 名前:ひゅうが[age] 投稿日:2023/03/30(木) 15:41:28 ID:p6280002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp [11/235]
32
解説いきます

【解説】――日本の中島飛行機が米英両国とともに開発した巨人爆撃機
富嶽とは富士山の美称で、英米両国では「Z-plane」あるいは「B-36ピースメーカー」と呼ばれている
本機は第二次世界大戦後期に登場し、日米英統合爆撃機「Z機」として各国合計2181機が製造、枢軸国打倒に大きく貢献した機体である
21世紀現在もエンジン換装のうえで各国で現役であり、2040年代頃まで運用される計画である
本機の構想のはじまりは、中島飛行機の社長でありのちに副総理にまで上り詰める政治家でもあった中島知久平が1937年に発表した「必勝戦策」にまでさかのぼる
この中で中島は、米国やソ連を相手にした戦時において後方工業地帯を爆撃できる仮称Z機1000機を量産して長期戦においても帝国を必勝ならしめることを提案していたが、第2次世界大戦時に軍需大臣に中島が就任していたことと英国陥落後も抗戦する必要が帝国上層部と米国にも認められたことから1941年初頭には各国合同での計画に発展した
あらかじめ1939年頃から中島飛行機で独自に設計と開発作業が進行していたこともあって開発は英米メーカーとの協業により急速に進展
1944年2月に輸送機用として試作初号機が初飛行すると、8月にはエンジンを米国製に換装し機体構造を再設計した実戦型の12型が初飛行。高性能を発揮し直ちに採用され量産に移された
生産は中島飛行機、コンソリーテッド・ヴェルティ(コンベア社 米国)、アヴロ(英国)の各社が並行して担当(危険分散のため設計図を三社で共有した)
当時としては目新しいジョイントベンチャー式により製造会社を設けてこれにあたった
なお生産予算は米国支出が大半であり対外有償軍事援助(FMS)として扱われたことから一部を除いて第2次世界大戦後にはアメリカ空軍に移管されている
第2次世界大戦時には各国首脳を運ぶ初期の政府専用機としての役割を果たした

1945年3月には初期飛行隊が編成されドイツ本土空襲に初参加
同年10月までに600機が製造され、ドイツ本土各地を焼き尽くしていった
とりわけ1945年12月から開始された「1000機爆撃」こと「ゴモラ作戦」では、それまで投入されていたB-29Bの実に4倍に達する爆弾搭載量から1出撃あたり3万トン以上もの爆弾を投下することで初期型の原子爆弾なみの破壊を振りまき、ドイツ人の恐怖の的となった(なおローテーションの都合上、これ以後は500機から700機程度による連続した爆撃へと移行することになる)
1947年の終戦までにドイツ本土の人口1万人以上の都市の実に95パーセントが焦土と化し、爆撃目標がなくなった富嶽(富嶽改2)は目標を強大なドイツ陸上部隊やナチスに奪われていたヨーロッパ・ロシア各地、地下移転された軍事目標群や要塞地帯への地中貫通爆弾投下といった各種汎用任務に転用されていった
特にドイツ陸軍最後の大攻勢とされる「ライヒの復活」作戦に対しては緊急出撃した600機あまりで機甲軍団に対する絨毯爆撃まで行っている
大戦末期になると、ドイツの地対空ミサイル(ライントホターやヴァッサーファル)配備によって被害が増大したことから密集編隊によるコンバットボックスこそ組まなくなったが本機の搭載量と欧州という狭い大地での運用から凶悪極まる搭載量による攻撃力は健在で、終戦まで陸上部隊に対する支援攻撃で活躍した
(あまりに便利であったことから戦後アメリカ軍はエアランドバトル構想と呼ばれる空陸司令部規模での統合運用を実用化する)
終戦間際には、開発されたばかりの核兵器のうち威力を増大させたブースト型原爆(数百キロトン級)を唯一搭載できたことから有名な報復攻撃にも参加している

戦後は、大戦中に作りすぎた初期型をモスボールする傍らでエンジンをIHI(中島・石川島のエンジン製造部門を統合し分社化)製のターボプロップエンジンに換装し主翼を巨大な後退翼へと変更した「富嶽改三(45型)」を除き一線級部隊から下げられたが1960年代までは現役
富嶽改三は数度の改修を経たうえで前線への航空支援や巡航誘導弾母機として21世紀現在も現役である
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最終更新:2023年06月18日 22:16