254 名前:148[sage] 投稿日:2023/04/02(日) 12:54:51 ID:133-32-178-10.west.xps.vectant.ne.jp [4/18]
ひゅうがさん支援ネタ
1939年陸軍人事をめぐるあれこれ
1939年の帝国陸軍には昭和天皇から信頼される二人の将軍がいた。
一人は二・二六事件後、粛軍人事を主導し、陸軍の綱紀粛正に功の有った梅津美治郎。
もう一人は政治的に中立で人柄も温和な畑俊六である。
史実でも米内内閣が成立する際、天皇陛下からは「陸相は梅津か畑か」との言葉があったというが
この二人に対する天皇陛下の信頼は
征独世界でも変わらなかった。
故に、ノモンハンを契機とした陸相の交代に際して、陛下の内心は「梅津か畑か」であった。
とはいえ、この時は宇垣一成が盛んに運動したことや、宇垣に期待する既成政党や宮中の思惑も合わさり
梅津でも畑でもなく宇垣が陸相に返り咲くことになる。
さて、陸相に返り咲いた宇垣である。
かつて広田弘毅内閣崩壊後、大命降下があったにも関わらず陸軍中堅層の抵抗にあい組閣を断念したように
陸軍内での人気は極めて低かった。
先の組閣断念の際には、子飼いであり「宇垣四天王」とまで称された小磯國昭や杉山元にすら裏切られるほどの惨状であった。
また、石原莞爾ら満州派からは特に嫌われており、先の組閣を断念した際も、今回陸相に就任する際も怪文書すらばら撒かれる始末であった。
これでは粛軍を期待されて陸相となったとしても何も出来ずやがて陸軍内の反抗に遭い地位を失うことは火を見るより明らかであった。
そこで陸相就任後、宇垣が構想した手立ての最初の一つが、自身と陛下の意向を体現し陸軍を正す人事構想であり、まずは梅津と畑の処遇に関する人事であった。
まず、梅津であるが、二・二六後の粛軍を主導して恨まれるどころか、予備役に入れられる皇道派軍人たちからして
「梅津がそう判断するのならしょうがない」と言わしめる程のエリート中のエリートたる彼は関東軍司令官として満州へと派遣するのが宇垣の構想であった。
これは満州事変以来、政府は勿論、陸軍中央の意向すら無視して暴走し続け、
果てはノモンハンにて第23師団を壊滅させた関東軍に対して大ナタを振るえるのは彼しかいないと誰もが納得する人事でもあった。
次に畑である。
昭和天皇からは「侍従武官として畑が欲しい」という要望があったのだが、
宇垣としてはこの政治的に中立で穏健派の彼を陸軍三長官の残る二つのポストのうちのどちらかに就けたいと考えていた。。
畑自身は政治的野望を隠そうともしない宇垣に内心嫌悪を抱いていたようであるが、同時に早世した兄英太郎がかつて宇垣閥の中核にあって
一時は宇垣閥の後継者とまで目されており、その様な経緯から弟である畑俊六も引き立てられたという自覚があったから、内々に宇垣から構想を聞かされた際、
陛下がご承知であるのなら、という条件付きではあるが否を唱えることはなかった。
255 名前:148[sage] 投稿日:2023/04/02(日) 12:55:25 ID:133-32-178-10.west.xps.vectant.ne.jp [5/18]
こうして、関東軍に対する統制と省部、宮中を抑えた宇垣が次に取り掛かったのが報復人事であった。
満州派に対する「大粛軍」と同時進行で、かつて宇垣内閣を流産させた面々への報復は政治的にはどうしても必要なことであった。
とはいえ、「大粛軍対象者」でない限り、陸相となった宇垣に対して恭順を示すのであれば敢えて前非は問わないという温情あふれる「報復」であった。
結果として、石原莞爾らの使嗾を受けて、広田内閣崩壊後、西園寺公からの推挙を受けて上京する宇垣に対して
中島今朝吾を遣って大命降下を断るよう言わしめた寺内寿一すら現役のまま残ることとなったのである。
寺内に関してはもう一つエピソードがある。
かつて宇垣軍縮の際、宇垣は寺内を予備役に編入するつもりであった。
だが、長州閥で陸軍元帥ともなった寺内正毅の長男に流石に辞令一つだけでは、ということで直に面談してその旨を伝えることとした。
その面談の席上、「爵位もあることだし退役して貴族院議員になってはどうか?」と勧める宇垣に対して、
寺内は「自分は母の胎内にいる頃から陸軍軍人である。どのような地位でも良いからどうか現役のままでいさせて欲しい」と神妙に懇願するので
宇垣としても馘首を引っ込めざる得なかったという。
ノモンハン後の人事でも同じような情景が繰り返された。
ただしこの時は、先の寺内の台詞に加えて、実利も示されたという。
「いずれ欧州に陸軍が派遣された際、派遣軍の司令官には余程の“格”がなければなりません」
「そうでなければ、英仏指揮官の無茶な要求をされて抵抗も出来ずに我が軍はすり潰されてしまいかねません」
「不詳、陸相経験者であり、総理大臣の息子であり、爵位持ちの自分であれば、英仏と雖も無遠慮に要求するようなことはできないでしょう」
「だから、どうか閣下、私を現役将官のまま一生軍人でいさせてください」と。
この時も宇垣は寺内の説得、懇願を受け入れたようである。
それどころか、この時の寺内の説得に一理あると思ったのであろう。
欧州への一次派遣軍の司令官に寺内を就けることになったのである。
それが、寺内のみならず派遣された将兵の悲劇的運命につながろうとは、
宇垣にしても寺内にしても、この時は思ってもみなかったことであった……
256 名前:148[sage] 投稿日:2023/04/02(日) 12:56:12 ID:133-32-178-10.west.xps.vectant.ne.jp [6/18]
というわけで、ひゅうがさん構想の1939年8月の宇垣陸相就任から、欧州派遣軍司令官寺内寿一に繋がる陸軍高官人事ネタ支援でした。
書いてませんが、花谷とか田中隆吉とか問題児連中はみんな欧州派遣軍の参謀や旅団長にしてドイツ人に最終的解決してもらうといいかもしれません(鬼畜)
宇垣の前任陸相は板垣征四郎ですかね?
米内の同郷で中学の後輩。
史実でも政治志向は全く違っていても馬は合ったそうですから、何とかやっていけたんじゃないでしょうか?
ノモンハン後の「大粛軍」で宇垣と交代した後は石原莞爾ら満州派として予備役編入されてそうですがw
この人戦はあんまり上手くなかったようで、シナ事変で酷評されとります。
梅津さんは、たぶん無色透明中立の立場で関東軍を立て直せるのはこの人しかいないかな? ってことで関東軍司令官に
東条さんは、長州閥引き継いだ宇垣に対して敵愾心スゴイしちょっと任せられないかなって。
中の人がいれば別ですがw
畑さんは米内総理誕生時点で既に侍従武官かも。
陸軍省に入れても省内のことなんも分からん人なので、宇垣陸相にとってかえって都合のいい教育総監かも。
問題は宮様参謀長。史実だと40年代までは参謀総長として居座るんですが、征独世界だとどうなるのか。
皇族参謀総長でガチ戦は色々とまずいということで、39年9月には辞任して、畑を参謀総長にするのもありかも。
宇垣閥には一応、杉山元という「宇垣四天王」がいて陸軍三長官に就けても良いかと思ったんですが、広田内閣崩壊後宇垣の事裏切った経歴があるし
そもそも中の人がどうなっていのか分からないので扱いに困って取り上げませんでした(爆)
そんでもって寺内さん。
この人史実でも宇垣さんが宋襄の仁を見せて現役続けられたのに、その後恩に報いるどころか組閣潰しに協力しちゃう。
太平洋戦争では南方軍総司令官ですが、レイテ決戦に至るまでの経緯見るとどうしてもなぁ……
宇垣さんはやはり長州閥を引き継いだ立場の人間として、ビリケン宰相への敬意とかそういうのがあったようなので、
良かれと思って寺内さんを再度救った結果、逆に地獄にやってしまうことに……
最終更新:2023年05月20日 18:36