203:奥羽人:2024/02/22(木) 23:04:00 HOST:sp1-73-138-24.smd01.spmode.ne.jp
近似世界【日欧貿易の歴史】
現在で言う日欧貿易の始まりは、およそ16世紀後半、
日本大陸の天下統一まで遡る。
16世紀末から17世紀初頭にかけては、日欧の貿易はマカオや東南アジアを介して行われた間接的な物だった。
この頃のジャワやマレー半島は東洋の貿易中心地であり、各国の貿易船が行き交っていた。
当時の日本からは主に銀、武器、硫黄、海産物等が輸出されていた。
そして中国から生糸や織物、砂糖、陶磁器が、東南アジアから香辛料等を輸入していた。
この時に東南アジアを介して欧州の産物も日本へと入って来ており、日本の欧州への関心は日増しに高まっていた。
事態が動いたのは17世紀前半である。
1620年のジャワ戦争、1628年からの日西戦争にて、日本は東南アジア地域における主導権を欧州勢力から奪い取ることに成功し、結果的に東南アジアでの貿易はオランダに独占権が与えられた。
また、中国では後金(後の清)が挙兵して明に侵攻しており、社会の混乱によって正規の貿易量の低下と海賊の跋扈を招いていた。
香辛料貿易のオランダによる独占化の進展と、明の織物や陶磁器の輸出量低下が進むと、欧州諸国はこれらの産品を日本に求め始めたのだった。
日本も同時期に、天下統一後に国家事業として進められた「宝永の殖産興業」によって全国で産業が育成されて産物の輸出先を求めており、欧州の需要は正しく渡りに船であった。
17世紀始めから日本製の織物や陶磁器、武器の輸出が大々的に始まり、欧州に日本の産物が流れ込むにつれ、日本製の品は質実剛健かつ安定品質として好評されることとなっていく。
特に、日本製の銃砲は欧州のそれより射程と命中精度に優れており、尚且つ「金があればあるだけ買える」と言われる当時としては優れた生産能力によって、早急に武器を必要としていた勢力に重宝されることとなる。
(
夢幻会の産業介入によって、同時期の欧州に比較して規格化や生産技術が先行していたのが主な要因)
また、東南アジア産香辛料を一旦輸入し、そこから欧州へ輸出する中継貿易によっても多額の利益を得ていた。
日本はこれらで得た利益を元に国内開発や海外進出を進めると共に、欧州から書物や学術知識の輸入を推進。
特に、同時期に活躍していたガリレオ・ガリレイの唱える地動説は、教会によって禁書指定された欧州とは異なり、天照大神を始めとする太陽信仰の根付いていた日本では比較的抵抗無く受け入れられた。
また、欧州の知識を輸入すると共に、和算を始めとする日本の学術知識も欧州に伝搬していった。
金に糸目を着けずに知識を買い取っていく日本の存在は欧州の科学・芸術界隈で大きくなり、顕学を自負する者ほど日本語版書物の出版と和書の翻訳を熱心に行うようになっていった。
ここから、陸のシルクロードと対比して、日欧貿易航路を「学問の路」と呼ぶこともある。
しばらくすると日本製の科学実験器具の輸出も始まり、こちらも品質の高さを買われて17世紀を通して欧州中に広まっていくこととなる。
204:奥羽人:2024/02/22(木) 23:05:42 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
17世紀後半から18世紀にかけて、日本では徐々に産業高度化(ゆっくりとした産業革命)が進んでおり、工業力や経済力は着実に増加していた。
また、資本主義思想の普及に伴い経済理論の進歩も進み、本格的な工業国としての段階を歩み始めていた。
この頃に日本は原材料の輸出を大幅に伸ばしており、日本製の高度材料(鋼やゴム、紙、染料、初期的なステンレス鋼などの合金)を利用した各種生産物は、欧州では生産不能な物品として珍重され、同様のものが開発されるまで高値で取引されていくこととなる。
(こちらも
夢幻会の介入によって、先進的な材料生産体制が作られていた事が大きい)
18世紀に入ると欧州でも産業革命が浸透していき、日欧貿易もより活発になっていった。
世界的な産業の発展は、その生産力を捌ける市場と原料を求める植民地競争へと繋がり、日欧間で培われた経済概念が全世界的に広まるきっかけとなった。
この過程においても日本製品は重用され、武器や火薬の他にも、工具や工作機械、精密機械、保存食等の輸出が活発になっていった。
また、南方大陸への入植に伴って酪農生産が急速に増加し、特に日本製牛肉加工品は味と保存性の両立によって常に高い需要があった。
東南アジアの日本人入植者による商品作物の生産も十分に拡大しており、砂糖やコーヒー等の輸出量も増加した。
(
夢幻会の手によって、技術的問題から低効率ながら既にハーバー・ボッシュ法による窒素固定とアンモニア生産法を確立しており、これが火薬の生産・輸出量増大の要因となった。無論のこと秘匿技術である)
この頃欧州では啓蒙思想の高まりによって啓蒙書が多数出回るようになっており、当然ながら日本もこれら書物を大量に輸入していた。
こうして輸入した知識は、日本で独自に進展していた先行理論や和哲学と合わせて議論されて、西洋思想と東洋思想のすり合わせが加速的に進展していった。
18世紀後半になると欧州では帝国主義が隆盛を極め、当然のように武器の需要も増加の一途を辿った。
18世紀末から19世紀始めに掛けて兵器技術は急速に進歩していき、日本では新式の雷管銃や鋼鉄砲、ライフル銃の大量生産が始まり、高性能な蒸気船や蒸気機関車も次々と生産が始まり、世界各国へと輸出されていった。
また、新型火薬や高性能材料、化学薬品でも日本は世界に先駆けていち早く大量生産技術を確立しており、これらの輸出でも大きな利益を上げていた。
205:奥羽人:2024/02/22(木) 23:07:22 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
インド洋では日英の勢力圏が接触した事が切掛けによる衝突が幾度かあり、その後に両国間の交易が大きく進展した。
この二国は世界中に伸びた航路を防衛する為に大海軍を整備し、共に七つの海を分割する二大国となった。
また、19世紀半ばにはアメリカ合衆国が北米西海岸に到達し、西海岸の都市ロサンゼルスやサンフランシスコにおいて日米の貿易が始まり、またゴールドラッシュによって日本から輸出される採掘機械類や道具、資材の需要が高まったことで、両都市は貿易拠点として急速に成長していくこととなる。
スエズ運河の開通と共に、日欧貿易路も大幅に短縮された。それに伴って、日本は新たな欧州の玄関口としてイタリアに目を付け、現地への資本投下を始めていった。
20世紀に入ってからは電子機器や自動車の輸出入も始まり、特に第二次世界大戦後、
アメリカへの過度な依存を嫌った欧州の国々によって日欧貿易は維持されていくこととなる。
21世紀現在においても日本とEU間の貿易は、世界経済で重要な位置を占めている事は間違いないだろう。
206:奥羽人:2024/02/22(木) 23:08:26 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
以上となります。転載大丈夫です。
教科書風に何かやりたいなと思いましたので書きました
最終更新:2024年07月21日 23:40