487:モントゴメリー:2024/03/19(火) 00:04:54 HOST:116-64-135-196.rev.home.ne.jp
日蘭世界SS——とある田舎娘の物語(前編)——
『フランス連邦共和国(FFR)の三女神』という言葉がある。
かの国には数多の女神が存在するが、この言葉が用いられる時はリシュリュー、オセアン、ジャンヌ・ダルクの三隻(柱)を指す。
リシュリューは言うに及ばすFFR国教の主神であり、オセアンは死を司る女神でありリシュリューと対となる存在であるので全く以て異論はない。
されど、何故そこにジャンヌ・ダルクが入るのであろうか?
無論、彼女が“先生”として成し遂げた業績は何人にも否定できるものではない。だがしかし、主神と冥界神と同列に座するのはどういうことであろうか?
この疑問への答えは、やはり歴史の中に存在した。
FFR黎明期の記録文書には、ジャンヌ・ダルクを指して“海軍席次第三位”と称する文言が複数確認できるのである。
これこそが彼女が三女神に数えられた直接の要因であった。
では、この「席次」とは何を指す呼称であるのか?
それは、【戦闘可能な大型艦艇の順位】である。
本職は練習巡洋艦であるジャンヌ・ダルクが3番目に大きい艦であったという事実から、どれだけ設立当初のFFR海軍が困窮していたかが見て取れる資料である。
そして、当然ながら席次第“三”位ということは、一位と二位も存在する。
一位は言うまでもなく戦艦リシュリューである。
臨時政府時代には最低限の応急処置しか施されなかった彼女であるが、この頃にはほぼ修理が完了していたようだ。
では第二位は?
オセアンはありえない。確かの彼女は艦籍上では現役であったが、それは書類の中の話でありとても“戦闘可能”とは言えない。
FFR海軍席次第二位、その称号を持つものの名は戦艦『ロレーヌ』。
今宵は彼女の物語を語ろう。
488:モントゴメリー:2024/03/19(火) 00:05:37 HOST:116-64-135-196.rev.home.ne.jp
第二次世界大戦前夜、旧四ヶ国同盟陣営が主力艦の設計を統一し量産性を追求したことは人口に膾炙している。
「ビンソン計画」として知られるこの計画に則って生み出された戦艦が前期・後期サウスダコタ級である。
そして、当時四ヶ国同盟に参加していたフランス共和国においてもその建造は行われ、「アルザス」級戦艦として生を受けることになる。
されど当時のフランス共和国は造船設備の更新に失敗しており、まずはアルザス級を建造可能な船渠を用意するところから始めなければならなかった。
そんな状況では予定されていた開戦に間に合わないとして、
アメリカ側から代理建造の話がもたらされる。
こうしてアルザス級3隻の内、2番艦のロレーヌは新大陸のブリックリン海軍工廠で建造されることになった。
なお余談であるが、ブリックリン工廠は開戦後自由フランス海軍に譲渡された「ダンケルク(旧名ルイジアナ)」の建造も担当しており、フランスとは何かと縁が深い。
そんな紆余曲折を経て建造されたアルザス級の3隻であるが、現場での評価は芳しいものではなかった。
これについては読者諸兄も御承知のところと思うが、アルザス級=サウスダコタ級戦艦は欠点の多い艦である。
41cm12門の火力は申し分ないが、速力は最高23ノット前後と、はっきり言って“鈍重”である。
また量産性を追求した「無駄のない」設計とは、裏を返せば「余裕がない」という事であり、改装の自由度が低かった。
改装の余地はともかく、速力に関しては生まれ故郷のアメリカのドクトリンに則った数値でありアメリカ海軍は特に問題とは感じなかった。
しかし、欧州には欧州の流儀がある。
程なくしてフランスは独自設計の高速戦艦の建造を決断し、これがかのリシュリュー級戦艦となるのである。
(これと時を同じくして、イギリスもキング・ジョージ五世級戦艦の建造を決定している)
こうして国民の期待を一身に背負って新大陸からやってきたアルザス級たちは、一転して厄介者のような扱いを受ける事になる。
特に、生まれも育ちもアメリカであるロレーヌは『田舎娘(Fille de la campagne)』と呼ばれ蔑視された。
しかしこの田舎娘、周囲の予想とは裏腹に“祖国”フランスのために獅子奮迅の働きをするのである。
さながら、彼女と同じくロレーヌの地と縁がある「乙女」の如く——。
489:モントゴメリー:2024/03/19(火) 00:06:17 HOST:116-64-135-196.rev.home.ne.jp
彼女の戦歴を列挙すると以下のようになる。
開戦時はリシュリューと共に仏本国艦隊に所属し、蘭本土侵攻作戦(イギリス海軍作戦名:オーバーロード)に参加。
主力艦の一角として蘭帝海軍の戦艦たちと干戈を交えた。
オーバーロード作戦は失敗し、ロレーヌは控えめに言っても中破判定の損害を受ける。
シェルブールでは修理不可能と判断され、リシュリューの護衛の下ブレストまで撤退している。
これが功を奏した。
彼女たちが出港してまもなく、蘭本国艦隊の機雷敷設潜水艦によってシェルブールは閉塞されてしまったのである。
これが、「傷だらけの不沈艦」ロレーヌ伝説の始まりとなる。
ブレストに入港し修復作業に入ったロレーヌだが、すぐにフランス本土に蘭・独・伊陸軍が報復攻撃のために侵入してきた。
ビンソン計画に予算を奪われた仏陸軍や米英の大陸派遣軍にこれを押しとどめる力はなく、
西フランス、南フランスに相次いで撤退。
西フランスに撤退した部隊はサン=マロからチャンネル諸島などの航空戦力の支援を受けつつ英本土への脱出(イギリス側作戦名:ダイナモ)。
そして南フランス側はラ=ロシェルからアフリカへと脱出した。
ブレストの行動可能なフランス艦隊はそちらに割かれ、ロレーヌも損傷したままアフリカへ脱出する。
脱出後はダカールにてアメリカ海軍の工作艦の支援を受けつつ修理を再開、戦闘航海に支障がないレベルまで回復する。
ビンソン計画の恩恵はここにも表れていた。
同盟共通規格で建造された彼女は、交換用部品の調達が容易だったのである。
(フランス独自の部品を多用したリシュリューが大戦を通じて整備や修理に苦労したのと対照的だ)
修理が終わったと言っても、足の遅さからリシュリューやジャン・バールと異なり高速輸送船団の護衛には加わらなかった彼女だが、出番はやってきた。
大洋連合による蘭領ケープ上陸作戦(麦風(タロウェウインド)作戦)に伴う第二次ケープ沖海戦に参戦したのだ。
この戦いで英アフリカ艦隊と仏アフリカ艦隊の高速水上打撃戦力はほぼ壊滅するのであるが、ロレーヌはまたもや生き残ることになる。
プリンス・オブ・ウェールズやジャン・バールはその健脚を駆使して自力で脱出したが、低速艦のロレーヌにそれは不可能。
もはやこれまでと覚悟したが、後世「ケープ沖のランス・チャージ」と称えられる軽巡バーミンガム以下イギリス海軍水雷戦隊の突撃によって啓けた血路により虎口を脱することになる。
海戦後はジャン・バールたちの後を追いリシュリューが停泊していたフランス領ギアナに逃亡、再びリシュリューがアメリカ本土まで護衛し、生まれ故郷のブリックリン工廠で修復作業に入る。
当時はアメリカ本土にも戦略爆撃の魔の手が迫ってきていたが、やはりビンソン計画の効果により何とか復旧に成功。
リシュリューたちが身を寄せていたカナダのニューファンドランドに退避した。
490:モントゴメリー:2024/03/19(火) 00:07:00 HOST:116-64-135-196.rev.home.ne.jp
そして運命の第二次ゼーラント沖海戦(大洋連合側呼称:グレートブリテン島沖海戦)の時がやってくる。
海戦終盤、リシュリューがマストに“我に続け”の旗旒信号を示し蘭帝戦艦戦隊へ舳先を向けた時、ロレーヌが掲げた信号は「不関旗」であった。
すなわち“旗艦の命令を実行することはできない”と宣言したのである。
その直後に送られた発行信号を読んだジャンスール提督は、一度ロレーヌのいる方向を向き敬礼を送った後、即座に指揮に戻ったと伝えられている。
信号の文面は以下の通りであった。
——田舎娘は舞踏会への参加を謝絶セリ。これより現海域に留まり能う限り遅滞戦闘を実施ス。
ロレーヌのこの自己犠牲精神の発露を目撃した日本海軍の某士官は、
「お株を奪われたな。“捨て奸”は我ら帝国海軍の、それも薩摩閥のお家芸ではないか」
と感嘆したという。
その後、「死のブルックリンダンス」と称された彼女の遅滞戦闘によって稼がれた時間は30分にも満たなかった。
しかし、その30分が無ければリシュリューは脱出出来なかったであろうことは疑いない。
踊り果てた後、全ての火器を失ったロレーヌは半ば漂流状態であったが、追撃を優先した大洋連合艦隊は彼女を無視した。
そしてイギリス艦隊旗艦であるプリンス・オブ・ウェールズの降伏と時を同じくしてロレーヌも白旗を掲げた。
こうして“田舎娘”は奇跡的に世界大戦を生き延びることになる——。
491:モントゴメリー:2024/03/19(火) 00:07:35 HOST:116-64-135-196.rev.home.ne.jp
以上です。
ウィキ掲載は自由です。
同志635に触発されて自分も書いてみました。
今まで描写されなかったFFR海軍「2隻目」の戦艦でございます。
(アムステルダム条約では2隻まで保有を許可されたという事は、各国2隻は生き残っていたのだ)
提督業が忙しく、中々筆が進みませんでしたが同志の例に倣い、前後編で行くことにしました。
最終更新:2024年07月22日 23:36