336 自分:弥次郎[sage] 投稿日:2024/04/21(日) 20:23:08 ID:softbank126036058190.bbtec.net [42/162]
日本大陸×プリプリ「The Melancholic Handler」小話「小夜啼鳥伝」2
バチカンと日本の関係は浅いともいえるし、深いともいえる。
景教=異端とされたネストリウス派が日本へ伝来していたことを考えればカトリックとは間接的にしろつながりがあったと言える。
同時に、直接的な接触はカトリック教会が外へと赴いて、日本大陸において「信徒発見」をする戦国時代になるのを待たねばならなかった。
よって、そんな二律背反が成立するという何とも奇妙な状態なのであった。
とはいえ、それは過去の話である。
カトリック教会の宣教師が植民地支配の一里塚であった時代は過ぎ去り、また、キリシタン大名の動きも過去のものとなっていた。
よって、両者の関係は漸進的に改善。
欧州と極東という距離の壁はありながらも、両国の宗教関係者が顔を合わせるようになり、表敬訪問なども行われるようになった。
異教徒がいる国に対しては寛大を通り越した対応とさえも言えただろう。
まあ、その異教徒のいる国にはカトリック教徒もいるのだから、全部一纏めにするのもアレであるという分別くらいはあったのかもしれない。
このカトリック教会と織田幕府の関係はそのようなものであり、大日本帝国への移管後も変化はなかった。
だが、その特性が変わったのは、1800年代に行われたアルビオンによる大陸再征服運動が原因であった。
カトリックの総本山、バチカンが実質的にアルビオンの支配下に収まり、総本山とアルビオン正教会の立場がひっくり返ったのである。
ここでバチカンを無力化したのは、アルビオンの侵攻に対してバチカンが十字軍を編成して欧州諸国に連携を呼びかけたからだ。
アルビオンの航空艦隊の活躍によって撃滅こそできたものの、宗教的なつながりにより再び反抗されてはたまらない、ということだった。
故にこそ序列を入れ替え、バチカンの反抗の手足をもぎ取り、飼い殺し状態とした。
アルビオン側の意識からすれば至極当然であり、しかし、バチカンにとっては途方もない屈辱であった。
カノッサの屈辱を与えたバチカンが、アルビオンにそれ以上の屈辱を強いられているのだから猶更。
こらそこ、バチカンも大抵クソだとか事実を言うんじゃない、事実陳列罪と国家機密漏洩罪だぞ。
さて、このような状況下にあって、日本側もバチカンに声をかけられることとなった。
しかして、バチカンの喉元にナイフが突きつけられており、日本が何か行動を起こす前に阻止されるということもあり、日本はやんわり拒否であった。
とはいえ、従来通りの交流はアルビオンの支配下に置いても継続させていたし、寄進・喜捨・寄付という形で日本から金が流れた。
これは日本の欧州における外交戦略であり、同時にアルビオンの支配下とはいえカトリックの伝手を利用するという意味合いもあった。
当然、バチカンだってその程度はわかっていた。分かっていたうえで、飲み込んだ。
複雑かもしれないが、かつては異教を抱えていた日本こそが、欧州が軒並みアルビオンに膝を屈した中で唯一の希望であったのだ。
アルビオンに匹敵する国力・国土・軍事・経済を備え、礼節を踏まえているからこそ、余計な口を挟まれることがなかったのである。
さて、フローレンスがローマを訪れた西暦1847年は、日本からの使節がローマのバチカンを訪れていた年であった。
前年の西暦1846年にバチカンは日本に日本使徒座代理区を設置しており、それに対する答礼使節でもあった。
遠くないうちに大司教区の設置も進めるという異例の明言までもされたことから、カトリック側の考えはうかがえるだろう。
実際、およそ20年後には大司教区が日本に設置されるのだから、行動が早いどころではない。
そんなわけで、答礼使節団はローマを訪れ、アルビオンの監視付きとはいえローマ周辺およびバチカンでの活動を行っていた。
主としてカトリック教徒を構成員としたその使節は、キリスト教関係の土地や建築物の巡礼、バチカンの抱える資料の閲覧や模写などを認められた。
特にこの時代にしかない資料やバチカンの有する宗教的な絵画や物品を目にする機会は、蒐集の癖がある日本人にとっては垂涎の的であった。
バチカンからしても遠い過去に日本に持ち込まれていた資料などの模写や複製、あるいは現物を寄進され、大いに盛り上がりを見せていた。
関係者は教皇との謁見が許されたほか、聖餐までもが開催され、破格といっていい扱いを受けたのもここに記す。
337 自分:弥次郎[sage] 投稿日:2024/04/21(日) 20:24:02 ID:softbank126036058190.bbtec.net [43/162]
さらに、日本からの使節はバチカンへの寄進のほか、一般市民への喜捨や寄付などが行われることとなった。
バチカンがアルビオンに屈服させられて以降、バチカンの財布はアルビオンからの寄進という形で大きな制限を受けた。
宗教的な儀礼や儀式などを行い、聖職者たちが活動する分の費用こそ得られていたが、どうしても制限を受けていたのだ。
これもカトリック教会が余計な力を得ないための締め付けの一つであったのはいうまでもないが、当然反発はあったのである。
生殺与奪を握られているほかにも、こういった慈善事業における費用などまで事細かに監視されるというのは、政治的なモノを除いても反発があった。
限られた予算での慈善活動を強いられていたために、どうしてもその質は低下していたのだ。
そんな中で行われた日本主体の慈善活動および寄進の価値は非常に大きいものだった。
医師や看護師までも含まれていた使節による活動は、彼らが先進的な医薬品や技術・知識を有していることもあり、活動は精力的に行われた。
アルビオンを筆頭とする欧州諸国ではまだ届かないレベルの衛生観念や実戦的な技術。国力が齎す潤沢な物資。
そのどれもが、とても眩しく、且つありがたいものであった。
図ってのことか、あるいは運命のめぐりあわせか、それを目撃したのがフローレンスだった。
この、かつてはローマ帝国の中心であり、欧州の、そして世界の中心だったところに、東洋系の人々がいるというのは非常に目立っていた。
それ以上に、バチカンが普段以上に明るい空気に満ちていたというのが大きいのかもしれない。
傍から見れば異様であっただろう。アルビオンの雇ったスイス傭兵やアルビオンの監視員の見守る中で、東洋人たちが活動しているというのは。
ともかく、旅行に来ていたフローレンスはその活動に目を奪われていたのだ。
富めるものが貧したものを救う。持てる者が持たざる者を助ける。
人が人を助ける。そんな至極当たり前の、しかし、自分にはできていなかった働きをする人々がいたのだ。
それは、アルビオン本国において彼女が胸の内に秘めていた感情に火をつけた。
「---!」
そんな彼女が、本来の目的などを放り捨ててしまうのはほんの一瞬であった。
次の瞬間には、彼女は淑女らしからぬ疾走を見せて、その一団に接近していいったのだった。
338 自分:弥次郎[sage] 投稿日:2024/04/21(日) 20:24:41 ID:softbank126036058190.bbtec.net [44/162]
以上、wiki転載はご自由に。
フローレンス、日本と出会う。
どっちかというとバチカンと日本の関係に言及した回になりましたが、まあそれはさておき。
最終更新:2024年07月30日 22:50