935:奥羽人:2024/05/04(土) 18:29:44 HOST:sp49-109-150-136.tck02.spmode.ne.jp
近似世界 17世紀 【五街道・五航路計画】
国力増強の為、農業および工業生産力の増進を目論んだ各種計画を始動させた
夢幻会だったが、彼らの前にはもう一つ超えなければならない壁が存在した。
それは、各種インフラ……主に交通網の整備である。
つい最近まで戦国時代という諸国内乱状態にあった日本本土では、他国からの侵攻路に使われかねない全国に跨がる主要道路網は、半ば放置された状態だった。
また、その放置された道路も作られたのは古くは飛鳥~奈良時代、新しくとも室町時代のものであり、森を切り開いて地面をつき固めただけの道は、年月を経て獣道のような様相まで荒れているということも珍しく無かった。
それでも当時にすれば十分に幹線道路としての役割を果たしていたものだったが、将来的には能力不足に陥ることは明確だった。
特に、天下統一以降の改革によって全国の生産力が増加し、あらゆるヒト・モノが全国を行き交うようになると、それらの細く小さい道は早々に能力不足を露呈することになる事は、ある程度の知識を持つ者だったら十分に予想できる。
いくらモノがあっても、必要な時に必要な所へ届かなければ意味が無いのだ。
また、当時の道路というのは国中で起きた出来事を早馬で素早く中央に届け、そして中央の指示を素早く国中へ届ける、いわば支配を行き届かせる為の通信網の役割も担っていた。
古代においては彼のローマ帝国も、その広大な版図を支えていたのは「すべての道はローマに通ず」と国中に張り巡らされた街道によるもの……と言っても過言ではないだろう。
日本においても、支配強度で言えば西国や畿内から武蔵(関東)までの領域こそ磐石な体制下に置いていたものの、それ以外の領域では、陸の孤島がか細い獣道で辛うじて繋がっている程度の連結に過ぎなかった。
有力な諸家の元で発展していた土地はあれど、中央との繋がりという面では非常に弱いと言わざるおえなかった。
国力増強においては、これら地域の地力も十全に活用する必要があり、道路網の拡充によって“日本”に組み込むべきだと考えるのは言うまでもない。
そうして先ず着手されたのが、「五街道」の整備だった。
これは、当時の織田家の要地であった美濃尾張を中心に経済中心地だった畿内と、将来的な中心都市となる江戸を結ぶ東海道を中心とした各地方への主要幹線道路である。
東海道沿線を中心として、江戸から東北方面へと向かう奥州街道と、現在の新潟方面へ向かう北陸道。
畿内から西の九州方面へ向かう山陽道。
関東から畿内の内陸部を繋ぐ中山道。
これら五本の街道を中心とした全国への道路網構築が計画された。
1590年頃に着工し、一応の完全は1660年頃と想定された。
936:奥羽人:2024/05/04(土) 18:30:38 HOST:sp49-109-150-136.tck02.spmode.ne.jp
基本的な主要街道の設計は、古のローマ街道を範として行われた。
基礎として水捌けを考慮した砂利や小石を敷き詰めていき、上層に路面となる石を敷き詰めていく方式である。また、原油から瀝青の工業的生産が開始されると、路面は石畳から初期的なアスファルト・コンクリート舗装へと順次改装されていった。
道幅は最低4メートルから6.5メートルとして設計され、経路もなるべく直線部分が多くなるような敷設が行われた。
これは、300年後に自動車道としても使えるよう考慮されていたとも考えられている。
また、ローマ街道を規範としたのは、馬車の導入を主目的と考えていた為でもある。
元来、日本という地形では馬車を使うのは困難な一面があった。大陸化で多少緩和されたとはいえ、居住可能な平野部が峻険な地形で分断されている所では、長距離移動用途としての馬車は普及の余地が極めて少なかった。
しかし、鉄道がまだ実用化できない時代において陸上輸送手段としての馬車の能力は是非とも欲しく、その為に馬車を十分に活用できる道として設計されたのだった。
輸送において最も効率的とされる手段は何か?
それは、海上輸送である。
大航海時代の終盤である当時、陸上輸送とは比較にならない量を、当時としては高速で、より遠距離に輸送できる海上輸送は貿易の中心だった。
史実日本でも、北前船といった内航船が高度に発達した為、陸上交通を徒歩・乗馬用以上に発達させる必要が無かったとも言われている。
そうした海上輸送の特性は大陸日本においても変わらず、スムーズな経済発展には航路の整備が不可欠だった。
そうして計画されたのが「五航路計画」である。
まず国内輸送を担う内航航路として、西廻航路と東廻航路の二本が整備された。
日本海側の各港を経由する西廻と、太平洋側の港を繋ぐ東廻の航路であり、大阪がその両航路の結節点として機能する史実のそれを拡大したものである。
この二本の航路に関しては確実な収益が見込める為に民間が進んで整備に着手することも多く、
夢幻会や幕府の負担は相対的に少なかったとも言えるだろう。
また、西廻航路は後に朝鮮や樺太、アムール川以南の沿海州と接続され、東廻航路は後に北太平洋海流を通じて北米西海岸まで延長された。
国内をつなぐ航路があるとすれば、その反対に海外と繋がる航路も当然ながらある。
国内情勢を安定させた幕府が力を入れたのは大陸航路、ルソン航路、ジャカルタ航路の貿易三航路だった。
大陸航路は、九州を出て中国の寧波、台湾、マカオを経由しインドシナ半島沿岸を下り、マラッカを通りインド洋方面へと向かうユーラシア大陸沿岸を繋ぐ航路である。
ルソン航路は本土の太平洋岸から出発し、当時フィリピン総督領と呼ばれた南太平洋の島嶼部を一周して繋ぐ航路であり、日西戦争によって地域の主導権をスペインから奪取した後に本格的に整備された。
ジャカルタ航路は南シナ海を通り、ジャワ島やカリマンタン島を経由してソロモン諸島まで至る周辺島嶼を結ぶ航路で、初期には香辛料貿易の重要地点として整備されていた。
937:奥羽人:2024/05/04(土) 18:31:40 HOST:sp49-109-150-136.tck02.spmode.ne.jp
これら航路の整備では、勅許会社である朱印船団を先鋒に各地へ進出する形が取られた。
朱印船団には幕府から派遣された人員が乗り込んでおり、独自の国交締結や現地勢力との外交交渉権が与えられていた。
また、航路開拓の為に海流や地勢等の調査も行っており、有用な土地を取得して貿易港の設置を積極的に行い、航路の確立に貢献した。
これら貿易港は貨物のやり取りだけではなく、日本と現地を経済的・政治的に強固に接続する窓口となり、それは、南洋における“親日勢力”の力を順次増大させていった。
また、幅広い海洋貿易は造船技術の進化にも影響を及ぼし、
夢幻会の知識もあって、日本では一部を鉄で補強した大型帆船や100年早い高速帆船、クリッパー船の実用化に繋がった。
附記【17世紀日本の制度的優位性】
17世紀の日本は、国力という観点において既に他国を周回遅れにしていたと言っても過言ではない。
それは、いち早く強固な中央集権体制を敷いて、幕府が国力を効率的に活用できたからであると言われている。
とはいえ、天下統一から1660年頃までは莫大な費用の掛かる内地開発と並行して、朝鮮や中華、東南アジアで戦争を行っていた為に、各種政策が実を結んで財政状況が好転するまで
夢幻会と幕府の経済政策は綱渡りの状況だった。
では何故、17世紀中盤に至るまでに、日本の影響力が欧州まで届くようになったのか。
当時の欧州では、絶対王政の萌芽こそ見えていたものの、未だに有力な諸侯が割拠し、世俗における教会の力も強く、権力は分散したままであった。
また、これら勢力は免税特権を持っている事も多かった。
とりわけ税制においては、当時の統治システムの限界から作られた国に属さない徴税請負人の中抜きや、世俗権力の他に教会に納める十分の一税の存在による二重課税体制等、税制度の効率限界によって国も民も揃って困窮するという事態が恒常的になっていた。
特に徴税請負人制度は、欧州財政の足かせとなった。
これは、領主等が領地内での徴税権を販売するものであり、徴税権を購入した徴税請負人は領主に代わって領地内から徴税するのである。
徴税権の価格は、普通に取り立てを行った場合の税収と同じくらいである事が一般的だ。
とはいえこの権利は、徴税請負人が利益を出す為に必要以上の取り立てを行う腐敗の温床と化していた。また、徴税権は極めて高額であり、それを購入できる者は一部の富裕層に限られる為、貧乏人は困窮し富める者が更に富むというサイクルに陥っていた。
しかし、この手法は封建領主にとって徴税コストを最小限に抑え、尚且つ安定してまとまった資金を調達できる方法であった為、フランス革命期に至るまで長く続けられていた。
938:奥羽人:2024/05/04(土) 18:32:25 HOST:sp49-109-150-136.tck02.spmode.ne.jp
当時覇権国で比較的中央集権的だったスペインも、ユダヤ人追放の折に優秀な財政官僚を失い、加えて各方面での戦争による浪費を続けて財政難が恒常化していた。
また産業育成に失敗し、収入を価格や産出量の下落が激しい新大陸からのスペイン銀に頼るモノカルチャー経済となっており、度々破産するなどして衰退は明らかだった。
特に、フェリペ2世の在位中(1556年~1598年)には4回もの破産宣言が為されている。
中近世ヨーロッパが貧乏と言われているのは、大体ここら辺が原因である。
対して日本は、初期コストこそ高くつくものの、官僚制の強化と幕府権力の強化、集権的な税制を推し進めて国力効率化に専念した。
また、寺社勢力を必要以上に強めないよう考慮したことも大きいだろう。
技術的な限界によって一部妥協した点はあるものの、これらの改革によって日本は有力な諸外国に先駆けて“一国家”として動くことが可能となった事が、東洋における日本の優位性を確立した要因と言える。
939:奥羽人:2024/05/04(土) 18:33:11 HOST:sp49-109-150-136.tck02.spmode.ne.jp
以上です。転載大丈夫です。
17世紀の世に一人だけ19世紀型国家に脱皮しようとしてます。
この時代にお金稼ぎをするならやっぱりチューリップでしょうね。
1637年2月に弾けるまで、オランダはチューリップバブルでチューリップの球根の値段が暴騰しますので、品種改良に強い
夢幻会なんかが居たら東洋の神秘という付加価値も付けて活動資金の足しにはできるんじゃないでしょうか。
その次は1737年に絶頂を迎えるヒヤシンスバブルもありますし。
次あたりは工業化の内訳なんかも書いていきたいですね。
最終更新:2024年08月25日 00:51