68:奥羽人:2024/05/16(木) 21:32:34 HOST:sp49-109-150-146.tck02.spmode.ne.jp
近似世界 1647年【広州の戦い】
【広州の戦い】
広州の戦い(广州之战)は、南明戦争中の1647年12月15日から始まる、現在の南明国広州市にあった広州城で起こった戦闘。
日本・南明連合軍が侵攻してきた清軍に完勝し、華南地域における南明と清の拮抗状態を決定付けた。
戦争:南明戦争
年月日:1647年12月15日
場所:南明、広州
結果:日本・南明の勝利
【交戦勢力】
南明 : 清
日本 :
【指揮官・指導者】
李定国 : 呉三桂
松平定綱 :
【戦力】
明軍 約2万5千人 : 清軍約15万人
日本軍 約10万人 :
【損害】
不明 : 不明(5割超の甚大な損害)
【背景】
1645年、中原を制圧していた順を滅亡させ北京を占領した清は、明の全域を制圧するべく、元は明の将軍だったが清に降伏した呉三桂を指揮官として南下を開始。
対する南明側は、肇慶で即位した永暦帝と、広州で即位した紹武帝による権力争いが続いていた。
日本は、ヨーロッパで続いていた三十年戦争終結の目処がつき、その視線を東アジアへと戻した。
鄭芝龍及び崔芝より送られた日本乞師の使者に応え、台湾島に集結させていた軍勢を広州へと上陸させていた。
明の二重権力体制を見てまともな政治的判断を期待できないと考えた日本軍は、半ば南明側を無視する形で防衛設備の増築や港の整備に着手。
大軍で乗り込んできた日本を押さえつけることができない南明側は、日本の動きを黙認するしかなかった。
69:奥羽人:2024/05/16(木) 21:33:58 HOST:sp49-109-150-146.tck02.spmode.ne.jp
【戦闘】
江西方面から南下してきた清軍は、珠江方面を除く広州城の東西北に布陣して城を包囲。珠江を渡河して南側も包囲しようとしたものの、川を制圧していた日本軍の軍船に阻止されて叶わなかった。
この時布陣した清軍は全体が緑営(清に帰順した漢人部隊)であり、八旗(満州人部隊)は一人も居らず士気は低かった。
清軍指揮官の呉三桂は渡河を諦め、迅速な城の奪取を決意。20門の紅夷砲(球形弾カノン砲)によって城壁を破壊しようと、砲兵隊を城壁東側に接近させた。
清軍が大砲の発射準備を進めているところで、城内の日本軍が先制して砲撃を開始。約40門の野砲の砲弾が清軍の隊伍に命中して多数の死傷者が発生した。また、集中射撃を受けた清の砲兵隊は、大砲を捨てて壊乱した。
呉三桂は砲撃から逃れる為、歩兵部隊に広州城壁への突撃を命令するも、城内に配置された20門以上の臼砲によって清の先鋒集団は攪乱させられた。
近づくことに成功した兵らには、城壁の上からマスケット銃の一斉射撃が浴びせられ、清軍は城壁前の堀を越えることもできなかった。
清軍は城門を突破する為に盾の付いた攻城兵器をも投入したものの、日本軍の火中車によって焼き払われる結果に終わった。
攻撃の失敗を悟った呉三桂は、全軍に日本軍野砲の射程外まで後退することを指示し、城壁から2~3キロメートル程度離れた所に陣を敷き直した。
また、日明軍も珠江を遡上してきた日本軍の船から武器と火薬、食糧を荷揚げして次の戦いに備えた。
翌日、清軍は仕寄り道と呼ばれる塹壕を城に向かって掘り始めた。
塹壕を掘りつつ竹束や分厚い木の盾を配置していき、城からの砲火を防ぎつつ接近する算段であった。
更に、日明側が塹壕への攻撃に注力できないよう、不規則なタイミングで他方向から散発的な襲撃を行ったり、ハンドカノンや大砲の射撃で注意を引くなどした。
しかし清軍の前進の最中、朝鮮方面から10万人の日本軍が山海関を突破し華北へ侵入した事と、天津が日本の戦列艦と臼砲艦による艦砲射撃を受けて幾らかの兵が上陸したとの報告が呉三桂に届けられた。
漢民族を除いた八旗の兵力は6万人程度であり、この北京攻略こそ日本軍の本命であると呉三桂は確信し、撤退を決意した。
翌日、肇慶府に駐留していた日本軍が広州に到着し、兵を退かせている最中の清軍側面から重装ライフル騎兵による急襲を実行。
軽騎兵隊も機動力による一撃離脱を繰り返して清軍を混乱させた所に、日本軍の肇慶隊本隊5万人が到着。
マスケット銃を猛射しながら前進する日本軍の前に、撤退の最中で統制が取れていなかった清軍は隊伍を崩して壊走。広州城から出てきた部隊との挟撃に合い、清軍兵はその半数以上が戦死か行方不明となった。
70:奥羽人:2024/05/16(木) 21:36:35 HOST:sp49-109-150-146.tck02.spmode.ne.jp
【影響】
緑営の壊滅と、朝鮮への対策を新たに立てなければならない清は、南明へ侵攻する余裕を失った。
このため華南では清と南明の勢力が拮抗し、この均衡は鄭成功の北伐失敗まで続く。
また、この時から清朝内部では日本に対する厭戦気分が湧くこととなり、後の日清単独講和に繋がった。
71:奥羽人:2024/05/16(木) 21:41:19 HOST:sp49-109-150-146.tck02.spmode.ne.jp
以上です。転載大丈夫です。
Wikipedia風。
初期内政の総仕上げ的なやつでした。ここでは中華の大陸はよく沼に例えられますが、必要によっては足を取られない程度に渡ることも…
最終更新:2024年09月06日 21:27