117:奥羽人:2024/05/19(日) 19:28:32 HOST:sp49-109-151-242.tck02.spmode.ne.jp
近似世界 1904年 【日露開戦】
「首相、日本が戦争を決意しました」
「……そうか」
大英帝国の中心点、ダウニング街10番地にて。
超然とした雰囲気の長身の紳士、アーサー・バルフォア首相が、部下からの報告を聞いていた。
1902年、極東にて南下政策を続けるロシア帝国は欲望のまま、遂には鴨緑江を越えて朝鮮半島に侵入。
賄賂か工作か、同時に朝鮮王室では静かに政変が進行。彼らの大部分は、ロシア帝国への親しみの余りに自らの国を売り渡すような者達へと取って変わられていた。
勿論、日本はこのロシアの暴走を非難、撤兵を要求したが、そこから2年たった1904年現在も朝鮮から露兵が減るどころか、着々と保護国化が進行している状況だった。
元より日本は、朝鮮半島を手の届く所に置いておきたいと考るものの、その中に手を突っ込むことは忌避している様子で……今回はその隙を突かれた形となっている。
「……では、同盟国の健闘を祈るとしよう」
英国は日本と同盟を結んでおり、立場的には日本の支援を行わなければいけない位置に居る。
とはいえ、肩を並べて戦う攻守同盟ではなく、あくまでも他人の戦争に近かった。
そうして半ば、英国政府もこの戦争を望んでいる節があった。
19世紀を通して、英国の対日債務は段々と膨れ上がっていった。
日本人が気前よく貸し付ける大金は、英国が世界帝国となる為には必要不可欠だったのだ。
しかしそれは、財政という面において日本人に首根っこを捕まれることと同じである。
その末路が悲惨であることは、欧州諸国から債務管理局を通して好き勝手に手を突っ込まれているオスマン帝国を見れば一目瞭然であろう。
帝国として見れば、早くに没落したオランダや瀕死の病人であるオスマン帝国とは違い、「“老いた剣牙虎”日本」は未だに金を持ったままだ。
だが、それもこれまでだろう。
社会が立ち遅れて矛盾が吹き出し始めたロシア帝国。
インド洋や新大陸から追い出された老いた大日本帝国。
老人達の戦いは、ロシアは海を渡れず日本は極東からシベリアの凍土を越えて欧露までは来れず、両者共に莫大な距離の壁を挟んで泥沼と化すだろう。
そうなれば月日と共に戦費は瞬く間に膨れ上がり、国家の屋台骨は軋み始める。
戦争遂行の為の過酷な資金調達は経済を直撃し、やがてそのしわ寄せは国民へと及ぶ。
いずれは国民の動揺と反発から社会不安へと波及し、大日本帝国の“帝国”としての余力と寿命を削り取るだろう。
そして、自ら以外の列強が没落するのは、帝国にとって好都合だ。
その為に日本をグレートゲームに引き込み、ロシアと対峙させたのだから。
アフリカ分割が頭打ちになった以上、残る“非文明圏”東洋へと手を伸ばすのは列強として必然であり、力を失った日本に変わって、より先進的な文明諸国である我々が彼らを保護する。
そういった野望は、英国の他にもフランスやドイツ、そして
アメリカも脳裏に浮かべていたことだった。
118:奥羽人:2024/05/19(日) 19:29:45 HOST:sp49-109-151-242.tck02.spmode.ne.jp
ロシア帝国が極東での南下政策に力を入れ始めたのは、バルカン方面での行き詰まりによるものだった。
露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約で南方に領土を拡張したのは良かったが、オーストリアや英国の干渉で結ばれたベルリン条約によって、それらの土地は放棄させられた。
しかし、ロシアにとって不凍港の獲得は悲願であり、故に彼らは東へと活路を見出だした。
1900年に清で発生した義和団の乱は、ロシアによって正に渡りに船と言えた。
混乱の収拾という大義名分を掲げて満州へ侵攻し、そのまま植民地化を既成事実としようと画策した。
この露骨な動きを各国は非難するものの、一番力を持っていた英国はボーア戦争によって身動きがとれず、逆にロシアは足元を見るかのように駐留兵力を増強した。
とはいえ、時の皇帝ニコライ2世も、極東総督アレクセーエフも、日本から仕掛けてくる可能性は低いと考えていた。
シベリア鉄道と東清鉄道の完成によって、ロシア帝国は莫大な量の兵力を極東に送り込むことが可能となった。
また、露清密約によって日本が敵として攻めてくる場合は清も日本に宣戦布告する手筈となっている。密約ではあるが、聡い日本の密偵共に幾らかは既に漏れているだろうし、それはそれで問題点ない。どちらにせよ、清の莫大な兵力が日本の敵となるのだから。
また、当の日本自体も世界に覇を唱えていたのは今も昔。
ここ半世紀で欧州諸国の追い上げに合い、新大陸から追い出されたのを切っ掛けに、英仏独にアフリカを奪われ、インドを手放し、やがては隣にあるはずの清までもが蚕食されている。
欧州の清への航路は同時に、日本が自らのテリトリーとする南洋地域へと繋がる海域でもある。
そんな自らの生命線に土足で入り込まれても、日本は何も言わなかった。
いや、言ったのかもしれないが、それに欧州列強を思いとどまらせるだけの力は無かった。
一時は世界の海を支配した日本艦隊もその残影は既に無く、戦艦保有量は英国53隻、仏国29隻、露国20隻、独国18隻で、ようやく日本が14隻だ。
そんな日本と良く似た国を、ロシアは知っている。
つい最近下したばかりの“オスマン帝国”である。
彼の「瀕死の病人」も、最盛期の面影は今は無く、列強によって削り取られていくだけの老人に過ぎない。
なればこそ日本も同じく、東進してくる欧州列強に怯え、何とか穏やかに取りなしてもらうよう願い出てくるだけの老人であることは容易に想像がつく。
故に、全てはきっと我が国の思い通りに進むだろう。
その時、ロシア極東総総督府の雰囲気が慌ただしくなった。
「総督!総督!旅順港が────」
1904年2月。
大日本帝国海軍連合艦隊がウラジオストック港および旅順港に沖合いに進出、露軍10インチ沿岸砲の射程外から戦艦戦隊による艦砲射撃を実行。
浮揚修理や兵装転用が不可能なように数時間かけて執拗に行われた砲撃は、旅順港内外に存在した露海軍艦艇を完膚なきまでに破壊、撃沈。
更に、装甲巡洋艦(重巡)以下で構成された戦隊が日本海全域で露艦艇の“狩り出し”を開始。
週内にロシア帝国海軍太平洋艦隊は「消滅」した。
119:奥羽人:2024/05/19(日) 19:32:44 HOST:sp49-109-151-242.tck02.spmode.ne.jp
以上となります。転載大丈夫です。
ああ信頼できる味方国が居ないなぁ!!
最終更新:2024年09月06日 21:31