257:奥羽人:2024/06/02(日) 12:38:55 HOST:sp49-109-151-188.tck02.spmode.ne.jp
「東洋故の特殊事情によるもの」
これは、日露戦争における欧州列強の観戦武官が戦争全体を総括して出した結論である。
当戦争は、後の第一次世界大戦で開花する戦術的、戦略的要素が初出してきた戦争である。
しかし後の戦争にて欧州列強は、当戦争の惨禍を拡大再生産したような惨状を引き起こしており、ここで得られた戦訓は生かされていないように見える。
では、何故そうなったのかを見ていこう。
【ハルビンの戦い】
日露開戦以降、戦局は大まかに「退く露軍を追う日本軍」という形で推移していた。
以前に行われた幾らかの会戦では日本軍の勝利が続いたものの、露軍は損害を出しつつも早期撤退によって包囲殲滅は回避しながら満州の奥へ奥へと戦場は移っていった。
1904年11月。
いよいよ冬の寒さも本格的になってくる頃、日露両軍は満州最後の重要拠点、ハルビンへと集結した。
特に露軍は、総司令官クロパトキンの描いた計画……日本軍との全面直接対決を極力避けた上でシベリア鉄道の輸送力を活用し、兵力と物資の蓄積を図りつつ、日本軍を北方に吊り上げて補給路が伸びきり疲労が激しくなった所を一挙に殲滅するという作戦に従い、着々とハルビンの要塞化を推し進めていた。
ハルビン周辺には既に36万の露軍兵士が展開しており、続く40万の増援部隊がシベリア鉄道を経由して続々と到着していた。
彼らはハルビンを中心に多数の堡塁と塹壕、永久陣地からなる三重の防衛ラインを構築しており、その防御力は往時の旅順要塞にも匹敵し、正面からの攻勢ではどれ程の損害を積み上げたとしても攻略は不可能に思えるものだった。
対して日本軍は3個軍60万人を、長春市からのラインを中心に側面へと伸びるように展開させていた。
既に遼東半島や山海関に伸びる南満州鉄道と接続する港湾を抑えており、大量の工兵部隊や機関車、自動貨車を投入して前線への物資供給能力を増強。
補給線が延びきって疲弊した日本軍を叩くという露軍の目論見は、既に半分崩れていた。
そうして日本軍の展開が完了した
26日、日本軍の各正面より準備砲撃が始まった。
野砲、重砲併せて約5000門の火砲が火を吹き、数日かけて200万発の砲弾を露軍防衛線に投射。
特に41糎短榴弾砲や28糎列車榴弾砲の砲弾は、コンクリートや表土で固められた堡塁に対しても効果的であり、その一際大きな炸裂音は露軍兵士を震え上がらせたという。
258:奥羽人:2024/06/02(日) 12:39:47 HOST:sp49-109-151-188.tck02.spmode.ne.jp
30日朝、所定の砲撃を完了させた日本軍は、ハルビン南西より独立戦車旅団と数個の歩兵師団を前進させる。
一号戦車(*1)の横隊を先頭にして隠れるように歩兵隊が防衛線に接近すると、生き残った露軍の機関銃と軽野砲による猛射を受けた。
市街正面に展開した第9師団は、戦車と砲撃によって出来たクレーターに身を隠して応射するも一時間後に後退を開始。
また、松花江沿いに前進していた第11師団も生き残った露軍堡塁の抵抗に合い、突破できずに後退している。
《*1:一号戦車。箱形戦闘室の正面にケースメイト式57ミリ海軍砲もしくは75ミリ山砲一門と機関銃、側面に機関銃4丁。正面装甲30~40ミリ。290hpガソリンエンジン。塹壕突破用ではなく散兵線を構成する歩兵の代替戦力として設計された》
準備砲撃が不十分だと考えた日本軍は同日中に砲撃を再開。新たに発見された堡塁や陣地を目標に加えて、12月6日までに追加で200万発の砲弾を発射。
砲撃では通常榴弾の他、防衛線の補修を妨害するために榴散弾や噴進弾を加えて昼夜問わず行われた。
4日に東の金龍山方面から日本軍側面に対して露軍数個師団が逆襲を行ったものの、これを察知していた日本側は事前に野戦築城からなる防衛線を構築。
山地を迂回した為に重火力を発揮できない露軍を1000門近い野砲と無数の機関銃で迎え撃ち、1万2千人程度の損害を与えて撃退した。
5日には尚志市を経由して更に日本軍の南方へと回り込もうとした露軍騎兵隊を戦車旅団が迎撃。機関銃と榴散弾の猛攻撃によってこれを壊滅させている。
6日昼に第二次砲撃を完了した日本軍が再度前進を開始。
この時も残存した露軍歩兵と軽砲による迎撃を受けたものの、その抵抗力は明らかに脆弱となっていた。
日本軍は一端前進を停止し、短射程の野砲と噴進臼砲を前線後部まで進出させて露軍抵抗地点に対して集中攻撃を実行。
歩兵隊と戦車は砲撃支援の下、防衛線に向かって漸進していった。
そうして夕方頃までには全正面にて外郭防衛線を突破、制圧。
同日、ハルビン西方で200門の野戦砲と400門の噴進砲から支援を受けつつ秋山戦車旅団と歩兵数個連隊が松花江を渡河。軍団規模の露軍部隊がこれを迎え撃ち、両軍は河畔で激戦を繰り広げた。
日本軍は多方向から攻撃を行う露軍への対処に苦戦したものの、火力差を生かして徐々に前進。
数時間後に損害に耐えきれなくなった露軍が後退し始め、日本軍は前進を再開してそのまま東清鉄道周辺を制圧、チチハルとハルビン間の接続を断った。
東側を除く全面から包囲された露軍は、残存戦力を纏めてウラジオストク、ハバロフスク方面へと撤退を開始。
クロパトキン司令官もハバロフスクへと脱出した。
日本軍は終戦までに西は満州里からイルクーツク近郊、東はアムール川まで進出して露極東軍を完全に遊兵化させた。
「日本軍はハルビンに地獄を作り出し、我々はあの業火の下で人が耐えているとは到底信じられなかった」
「タタールのくびきは蘇った。馬を戦車に、弓を大砲に代えて」
この欧州観戦武官の証言のように、日露戦争は日本が新兵器と大火力によって巨大なロシアの陸軍を圧殺した戦いと見られる事が多い。
ここから得られた知見は欧州列強で一部参考にされたものの、全体としては極東の特殊性として語られる事が多かった。
なぜなら当時、日本以外の国では日本並みの砲火力を用意することは不可能。
そして、欧州列強の軍は遅れ気味のロシア軍よりはスマートに戦える筈だと考えてたからだ。
しかしこれは後の第一次大戦で無謀な突撃を繰り返し、ヴェルダン要塞の戦いでは各国が2400万発もの砲弾を撃ち込むようになった事を考えた場合、あまりにも自軍を過大評価、同時に過小評価していたと言わざるおえないだろう。
259:奥羽人:2024/06/02(日) 12:42:53 HOST:sp49-109-151-188.tck02.spmode.ne.jp
以上となります
欧米「日本軍以外にあんなの出来るヤツいないだろ!いい加減にしろ!」
尚
最終更新:2024年09月06日 21:43