24:奥羽人:2024/05/12(日) 00:20:06 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
近似世界【大日本海上帝国の崩壊】
17世紀後半から19世紀初頭、日西戦争の折に制圧したインド洋、アフリカ沿岸のスペイン・ポルトガル植民地を貿易経済圏下に組み込んだ日本は、海上帝国としての最盛期を迎えた。
マラッカから始まりインドのゴア、東アフリカのソコトラ島やモザンビーク、大西洋岸のアンゴラやギニア、カーボベルデ等の東アジア~欧州の要所に拠点を構えた。
また、太平洋側では現在のチリ北部のアタカマ郡やロサンゼルス、パナマ等に港を構えて資源の調達や捕鯨拠点として活用していた。
日本はこれら割譲もしくは購入した沿岸拠点から近隣勢力との貿易を行うことで多大な利益を上げ、三大洋にまで拡大した貿易網で築き上げた海上覇権と、世界的な交易体制下で栄えていた。
しかし、19世紀に入ると産業革命を迎えた欧州諸国による追い上げが始まることになる。
1820年、南米諸国がスペインからの独立を図ったイスパノアメリカ独立戦争において、独立を願う現地住民の声に押された結果としてロサンゼルスとアタカマ郡が日本の手から離れ、前者はメキシコ帝国、後者はペルー・ボリビア連合に吸収された。
1824年の英-ビルマ戦争と1840年のアヘン戦争、1856年のアロー戦争は、従来は日本のテリトリーの奥深くと考えられていた東アジア大陸部に対する英・仏による大規模な軍事介入であり、これは日本の海洋覇権に対する挑戦として受け止められた。
1857年のインド大反乱によってインド全域が英国の直接統治下に入ると、その中に点在する日本の拠点港湾は事実上意味を成さなくなった。
1858年のダナン危機においては、日本の勢力圏下とされた越南にフランスが艦隊を派遣して日本とにらみ合いになる等、列強諸国は日本の覇権に対してより大胆な挑戦を図り始めていた。
1860年には、北京条約にて清がロシア帝国に対して外満州(沿海州)を割譲。太平洋地域におけるロシアの海洋侵出を見過ごす結果となる。
1875年にイギリスがスエズ運河の筆頭株主となり、欧州-
アジア航路の主導権を握る。
1880年代から始まったアフリカ分割の結果、日本の取引相手だった現地勢力の多くが欧州諸国の統治下へと組み込まれてしまい、アフリカ沿岸部の拠点港もそれら植民地体制下に入っていく。
1883年にフランスがマダガスカルに侵攻し、日本が支援していた現地勢力を解体。これによって日本はアフリカの主要な拠点を殆ど喪失することとなった。
1890年代には列強諸国の中国分割が進み、欧州諸国の租借地が次々と作られていった。
列強による清の分割を事実上静観していたことは、東洋における日本の覇権が揺らいでいる証左と見られていた。
1900年にはロシアが北清事変(義和団の乱)を契機に満州全域を支配下に置き、朝鮮半島へ進出する機会を伺い始めていた。
シベリア鉄道の全線開通と事実上の攻守同盟である清露密約は、ロシアが外交的に強気となった源だった。
1902年、日英同盟締結。
翌年にはロシアが鴨緑江を越境して韓国領土内に進出し、軍事拠点を設置。
ここに至って日本とロシアの関係は破断し、日露戦争へと向かうことになる。
【実の所……】
日本「国境整理です」
イギリス「日本が『中国空いてるぞチャンスや』って無言で圧力掛けてきました」
その他「上手く乗せられたみたいです」
25:奥羽人:2024/05/12(日) 00:21:33 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
短いですが、過去作を見て直しててなんとなくロシアがケンカ売ってくる理由が弱いなと思ったので書いてみました。
最終更新:2024年09月09日 23:51