172 :148の人です:2012/03/18(日) 21:11:06
一発ネタであったはずが、思いついたので短編ですが投下します。
ウィキへは自由に。
~北の大地から平穏に ~
1702年シベリアの某地で、昨年松之大廊下で吉良に刀傷を負わせて切腹した浅野長矩の赤穂藩は本来なら改易処分にされるところ大石内蔵助以下家臣団の嘆願もあり、浅野長広を後継者としてシベリアへの転封を命じられた。このように史実とは異なりシベリアを確保している徳川幕府は、改易処分するよりもシベリアへの転封を命じる事例が多かった。
最もシベリアという寒冷地で容易く開発して領地を確固たるものではなく、失敗して凍死してりする事例もあったのだが、国内に不満分子がいたり余剰人口をそのままにして体制不満につながるよりかは、ましであるという判断から移民がいなくなることはなかった。
また厳しい環境を生き抜き開発に成功した場合には、莫大な富や土地を入手して成り上がることができ、下級武士や農家の二男坊三男坊を中心に夢見る人たちが入植していく。
転封されて、シベリアへと移住を余儀なくされた浅野家はその地で生き残り確固たる地盤を築けるかは未知数であったが、浅野家の存続に成功した家臣団の想いは熱く燃えており積極的に前人未到の大地を切り開いていく。その際には筆頭家老大石内蔵助以下多数の家臣が死亡することになるのだが、彼らの犠牲もあり浅野家はシベリアの大地で生き残ることができた。
後にこの浅野家家臣団の行動が伝わり、逆境の中主家を見事存続させた彼らの行動を忠烈な士として褒め称えれれ、忠臣蔵として歌舞伎などの題材として使われることになる。
【終了】
シベリアがあり改易が減少するなら、忠臣蔵はどうなるのかと思いましたので。
浅野家だけでなく、江戸時代を通じて大勢の大名家がシベリアへと移住することになります。確実に成功することはできなく、相当数犠牲が発生しますが、それでも生き残る事例はあります。大名規模でなく、下級武士や農民層や商魂たくましい商人も移住したりしますので、合議制の土地も相当発生することに。
最終更新:2012年03月19日 21:41