214:フォレストン:2017/12/20(水) 20:49:48
万能陶器とその限界

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱英国コンピュータ事情 -改訂版-

第2次大戦時、枢軸側に比べ戦力的に劣勢な英国は、少ない戦力を有効に活かすためにそれこそ死に物狂いで暗号の解読を行った。コンピュータの開発もその手段の一つであった。

事実、英国における最初の第一世代コンピュータは第二次世界大戦の期間中、ドイツの暗号通信を読むために開発されたコロッサス(Colossus)である。真空管を1500本使用した初期モデルのMk.1から、真空管を2400本使用のMk.2にまで発展し、枢軸側の暗号解読に威力を発揮した。

コロッサスは(極東のチートを別とすれば)世界初のプログラム可能な電子デジタルマシンであったが、プログラムは内蔵式ではなく、新たなタスクを設定するには、オペレータがプラグ盤とスイッチ群を操作して配線を変更する必要があった。それゆえに汎用性はなく、計数とブール演算という暗号解読に特化した存在であり、コンピュータと言うより単なる強力な計算機械といった存在であった。チューリング完全な真の汎用コンピュータが登場するのは戦後になってからである。

解読至難と言われたエニグマ暗号、そしてさらに複雑化されたローレンツ暗号をも解読することに成功した英国は、戦力を効率的に配分することによりバトル・オブ・ブリテンを戦い抜いた。その結末は停戦という名の実質敗戦であったが、ドイツ側との戦力差を考えると大健闘であった。

英国を存亡の危機から救ったとも言えるコロッサスと、その開発運用に携わったブレッチリー・パークの技術者達であるが、彼らは戦時中からある疑念を抱いていた。それは敵国ドイツではなく、友軍であるはずの日本軍に対してであった。

バトル・オブ・ブリテンを英軍と共に戦い抜いた日本軍であるが、遠く離れた欧州の地で作戦行動を行うためにある程度独自の裁量権を持たされていた。とはいえ、それでも本国との連絡は欠かせない。定時通信やその他諸々で、日本への通信量は膨大なものとなったのである。

日本軍の無線は英国側でも傍受しており、その中には明らかな暗号電文と思われるものも多数存在した。解読を試みたのであるが非常に強固な暗号であり、従来型のコロッサスでは解くことが出来なかったのである。

『日本はドイツはおろか、我が国よりも強力な暗号とその作成機を実用化している』

これが当時のブレッチリー・パークの技術者達の認識であり、また悩みの種でもあったのである。そのため、日本軍が使用している暗号と将来的に変更されるであろうドイツの暗号に対応するために、より高性能で使い勝手も向上させたコロッサスMk.3が開発が開始されることになる。

215:フォレストン:2017/12/20(水) 20:51:46
1943年初頭。
対日戦における度重なる敗北と、遅々として進まぬ巨大津波被害からの復興、さらに極めて致死率の高い新種の疾病(アメリカ風邪)と異常気象により多数の犠牲者が出たことで、合衆国民の不満は頂点に達した。米国東部で発生した反乱は拡大の一途を辿り、アメリカ東部は完全な無政府状態と言っても良い状況となった。内と外の両面から攻められたアメリカはここに崩壊したのである。

世界の工業生産の半分を占め、莫大な富を蓄え、さらに侮れない技術力、科学力、軍事力を持っていたアメリカが崩壊したことは世界中に衝撃を与えたのであるが、それ故に放置しておくことは出来ない問題でもあった。英国を含む欧州列強は、災害救助の御旗の元に旧北米大陸に進出したのである。

災害救助という大義名分があり、実際に被災者救助も行っているものの、実質的には欧州列強による崩壊したアメリカの資源と利権の切り分けであった。その際に問題となったのは、当然のごとく分け前の配分であった。

停戦したとはいえ実質的には敗北していた英国は、利権確保で強硬なドイツ相手に強く出れなかった。頼りにしたい日本も英国の過去の所業のために完全に中立であり、喉から手が出るほどに欲しかった資源や利権の確保に遅れを取ってしまったのである。

資源確保である程度の妥協を余儀なくされた英国であるが、その分人材の確保に力を入れていた。各地に散ったエージェント達が疎開していた人材を見つけ出してスカウトしたのである。彼らの多くは、ナチス政権を避けてアメリカに移住していたため、英国からの誘いを断ることは無く、むしろ積極的に自分を売り込んできた。彼らが英国のコンピュータ開発に大いに寄与することになるのである。

英国の人材確保はその後も行われ、結果的にかなりの数の人材が英国へ渡ることになる。既に国境が確定していた1950年代以降もブリティッシュコロンビアへ亡命してくる人材が後を絶たなかったのは、裏を返せばドイツに対する評価への裏返しともいえた。横紙破り上等で国際条約無視は当たり前、さらに奴隷制を制度化して周辺国から収奪する等の所業で、ドイツに対する評価は地に落ちていたのである。

216:フォレストン:2017/12/20(水) 20:52:44
1944年末。
英国のブレッチリー・パークでは、コロッサスMk.3の開発と並行して、全く新しいタイプの暗号解読機の開発が進められていた。

便宜上、コロッサスMk.4と名付けられたこの暗号解読機は、旧アメリカ人技術者を中心とするチームによって開発されており、当時実用化されたばかりのパラメトロンを使用しているのが最大の特徴であった。

パラメトロンは、ドーナツ状のフェライトコア2個にコイルを数回、それぞれ同数巻いて直列につなげ、キャパシタ一個をつないで共振回路としたものである。励振のための電線を、コアの穴を貫通させるように通して交流を流すと、フェライトコアの磁性のために、前述の共振回路がパラメータ励振により発振する。原理的にこれは元の振動を半分に分周した振動となるため、その位相がどちらの位相であるか、を0と1に対応させて情報処理に利用可能であった。

2種類のはっきり分かれた状態に落ち着く性質があることに加え、その励振の起こり始めには、わずかな初期状態がタネになってどちらの位相になるかが確定するという、一種の増幅のような作用もあった。3個所からの出力を持ってきて重ね合わせることにすれば多数決論理と呼ばれる論理演算が出来た。その3個の入力のうちの1個を偽か真に固定すれば、残りの2個の論理積か論理和になるわけで、これを組み合わせればどんな論理演算も可能であった。

パラメトロンは、真空管に比べると以下のメリットがあった。

  • 真空管に比べ価格が非常に安い。
  • リレーと比べて高速動作が可能。
  • 真空管や初期のトランジスタと比べ、安定している。
  • フェライトコアは焼き物なので、物理的にも壊れにくい。
  • 放射線によるエラーが起きにくい。

当時主流であった真空管に比べて、非常に安価で性能的に安定しているため、理想の演算素子として当時のブレッチリーパークでは開発に力が入れられていた。その結果、派生技術として磁気コアメモリやコアロープメモリが開発されることになる。

217:フォレストン:2017/12/20(水) 20:53:49
コロッサスMk.4は、このパラメトロンを4300個使用(史実PC-1相当)しており、本命であるはずのMk.3よりも早く完成して直ちに実用試験が開始された。電源を入れても、ヒーターの過熱が終わるのを待つ必要がある従来の真空管式計算機とは違い、瞬間的に作動して長時間玉切れすることなく計算が出来る点で絶賛されたのである。

しかし、以下の点でパラメトロンはトランジスタに劣っていた。

  • トランジスタに比べ消費電力が大きい。
  • 発熱量が大きく、周波数を上げるとコアが加熱し磁性が変化して動作に支障する。
  • 小型化するとまともに機能しなくなるため、微細加工技術を用いた集積化が困難。

フェライト製のコアは、いわゆる陶器と同じで物質的には非常に安定していた。しかし、電流を流し過ぎると発熱して磁性が変化してしまい、安定的な動作が出来なくなる問題が存在した。さらに、小型化し過ぎると機能しなくなるために、ブレッチリー・パークでは、フェライトコアの素材と形状に関する研究も並行して進められた。後に民間でめがね型コアや結合トランスを兼ねた多孔パラメトロン(PT型)が実用化されて、大いに使用されることになる。

パラメトロンはトランジスタに比べて、様々な点で不利であった。とはいえ、この時点ではブレッチリー・パークの技術者達はトランジスタの存在を知る由も無いわけで、今度こそ日本の鼻を明かしてやれるとばかりにパラメトロンの研究に勤しんだのである。

真空管式のコロッサスMk.3に比べると、パラメトロン式のMk.3は計算速度が劣っていた。しかし、パラメトロン素子自体が真空管に比べて小型軽量なために、計算機自体の小型化が可能であり、計算速度が劣る分は長時間運転でカバー出来ると考えられたために開発は続行されたのである。

218:フォレストン:2017/12/20(水) 21:01:34
1945年7月。
全世界の数学者と暗号技術者達のSAN値を直葬させる情報が世界中を駆け巡った。スイッチング素子に真空管ではなく、今まで全く未知の存在であったトランジスタを採用した従来の常識を覆す新型電算機。後に『トランジスタ・ショック』と言われることになるトランジスタ型コンピュータの発表である。

日本のトランジスタコンピュータは、プログラム内蔵式で手元のコンソールから簡単に変更可能という点でコンセプト的にコロッサスよりも遥かに進んでいた。真空管とは違い、球切れすることなく延々と高速計算が可能であり、しかもプログラムを変更することで多種多用な計算に対応することが出来ることは当時としては画期的なことであった。

前述のコロッサスMk.3とは、プログラミングで計算内容を変更することが可能な点では同じであるものの、コロッサスのプログラミングは外装式でプログラム変更に手間がかかるうえに、可能な計算にも制約があった。玉切れすることなく計算が可能という点ではコロッサスMk.4も同様であるが、計算速度がけた違いであった。

さらに恐ろしいことは、この画期的なコンピュータが10年前に開発されて秘匿されていたことである。極論であるが、科学技術の発達は計算機の発達の歴史と言っても過言では無い。人間が計算するよりも遥かに高速で間違い無い計算結果を得られるということは、それだけで大きなアドバンテージとなるのである。

特に物作りでは計算は必要不可欠である。構想がまとまっても、それを形にするには膨大な計算が必要となる。設計現場では手回し式計算機や計算尺の導入によって高速化が図られていたが、それでも人的ミスは避けられず、納期の遅れや設計変更が頻繁に起こっていたのである。

しかし、このトランジスタコンピュータならば、そのような煩雑な作業から開放されるのである。設計段階でのロスが大幅に減ることにより、開発スピードは格段に向上され、それが10年続けばどうなるか…。日本が異常な発展を遂げた理由としては十分なものではあった。もっとも、完全に納得したわけでは無く、未だに日本に対して不審や疑いの目を向けている者もそれなり以上に存在していたのであるが。

219:フォレストン:2017/12/20(水) 21:02:43
日本のトランジスタコンピュータの発表により、コンピュータの重要性に改めて気付かされた英国は、BCS(British Computer Society、英国コンピュータ協会)を設立し、官民挙げて開発に邁進したのであるが、その際にブレッチリー・パークの研究成果を民間に放出している。これはブレッチリー・パークがトランジスタの研究開発に専念するための措置であった。トランジスタ研究の過程で得られた技術も民間に無償又は安価で放出しており、それらは単純な技術のみならず概念的な物も多数含まれていた。

当時のブレッチリー・パークでは、パラメトロンコンピュータ関連の技術開発が進んでおり、論理回路としてのパラメトロン素子だけでなく、コアロープメモリや磁気コアメモリなどの技術も公開された。そのため、以後のパラメトロン・コンピュータの開発は民間が主導していくことになるのである。

民間におけるコンピュータ開発は、大学が主導していた。一例を挙げると、マンチェスター大学が開発した通称『Baby』、正式名 Small-Scale Experimental Machineは(日本のトランジスタコンピュータを例外とすれば)世界最初のプログラム内蔵式コンピュータであった。これは同大学のフレデリック・C・ウィリアムスとトム・キルバーンが開発を指揮したが、ウィリアムスが発明したウィリアムス管の実用性を評価するために開発された試験機であった。

その後Babyを叩き台にして、実用的なコンピュータ Manchester Mark I が開発されたのであるが、ブレッチリー・パークが公開したパラメトロン関連の技術を用いた結果、史実とは別物となった。初歩的な磁気コアメモリと磁気ドラムメモリを使い、インデックスレジスタの概念を初めて導入(極東のチートを例外とすれば)しており、史実の Ferranti Mercury に近いものとなった。また、ケンブリッジ大学で設計・開発されたEDSACもプログラム内蔵式デジタルコンピュータであった。

1946年にマンチェスター大学に納入された Ferranti Mark 1 は英国初の商用コンピュータであった。史実では Manchester Mark I を元に設計されていたが、この世界ではブレッチリー・パークより技術提供を受けてコロッサスMk.4の商用モデルとして完成しており、初の商用パラメトロン・コンピュータでもあった。

当初、民間では当初は真空管式コンピュータが主流だったのであるが、パラメトロン素子が公開されると、瞬く間にパラメトロン・コンピュータが主流となっていった。真空管と違って球切れすることがなく長時間の計算に耐え、安価で信頼性の高いパラメトロンは、予算難に喘ぐ大学の研究室や企業に歓迎されたのである。

220:フォレストン:2017/12/20(水) 21:03:43
日本に遅れをとったものの、まがりなりにもコンピュータ技術を確立した英国であったが、本命であるトランジスタが軌道に乗るまでには数多くの問題が存在し、その解決には時間がかかることが予想された。日本からの情報収集により、ブレッチリー・パークの技術者達はドイツに先んじて1946年の段階で点接触型トランジスタの試作に成功していたのであるが、あくまでも実験室レベルであり量産など論外だったのである。

この問題は、当時の円卓の重要議題となり、あらゆる方面から検討した結果、英国のコンピュータ行政を司るBCSでは、以下の3つの課題に取り組むことになった。

  • 演算処理装置の更なる高速化
  • 演算処理装置の高速化に伴う大容量メモリの開発
  • 部品実装技術の開発

演算処理装置を高速化する手段であるが、この時代だと主に下記の2つである。

  • 論理回路の論理構成を改良
  • 論理回路の素子自体の動作速度の向上

論理構成の改良であるが、パラメトロン自体が単純極まりない構成であり、これ以上の改良は望めなかった。二つ目の動作速度の向上であるが、パラメトロンは周波数を上げるとコアが加熱して磁性が変化してしまい、動作に支障が出る問題があった。そのため、フェライトコアを水冷化することで対処したが、今度は励起周波数を上げることで共振現象が発生して本体が激しく振動して演算どころでは無くなってしまった。こちらはトライ&エラーを繰り返した結果、特殊な塗料を塗ることで解決した。

その結果、励起周波数6Mhz(動作周波数60khz)を達成したが、これ以上の速度向上は見込めなかった。計算速度を維持するには構造上の問題や、メンテナンスの面倒もあり、この形式(水冷&特殊塗料)を採用したのは少数に留まった。ただし、フェライトコアの材質や形状、部品実装技術の改良は引き続き行われており、ある程度の演算速度の向上は果たされている。結局のところ、パラメトロン素子単体の性能向上は困難であり、大量に実装して並列化する手法が主流となったため、後述の実装技術が発展していくことになるのである。

221:フォレストン:2017/12/20(水) 21:04:56
大容量メモリの開発であるが、ブレッチリー・パークの技術者達によって研究されていた磁気コアメモリが有望視されていた。小さなドーナツ状のフェライトコアを磁化させることにより情報を記憶させる記憶装置であり、パラメトロン素子開発の段階でメモリとして作動可能なことが立証されていたのである。

原理的には破壊読み出しのため、読み出すと必ずデータが消えるために再度データを書き戻す必要があったが、磁気で記憶させるため、不揮発性という特徴があり(データを読み出さない限りは)データを保持することが可能であった。ちなみに同時期にブレッチリー・パークで開発された技術にコアロープメモリがあるが、磁気コアメモリが史実のRAMとして用いられるのに対し、こちらは単位当たりの記憶密度の高さから補助記憶装置(HDD)としての用途が期待されていた。

磁気コアメモリは、小型のフェライト磁性体のリング(コア)に電線が通されたものが、格子状に多数配置された構造になっており、コアの一つが1ビットの記憶容量を持っていた。当時主流であった真空管メモリよりも安価で信頼性も高かったのであるが、大容量化するのには、コアを増やす必要があるためにそのままでは大型化が必須であった。記憶密度を上げるためには、よりコアを小さく、配線を細く狭く実装する必要があるのであるが、それはワイヤーでビーズを織り込むが如くの困難さであった。

磁気コアメモリもコアロープメモリも、技術的にはパラメトロンの派生ではあるが、パラメトロンとは違い、コアを小型化することによって作動不良を起こすことは無かった。そのため、小型高性能化のために物理的な限界に挑戦するがごとくコアの小型化とワイヤーの極細化が進むことになる。

大容量磁気コアメモリは、人間の手で顕微鏡と精密なモーターを使って組み立てられた。大量生産するためには、労働集約的な作業となるため、1950年代半ばには人件費の安い華南連邦で大規模な磁気コアメモリ製造工場が作られた。数百人の労働者が一日数ペンスの賃金でコアメモリを組み立てていたのである。これによって磁気コアメモリの低価格化が進み、1950年代終盤には、英国のコンピュータに主記憶装置として広く使われるようになった。低価格で低性能な磁気ドラムメモリと高価格で高性能な真空管メモリは、磁気コアメモリに駆逐されていったのである。

222:フォレストン:2017/12/20(水) 21:06:41
磁気コアメモリの価格は、ほぼ史実のムーアの法則に従った推移を示し、1ビット当たりの価格は最終的には1/100になった。ただし、これはあくまでも労働集約的な手作業によるものである。手作業よりも機械で生産するならば、より安く、より早く作れるのは自前の理である。それ故に英国は磁気コアメモリの自動生産化に着手したのである。

磁気コアメモリの自動生産化には、自動織機の技術が応用された。この話が出たときに真っ先に手を挙げたのが、マンチェスターの織機繊維メーカーであるプラット&ブラザーズ社であった。当時のマンチェスターは、19世紀末の世界の工場としての栄光はとうに廃れ、凋落の一途であった。生き残りをかけて藁をもすがる思いだったのは間違いないであろう。

プラット&ブラザーズ社は過去に日本の豊田自動織機からG型自動織機の特許を買い取っており、磁気コアメモリの自動生産機はこれを叩き台にして開発が進められた。縦糸と横糸(+斜め糸)をワイヤーにして、フェライトコアを編み込む。言葉にすると簡単であるが、それを実現するには相当な技術的困難があった。それでも不屈の英国紳士は、技術と英国面を注ぎ込んで磁気コアメモリの生産の自動化を成功させたのである。その後、マンチェスターでは磁気コアメモリの製造が盛んになり、それに合わせるかのように関連企業も移転してきたためにコンピュータ製造の地として再び発展していくことになる。

1960年代になると磁気コアメモリは機械による自動生産が本格化し、最終的には0.3mmのコアに髪の毛よりも細いワイヤーを通して編み込むことにより、大容量と低価格を両立した。性能的には、史実の256bitスタティックメモリや1kbitダイナミックメモリよりもコストと性能、信頼性で優位であった。これに加えて放射線に強いという特性も加わって英国のコンピュータでは特殊用途も含めて長らく使われることになるのである。

223:フォレストン:2017/12/20(水) 21:08:05
部品実装技術の開発であるが、英国のコンピュータの部品実装技術は真空管時代の延長戦上であり、部品をべ一クライト・ラグ板へ取り付け、配線は空中配線で済ませていた。しかし、1947年になると日本ではトラジスタを使用した製品が出回り始めたために、入手して分解したところ、プリント基板やソケットなどが大いに参考にされてリバースエンジニアリングされた。なお、肝心のトランジスタに関しては、英国が開発していた不安定な点接触型トランジスタではなく、安定的な接合型トランジスタであることが判明して研究をやり直すことになり、トランジスタの実用化はさらに遅れることになる。

パラメトロン素子自体は大量かつ緊密に実装する必要があるため、メインフレームとは別の場所で組み立てと調整が行えるようにユニット化されており、コンピュータ本体とはソケットもしくはコネクタで繋ぐ形式が主流となっていた。そのため、プリント基板とは相性が良く、専用規格のソケットでパラメトロンユニットを抜き差しして使用していた。

プリント基板の採用によって、英国コンピュータのメンテナンス性は格段にに向上した。その理由は当時の英国のコンピュータの中身を見れば一目瞭然である。細かいパラメトロン素子がびっしりと基板に実装され、その隙間を縫うように大量のコードがのたくっていたのである。いくらパラメトロン・コンピュータが故障しにくいとはいえ、さすがに量産性やメンテナンス性を考えると問題であった。

プリント基板の実用化によって、煩雑な配線からは開放されたのであるが、部品の実装そのものは未だに手作業で行われていた。磁気コアメモリと同じく、当初は人海戦術で対処していたのであるが、より細密な回路に部品実装となると手作業では限界があったので、部品実装の自動化が模索された。

最初に自動化されたのはハンダ付けであった。ハンダ槽に溶かしておいたハンダの表層にプリント基板の下面を浸すことによって、ハンダ付けを行う方式(史実のフロー方式)が実用化された。ちなみに日本では、1945年の時点でSMT(表面実装技術)が実用化に目途が付いており、後にそれを知った英国人技術者の頭を禿げ上がらせることになる。

224:フォレストン:2017/12/20(水) 21:09:08
ハンダ付けは自動化されたが、肝心の部品の実装は未だに手作業であった。当時の英国のコンピュータの構成部品は、リード部品がメインであったため、リード線のカット、折り曲げの自動化が必須だったのであるが、その技術開発が難航したのである。

日本からの技術情報(主に特許庁参りや神保町巡り)や、旧式化したために福建共和国へ移転されたプリント基板製造設備に工作員を紛れ込ませるなどの苦心の末に、1960年代にアキシャル部品自動実装機を国産化することに成功した。その後、ラジアル部品にも対応した完全自働実装機も開発された。

この技術を流用してパラメトロンユニットの製造装置も実用化された。この時期になると、手巻きが主流だったパラメトロン素子も生産が自動化されていた。パラメトロンは磁気コアメモリとは違い、大きさが小さすぎると作動に支障が出るために10mm程度(めがね型コアの場合)までが小型化の限界であったが、それでも人の手で多数実装するとなると困難であり、部品実装の自動化が切望されていたのである。

パラメトロン素子の実装が自動化されたことにより、より緊密なパラメトロンの実装が可能となった。パラメトロンユニットには、求められる性能に応じて数十個から、場合によっては100を超えるパラメトロンが実装され、それらは専用規格のソケットでコンピュータのメインフレームに接続されたのである。

なお、パラメトロンユニットの見た目であるが、後にパラメトロン・コンピュータを見た逆行者は『FCのスペランカーがたくさん挿さっていた』との感想を残している。パラメトロン・ユニットはプラスチック製のダストカバーで覆われており、通電時に赤色の発光ダイオードが光るようになっていたのであるが、見た目も大きさもまさに史実のアレだったわけである。

225:フォレストン:2017/12/20(水) 21:11:00
パラメトロン素子を使用した製品が英国で出回るようになったのは、日本でトランジスタ製品が市場に出回り始めたころとほぼ一致している。ブレッチリー・パークでは、暗号解読機としてパラメトロンは実用化されたのであるが、民間では様々な用途で使用されたのである。

パラメトロン・コンピュータは、最も初期に実用化されたパラメトロン素子を使用した製品であるが、主な目的は学術計算や事務処理目的であり、大学の研究室や大企業向けであった。パラメトロンや磁気コアメモリの大量生産によって低価格化が進み、やがて中小企業向けにも普及が進んでいったのであるが、一般的な物とは言い難かった。

パラメトロンがより身近な存在となったのは、1950年にベル・パンチ社からパラメトロン電卓(史実アレフゼロ101相当)が発売されてからのことである。史実のノートパソコンよりも二回りは大きいサイズと20kg近い重量であったが、機械式のような騒音が出ることなく、かつ計算速度が速いので当時としては画期的な計算機であった。

このパラメトロン電卓は、パラメトロンを1700個使用しており、加減算10桁、乗算20桁、除算10桁(剰余10桁)、開平9桁の計算が可能であった。また、テンキー操作が採用されており、四則演算、一定数乗除算、累積、自乗、開平、組合演算などが簡単な操作で行えるようになっていた。従来手間のかかった開平演算は、ワンタッチで計算可能であり、浮動小数点を採用しているので、小数点の位取りは自動的で行われた。

226:フォレストン:2017/12/20(水) 21:11:51
パラメトロン電卓は、値段と用途からは考えられないほど驚異的な売れ行きをみせた。車が1台買えるほどの値段であったが、逆言えば車1台買える程度の値段でしかなかったのである。設備投資と考えればその程度の値段などさしたるものでは無かったのである。

電卓の売れ行きに気を良くしたベル・パンチ社では、輸出することも考えたのであるが、ドイツを筆頭とする枢軸側の市場は閉鎖的であり、販売は不可能であった。残ったのは日本側陣営であったが、思わぬところから待ったがかけられた。

パラメトロン電卓の日本への輸出に反対したのは、駐日英国大使館であった。彼らは日本の実情を知悉しており、この程度の製品では太刀打ち出来ないことを確信していたのである。

このころの日本では、史実の電卓戦争よろしく猛烈な勢いで電卓の小型高性能化と低価格化が進んでいた。10年足らずで卓上サイズからカードサイズにまで小型化が進むのを見た英国人技術者の何人かはSAN値を削られて発狂したという。

日本の実情を大使館側から教えられたベル・パンチ社は、輸出を取りやめて英連邦の市場での販売に専念したために、パラメトロン電卓は英国本国と英連邦諸国でしか販売されなかった。それでも、十分過ぎるほど売れたのではあるが。

日本の電卓程では無かったが、パラメトロン電卓も年々小型化と低価格化が進んでいき、最終的には史実の大型電卓並みにまで小型化された。パラメトロン素子は物理的にタフであり、故障はまず考えられなかった。表示管が寿命になっても取り換えれば問題無く使用出来るために、20世紀末になっても現役で稼働しているのである。

227:フォレストン:2017/12/20(水) 21:15:25
パラメトロンは製造業でも大いに使用された。戦後の英国では慢性的な労働力不足に喘いでおり、生産現場の自動化が至上命題だったのであるが、その過程で取り入れられたのがNC制御(Numerical Control、数値制御)である。

NC制御は工作機械の自動化であり、手動輪やレバーを手動で制御したり、カムを使って機械的に自動化するのではなく、記憶媒体上で符号化されたコマンド群で抽象的にプログラムをすることで機械の自動制御を行うものである。官民合同で研究が行われた結果、1955年にNC制御フライス盤が開発された。穿孔紙テープから読み込まれたデータは、制御装置に送られてフライス盤を自動制御した。後に同様の制御システムでNC制御ジグ中ぐり盤も実用化された。

なお、日本は1945年の段階でNC工作機械の実用化に目途をつけており、それに比べると10年近く実用化が遅れているが、これは何もない手探りで開発したことを考えれば、むしろ驚異的といってよい速さである。伊達に世界で初めて産業革命を成し遂げた国家では無いのである。英国は先端技術でこそ日本に遅れをとってはいたが、産業革命以後の技術の蓄積は馬鹿には出来ないものがあったのである。

1960年になると、光電式テープリーダー、指令装置、コンソールの3つで構成される実用的なNC装置(史実MELDAS 3213相当)が完成した。これは既存の工作機械に取り付ければNC制御ができる制御装置であり、制御にはパラメトロン・コンピュータが使用されていた。パラメトロンNC装置は、安定した性能と低価格で普及が進み、製造現場におけるオートメーション化が進められていったのである。

ただ、英国にとって救いのないことに、日本では開発の初期段階からコンピュータによるNC制御(CNC制御)を目指しており、工作機械を制御するための言語(史実APT相当)や、CNC工作機械の開発が進められていた。ただし、これらには大量の情報処理が必要なためトランジスタコンピュータが必須であった。技術的には完成していたものの、トランジスタコンピュータ自体が機密指定されていたために、製品化されて大々的に売り出されるのは1950年代初頭になってからとなる。

ちなみに、ドイツを筆頭とする枢軸側であるが、NC工作機械の実用化は日本や英国に比べると大幅に遅れていた。これは技術不足というわけではなく、安価で使い潰しの利く労働力が確保出来たためである。NC工作機械の実用化を急がれたのには、労働力不足という共通の問題が日本と英国に存在していたからである。奴隷を酷使したほうがオートメーション化するよりも安くつくために、ドイツの製造現場のオートメーション化は英国よりもさらに遅れることになるのである。

228:フォレストン:2017/12/20(水) 21:16:24
軍用目的でもパラメトロンは使用されていた。しかし、パラメトロンはあくまでも演算素子であり、真空管のように電波を発振することは不可能であった。それ故に、電波発振を真空管で行い、制御部分をパラメトロンで行うというハイブリッド回路になるわけであるが、その分設計に手間がかかった。それでも玉切れ無しで安価に作れるので、大いに使用された。

軍用におけるパラメトロンの最初の活用は、レシプロエンジンのインジェクション制御であった。従来の機械式ガバナーだと調整が面倒だったのであるが、ROM(コアロープメモリ)に書き込むだけで事足りるのでメンテナンス性が向上したのである。後にインジェクションだけでなく、点火タイミングや空燃比をも制御することも可能となり、言わばパラメトロン版コマンドゲレートとでも言うべきものに進化している。機械式電子制御とでも言うべきこの技術は、航空機や戦車、艦船のエンジンにも採用され、民間でも自動車や鉄道用に広く採用されている。

パラメトロンは信管にも使用された。日米戦争時に日本軍が使用したVT信管の存在をつかんだ英国は、パラメトロンを使用することで安価に量産化を目論んだ。しかし、オリジナルが真空管のみで構成されているのに対して、パラメトロンによる演算部分と発振用の真空管を別々に積む必要があった。問題はそれだけにとどまらず、真空管とパラメトロンでは扱える信号レベルに大きな違いがあったために、それを変換する回路も搭載する必要が出てきてしまい、大口径砲の信管に採用されるにとどまった。もっとも、大型化してしまうことを逆手に取って大出力のVT信管を作ってしまったのは英国らしいと言うべきかもしれないが。

パラメトロンを使用したVT信管は、砲撃で地上戦力を叩くのに効果的なエアバースト射撃を行うために、陸軍の重砲や重巡以上の艦船に一定の割合で搭載された。海軍では対地攻撃だけでなく、航空機の編隊のど真ん中に撃ち込んでまとめて叩き落すことも想定しており、信管調停不要な史実の三式弾とでも言うべきものであった。海軍の戦艦派はこの信管に大いに期待しており、航空主兵に傾きつつある状況を挽回するべく暗躍することになる。

229:フォレストン:2017/12/20(水) 21:17:51
慣性航法装置にもパラメトロンが使用された。加速度計と機械式ジャイロから得られるデータをパラメトロンで作った演算部で計算して移動距離を算出する仕組みであった。主に航空機や潜水艦に搭載されたが、弾道ミサイルの誘導装置としても大量に生産された。

英国では対独戦争になった際には、高性能爆撃機で敵の防空網を突破し、敵空軍基地を叩くことで彼我の戦力差を縮める戦略が検討されていた。これが後に3Vボマーに発展していくのであるが、日本から情報を得て弾道ミサイルの研究も行われていた。戦力的に劣勢な英国にとって、迎撃されるリスク無しで一方的に攻撃出来る兵器の魅力には逆らい難いものがあったのである。

弾道ミサイルの開発は、海軍と陸軍で別々に行われていたのであるが、やがて共同開発となり最終的に戦力として整備が始まったのは1960年代になってからである。同時期に陸軍で開発された地対空ミサイルの拡大発展版であり、固体燃料ロケットで扱いやすかったのであるが、性能は低かった。それでも、ドーバーを超えてドイツを叩くのには十分な性能であり、かつ比較的安価だったのでそれなりの数が整備されることになる。煽りを食って3Vボマーの調達数が激減することになるのであるが、それはまた別の話である。

230:フォレストン:2017/12/20(水) 21:18:49
戦後の英国空軍では、バトル・オブ・ブリテンで破壊されたレーダーサイト群の復旧が急がれていたのであるが、従来のシステムでは能力不足として新たな対空監視システムが模索されていた。ドイツ軍のなりふり構わない飽和攻撃によって、オペレーターの処理能力を超えてしまい、対処仕切れなくなって力負けした苦い過去があったからである。この問題を解決するには自動化しか手段はなく、そのためにパラメトロン・コンピュータが使用されたのである。

空軍が整備した新型対空監視システムは、各レーダーサイトからの情報を統合して、パラメトロン・コンピュータで処理して適切な迎撃手段を指示するものであった。コンセプト的には史実のSAGEシステムに近いが、あれほど極端な自動化は推し進めてはおらず、人手に頼る部分の残されてはいたものの、その分低予算で整備が可能であった。

ここで問題になったのは、パラメトロン・コンピュータの処理能力である。真空管に比べて演算速度に劣るパラメトロンでは、計算が間に合わずに迎撃に失敗することが危惧された。この問題に対処するために、大々的に並列計算の手法が導入され、何とか実用レベルに達することが出来たのである。

英国版SAGEシステムは1951年に稼働したが、処理能力の問題は常に付きまとった。リアルタイム処理をするには、パラメトロン・コンピュータの演算速度では厳しいものがあったのである。この問題は、レーダーシステムのみならず、高速計算が必要な現場では既に顕在化していた。この問題を解決するための並列化計算なのであるが、史実のアムダールの法則の如く高速化には限界があったのである。

231:フォレストン:2017/12/20(水) 21:19:38
パラメトロンに止めを刺したのは、1950年に日本で発売された万能電算機(海外向け名称システム360)であった。とにもかくにも、革命的なコンピュータであり、『360ショック』としてトランジスタコンピュータが発表された以上の衝撃を世界中に与えたのである。この存在を知ってしまったコンピュータ技術者の中には、ロープ無しバンジーを敢行する者が多数いたという。

しかし、ただでは転ばず、転んでもただでは起きない不屈の英国紳士は、駐日英国大使館で購入したシステム360を徹底的に解析した。最大の関心は当然ながら中身であった。当時の日本では既に集積回路の信頼性や可用性に目途が付いていたのであるが、敢えて(日本にとっては)旧式なトランジスタを使用していた。これはオリジナルを再現するべく使用したわけではなく、市場に出すことによりパクられる被害を最小限にするためであった。

当時の英国では、実験室レベルで接合型トランジスタの製作に成功していたため、技術的には理解の範疇であった。しかし、量産段階で躓いていたためコピーは不可能と判断された。それでも基本構造は大いに参考にされて、後の英国製コンピュータに絶大な影響を与えたのである。

1952年には、英国版システム360とでも言うべき汎用コンピューターが発売された。パラメトロンを使用しているため、オリジナルに比べて低性能であったが、デザインはともかく、使い勝手に関しては完全にオリジナルに準じていた。敢えて(性能以外は)日本製と同一にしたのは、将来的に日本から技術導入をする際の技術的ハードルを下げておく狙いがあったと当時の関係者は後に述懐している。

232:フォレストン:2017/12/20(水) 21:20:22
パラメトロン・コンピュータは、戦後の英国のコンピュータ技術に重要な役割を果たした。しかし、1950年代になると既に限界も見え始めていた。処理速度の向上は、並列化とプログラミングの工夫ではどうにもならないところまで来ていたのである。学術や先端分野における研究現場では、より高速なコンピュータが求められていたが、未だ本命であるはずのトランジスタの実用化は成されておらず、1960年代の英国では、新たなる論理素子が模索された。そして、それは意外なところから手に入ることになるのである。

先端分野以外では、安価で信頼性の高いパラメトロン製品は使われ続けた。最たる例はパラメトロン電卓であるが、他にも家電の制御にも用いられた。英国において、さしたる性能を要求されない電子制御関連の分野はパラメトロンの独壇場であり、エンジン制御でも大いに活用された。現在でも英国の一部の自動車はパラメトロンで燃調を電子制御して走っている。

パラメトロンは放射線障害に極めて強いという特性があり、核戦争においては有利に働くとみられていた。そのため現在でも軍用としては現役である。後世の歴史書において、英国が核戦争を強く意識していたと記述されるのはここらへんが原因なのであるが、それはあくまでも結果論であり、本来はそこまで考慮はされていなかったのである。

233:フォレストン:2017/12/20(水) 21:23:01
あとがき

というわけで、改訂版です。
本編に合わせていろいろ弄繰り回したらほとんど別物になりました。
そもそも、オリジナルから何度も改訂してるんで、もう何が何やら分かりませんけどね(オイ

というわけで、用語解説です。

コロッサスMk.4
暗号解読は速さが求められるわけで、敢えて遅い計算機を実用化する必要性は無いのですが、玉切れのリスクと並列化計算でカバー出来ると考えられたために開発が続行されたという設定です。


旧アメリカ人技術者を中心とするチーム
きっと、ジョン・フォン・ノイマンや、ジョン・マッカーシーがいるに違いないです。


英国コンピュータ協会
史実だと1957年に創設されますが、拙作ではトランジスタショックの直後に創設されているという設定です。


初の商用パラメトロン・コンピュータ
性能的には史実のPC-1くらいです。
当時なら十分過ぎるほどの性能ですが、すぐに陳腐化します(泣


励起周波数6Mhz(動作周波数60khz)
史実では、PC-1の強化版であるPC-2で達成された数値です。
当時の接合型トランジスタ機よりも高速でしたが、これが限界でした。


ムーアの法則
おそらく、憂鬱世界でこの法則が成り立つのは磁気コアメモリだけかも。
憂鬱日本のコンピュータ技術は、法則というよりワープ進化ですし(;^ω^)


マンチェスター
19世紀末は世界の工場として君臨。
憂鬱世界では史実以上の没落で存亡の危機に陥りましたが、コンピュータ開発の拠点として再度発展していく…というのは、拙作オリジナル設定ですので念のため。


プラット&ブラザーズ社
マンチェスター最大の織機繊維メーカー。
史実でも豊田自動織機の性能にほれ込んで特許を買い取っていたりします。


0.3mmのコアに髪の毛よりも細いワイヤーを通して編み込む
史実だと磁気コアメモリの生産自動化は成されなかったので、手作業でやっていることになります。
ちなみに画像はこちら↓

h ttp://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/premicro/coremem.html

なんかもう見ただけで発狂しそうです(ヽ'ω`)


史実の256bitスタティックメモリや1kbitダイナミックメモリよりもコストと性能、信頼性で優位
これも史実準拠です。
磁気コアメモリでこれだけの性能出せるなら、大抵の電子制御は可能じゃないですかねぇ。

234:フォレストン:2017/12/20(水) 21:24:30
リード部品
部品の端子にリードが付いていて、プリント基板に差し込んでハンダ付けするタイプの部品です。
後述のアキシャル部品もラジアル部品もリード部品に含まれます。


アキシャル部品
主に円筒形の抵抗やダイオードなどで、機械実装の際に部品の両端をテープで留めた形で供給されるものがアキシャル部品です。


ラジアル部品
トランジスタなど、機械実装の際に部品の片側だけをテープで留めた形で供給されるものがラジアル部品です。


FCのスペランカー
別にスペランカーに限ったことじゃないですけど、発光ダイオード付きのファミコンソフトって初期に結構ありましたよね。


ベル・パンチ社
史実だと世界最初の電子式卓上計算機を作ったメーカーです。
1980年代初頭に倒産しています。


パラメトロン電卓
見た目も中身も史実で大井電気の製造したパラメトロン電卓アレフゼロ101です。
史実だと1963年8月に試作されています。最終的に1000台の製造と販売が行われていますが、大井電気本社に展示されている1台を除いて現存しているものはありません。


史実の電卓戦争よろしく猛烈な勢いで電卓の小型高性能化と低価格化が進んでいた。
憂鬱日本だと電卓とその周辺技術が全て自前で賄えるので、史実以上の勢いでカード電卓化待ったなしでしょう。
そんなん見せつけられたら、発狂してもしょうがないですよね…。


NC制御フライス盤
史実日本では、1950年代半ばに実用化されています。


CNC制御
コンピュータで情報処理を行うNC制御のことです。
現在では、CNC制御はNC制御と同一扱いされているので紛らわしいのですが、憂鬱本編における日本のNC工作機械はCNC制御です。拙作のNC工作機械は単なるNC制御です。CNC制御では大量の情報処理が必要となるので、トランジスタコンピュータ(史実第2世代コンピュータ)が必須です。なので、仮に技術的に完成していたとしても、機密指定が解除される1945年7月までは公開は不可能です。


MELDAS 3213
史実で三菱が製作したパラメロトンを使用したNC装置です。
既存の機械をNC制御するための装置であり、データの読み取りにはテープを使用しています。


インジェクション制御
燃料制御のことです。
ガソリンをポンプで加圧してノズルから噴射します。

235:フォレストン:2017/12/20(水) 21:26:23
パラメトロン版コマンドゲレート
実質的に電子制御です。
これを用いれば、頭が痛くなるデルティックの点火タイミングの調整も簡単になるし、気性の荒い航空用ディーゼルのノーマッドも扱い易くなるはず。


ハイブリッド回路
ここ悩んだのですけど、仮にパラメトロンが真空管の駆動電圧を流しても稼働するならば、普通に回路が組めるわけでVT信管も発振用の真空管のみで済みます。確実に小型化と低価格に加えて量産性も向上します。でも、あの小さいコアに200Vなんか流したら普通に焼き切れてしまいそうなので諦めました。効率低下を承知で高電圧に耐えれるフェライトコアを実用化出来ればあるいは…。


信管調停不要な史実の三式弾
VT信管と三式弾は、一時期の火葬戦記の鉄板だったような気がしますw


地対空ミサイルの拡大発展版
史実英国が1960年に配備したサンダーバード地対空ミサイルをスケールアップして、下段にブースターを付けたものです。
性能的には中距離弾道ミサイルの劣化版がせいぜいでしょうが、射程は短めでも十分に届くので実用的には問題ないはず。


3Vボマー
憂鬱世界でも一応は生産されるはず。
でも対空ミサイルと弾道ミサイルが既に実用化されている憂鬱世界だと空中給油機とか、警戒管制機くらいしか使い道は無さそうなんですが…(白目


史実のアムダールの法則
過去にも感想掲示板で話題になっていましたが、並列化による効率化には限界があります。分割出来る作業は並列化によって効率化出来ますが、分割できない作業はそれ以上効率化出来ません。結果、分割化した作業が終わっても分割できない作業が終わらない限りタスクは終了出来ないわけです。これを解決するには演算を高速化するしか無いのですが、そもそもパラメトロンはけた外れに速度が遅いわけで…_| ̄|○


万能電算機(海外向け名称システム360)
国内向けは万能電算機で発売して、海外ではシステム360の名で売るということで。


英国版システム360
システム360は接合型トランジスタをパッケージ化したハイブリット回路で構成されているので、憂鬱英国でも技術的には辛うじて理解の範疇に収まると思います。本文で描写しましたけど、トランジスタ量産で手こずっている英国では理解は出来ても同一のものを作るのは不可能です。ドイツはさらに論外です。

システム360をパラメトロンで置き換えたのが英国のシステム360もどきです。デザインを似せるようなことはしていませんが、オリジナルを弄繰り回した結果、使い勝手はオリジナルに迫っています。計算速度が爆遅ですけど(涙
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最終更新:2024年12月18日 20:30