718:新人艦長:2025/03/16(日) 13:06:44 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
アメリカ夢幻会世界ネタ
バンコク防空戦
1942年3月24日から43年6月7日まで続いたバンコクを中心とした中華民国軍の空襲とそれを迎撃する各国空軍の戦いの総称だ。
Battle of Bangkok (バトルオブバンコク)とも言われ、後世第二次世界大戦の航空戦のハイライトの一つである。
その栄光ぶりは次のような日本陸海軍のパイロットたちの言葉で示される。
「西はバンコク、東は上海。防空戦の花也」
第二次世界大戦開戦時、中華民国軍には大量の爆撃機と戦闘機、そして大量のパイロットが存在した。
どこからこれらが湧いたのか?それはソ連の援助であった。
ソ連は中華民国に最新型旧式問わず送れるだけの戦闘機と爆撃機を送り、自国でしていたパイロットの大量育成システムを導入させたのだ。
そしてこれを1935年からしていたのである。
1935年のルーズベルト協定締結はソ連にとっては日米の結びつきが強化され中国から叩き出される可能性を秘めていた。
そこでスターリンは中華民国への支援を強化することを決定した。
国共合作を推し進め、その為には毛沢東派閥の粛清(これそのものはアメリカの偽情報説あり)すら行うなど中国へのテコ入れは凄まじいものだった。
ソ連は中華民国軍の徹底的な教練と人材育成などからテコ入れし、史実の数だけの弱兵などではなく、一定の質と凄まじい量の両方を確保した強力な軍隊となった。
この中華民国支援のため、史実よりも早くウラル地方では工業化が進み、中華民国向けT-26生産工場や大砲、砲弾、銃、戦闘機、輸送機、爆撃機の生産工場としてウラルヴァゴンザヴォドやタンクグラードなどが建設されシベリア地方のインフラ開発が急激に進んだ。(その労働力は当然流刑者達である。少なくともこの世界では「流刑者に木の数を数えさせる」というような無為な労働を延々課すほど暇ではなかった)
さらに中国での自前の武器生産も可能な限り支援し、その中でスダエフ技師が「スダエフ式短機関銃」PPSを開発、中国で生産が開始された。
少なくとも1941年時には既に中国は以下の兵器の生産程度なら可能な軍需産業を得ていた。
- T-26
- PPS
- モシンナガン
- ヘルメット
- TT-33
- I-16(初期の主力戦闘機)
- SB(エンジンはM-88に換装された通称К型)
- Ar-2(エンジンはM-88に換装された通称К型)
- Il-4
- La-5(むしろLaGGの液冷を中国で生産するのが難しい関係で早期に誕生。戦中には主力となる)
- ASh-82発動機
- M-88発動機
- Su-2(生産ラインが1942年に輸出)
- Po-2
- UT-2
など
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そのため1941年の開戦時、中国軍の数と質両方に優れた軍隊の前に香港、インドシナ半島と次々陥落した。
そして彼らはインドシナを平定すると次の目標をタイに定めた。
彼らは手始めに1942年の春からSB爆撃機隊による空襲を開始した。
バンコク防空戦の始まりである。
バンコク防空戦でのバンコク防空部隊の主な組織は以下の通りである。
共通しているのは雑多な各国軍と機種のため誤射を防ぐ為に敵味方識別塗装としてタイ国旗柄のストライプを両主翼に、機種にシャークティースを描いている。
日本陸軍
飛行第64戦隊“加藤隼戦闘隊”
日本からの派遣部隊
フライングタイガースに次いで到着した。
指揮官の加藤中佐から加藤隼戦闘隊と呼ばれた。
新型の一式戦闘機を装備していたため、誤射を防ぐためシャークティース塗装をした。
終戦までインドシナ戦域で活動したため撃墜数は一位。
防空戦がひと段落すると再編するタイ空軍の訓練にも従事した。
日本海軍
台南海軍航空隊
3番目に到着した部隊。
装備した零式艦上戦闘機の航続距離が長いことから迎撃戦よりも攻撃的任務に使用されることが多く、その活躍からバンコクの牙と讃えられた。
タイ王国軍
戦闘機隊“ドンムアン”
当時のバンコク防空に当てがわれたタイ王国空軍を集成した戦闘機部隊。
ドンムアン空港を拠点として防空戦に従事した為ドンムアン戦闘機隊と呼称された。
初期装備はホーク75と九七式戦闘機であったが、SB爆撃機他には数も性能も訓練も迎撃システムも不足していた為満足に迎撃を行えなかった。
1942年以降は段階的に米国供与のP-38及びP-51に装備転換、更に日本陸軍の訓練により能力を回復した。
第3義勇戦闘飛行隊“フライング・タイガース”(P-51A装備)
第二次大戦
アジア戦線が開始後、退役パイロットや参戦していないフィリピン人、オランダ人、現地人、中国本土から逃れた西欧人や中国人などからなる義勇パイロットや兵士を在フィリピン米軍とフィリピン軍が訓練して当時更新予定だったP-51Aで装備させ、中国軍が近づくバンコクに送り出した部隊。
あまりにも雑多な人種で混成された義勇兵団だったが、バンコク空襲が始まった中で最初に到着した欧米救援軍として歓迎される。
フライングタイガースという名前は当時タイ軍が手も足も出なかったSB爆撃機を次々撃墜していく様を見たラーマ8世が「空を駆ける虎のようだ」と讃え、自らフライングタイガースと名乗った事に由来する。
これ以降虎をイメージし機首にシャークティースを描き、中国軍パイロットからは「飛虎隊」として恐れられ、後続の各国戦闘機部隊も敵味方識別の一環として描き始めた。
アメリカ陸軍
第348戦闘航空群
ニール・カービィ大佐と当時最新鋭のマルチロールファイターP-47サンダーボルトで編成された戦闘機部隊。
カービィ戦闘団とも呼ばれ、やや遅れて到着したが、バンコク防空戦とその後の対地攻撃に活躍した。
指揮官のカービィ大佐は24機の撃墜で名誉勲章を受勲。
第6夜間戦闘航空群“バットマンズ”
P-70を装備した夜間戦闘機部隊
連合軍の増援で昼間爆撃が不利と悟った中国軍が夜間爆撃を開始した為派遣。
装備は最新鋭機のハボックを改造したP-70夜間戦闘機。
唯一の夜間戦闘機部隊だったため夜の戦いを一手に引き受けた。
部隊マークや愛称は当時の人気コミック「バットマン」から引用された。
末期にP-61に装備転換。
イギリス空軍
ウボン戦闘機集団
イギリス軍が派遣した戦闘機部隊
装備はブリュースターバッファローとハリケーン。
マラヤとビルマ自体が攻撃を受けていたため十分な数を派遣できなかった。
活動拠点はアメリカが建設したウボン空軍基地。
主に対地攻撃に活躍。
これら部隊の活躍から、1942年末のパタヤの戦いでは制空権を奪われ、航空攻撃で疲弊していった。
また独ソ戦の開始はソ連の援助の不足、日本を中心とした爆撃機部隊による中国内陸部工場への爆撃、伸び切った補給路による物資不足、レジスタンスの活動激化は段々と活動が消極化し過ぎ、1943年夏に起きた大規模空襲を最後に活動は停止。
これ以降対地攻撃と中国本土の戦略爆撃へと局面は移って行った。
戦後、バンコク防空戦におけるタイ空軍部隊の苦境から発展途上の友好国でも扱いやすい低コスト多用途戦闘機の需要が見つかり、研究の末に1950年代にF-5が初飛行、60年代末にはF-16計画になった。
またレーダー網の設置や高射砲などの防空システムの強化、さらには高射砲そのものの限界についても露呈した。
これ以降、高射砲ではなく防空システムとしてのミサイル開発が進んだ。
720:新人艦長:2025/03/16(日) 13:08:20 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
以上です。
概ね
- ソ連のせいで中華民国軍超強化
- 地味に中華民国を支援するために軍需産業を早い内からフル稼働させてたので独ソ戦は実は結構大変
- 毛沢東他の中国共産党派閥は粛清された
- PPSとLa-5が早めに誕生
- P-70を救済したかった
- 戦後、友好国向けの安くて扱いやすい高性能多用途戦闘機の必要性がわかり、やがてF-5及びF-16などに結実する。
- またこれ以降、米国の対外軍事援助制度が創設される。
って感じで
最終更新:2025年06月11日 21:21