903:新人艦長:2025/03/11(火) 22:01:26 HOST:121-87-116-151f1.osk2.eonet.ne.jp
日本競馬復興
 1946年、当時日本競馬は各地で行われている進駐軍競馬が中心であった。
 この進駐軍競馬は当時のジョージ・S・パットン将軍の庇護の元行われていた。
 しかし実態としては戦中戦後の混乱の中でなんとか馬をかき集めて体裁を整えていただけで野良競馬と然程変わらない状態であった。
 その中で競馬好きの夢幻会メンバーはGHQに働きかけることで競馬制度を整えることを計画した。
 特にGHQに兵士達の娯楽の提供と犯罪組織への資金流入阻止のための野良賭博の徹底的な排除と八百長の阻止、より高品質な競馬の提供のためという理由はとても体裁が良かった。
 そしてパットン自身が元は騎兵将校という経歴も彼自身が馬に馴染みがあり、優れた選手であったため個人的な関心と支援を受けることができた。

904:新人艦長:2025/03/11(火) 22:02:06 HOST:121-87-116-151f1.osk2.eonet.ne.jp
 1948年までには現在の中央競馬会と地方競馬の基礎的な組織に再編する案が夢幻会及びGHQで了承された。
 競馬場の警備や野良賭博の摘発によって治安も改善、汚職の摘発などを行い充実と整理のための一歩を踏み出していた。
 夢幻会は1950年ごろまでにはJRAの組織化、NRAの組織化、各競走路線の整備、競馬場の整備を完了させるつもりだった。
 JRAは史実の10場の他に宮崎と広島に競馬場を設置、NRAは史実の最多の時代に更に静岡にも設置という形で競馬場の整備が進んだ。

 そして1949年、競馬法及び競走馬生産促進法などを含めた公営競馬法が制定された。
 これによりナイター競馬の許可、常時三場以上、最大1日52Rの開催、八百長などの禁止、地方競馬と中央競馬の交流制度の設置、競走馬虐待行為の全面禁止などが明記された。
 本格的な日本競馬の始動、即ちJRAの設立は1950年9月、競馬としての開始は翌2月であった。
 1951年2月、朝鮮戦争下で未曾有の好景気に沸き、労働者は戦時であり同時に娯楽に飢えていた時代、GHQのパットン将軍の演説の下東京競馬場で日本中央競馬会による本格的な全12R4場開催の競馬が開始された。
 その日のメイン11RはJRA創設を支援したパットン将軍を讃え、ジョージ・S・パットンステークスという名前で行われた。
 条件は3歳オープンのダートマイル戦。
後にG1となりダート3冠初戦となりフェブラリーSの前週に行われるレースである。
 ここに、日本競馬は開始された。
 それは夢幻会の競馬好きにとっては長い長い道のりの第一歩。
 全ては世界最強の馬を生み出すための。

905:新人艦長:2025/03/11(火) 22:03:17 HOST:121-87-116-151f1.osk2.eonet.ne.jp
以上です。
当然夢幻会には競馬好きはいるだろうし、産業系のメンバーも当然いる。
なので日本競馬をいい感じに復興させようもアリですよねと。

906:新人艦長:2025/03/11(火) 22:03:50 HOST:121-87-116-151f1.osk2.eonet.ne.jp
この世界の日本競馬年表(相違のみ)

1955年:交流重賞の先駆けとしてダート3冠と帝王賞、東京大賞典成立(JDDなどの開催開始)

1956年:最初のクラブ馬主会社が設置(夢幻会系、株式会社ムゲンホースクラブ)

1957年:地方交流重賞及び交流重賞の開始(路線は現在の交流重賞に大阪、春木、荒尾、静岡、紀三井寺、北見、仙台、石巻、上山、古河、宇都宮、高崎、足利、三条、上諏訪、益田、岡山、福山、中津、高松、徳島、都城、鹿児島にそれぞれ2~4の交流重賞が追加)

1960年代:夢幻会が産業界のメンバーとホクレンを使い競走馬生産事業に本格参入。  
段階的なアラブの生産縮小とサラブレッドへの統一の路線が提示。

1970年代:テスコガビーが生存、アメリカで繁殖入りし産駒からg1馬を出す、種牡馬の導入に関しては整理が行われ血の閉塞や無計画な種牡馬導入に一定の歯止めがかかる。どちらかといえば優秀な繁殖牝馬の導入と育成の改良が優先される。
 トレセン建設、各種外厩設備の建設。坂路やプール調教設備などは当初より導入。
 革新系首長の多くは史実と違う左派勢力の動きのため公営競技廃止には後ろ向き

1975年:日本人オーナー(夢幻会所属の実業家)がシアトルスルーを落札。その後ダンジグなども入手。(アメリカで種牡馬入りするも相当数の産駒が日本で繁殖入り)

1979年:中央競馬のアラブ馬競争終了

1980年:
 JCデイ開始
 引退馬支援のためのG1開始(引退馬支援記念、有馬記念のアンダーカード)
 3歳スプリントG1開始
 グレード制導入
 セレクトセールなど開始
 エリザベス女王杯の古馬牝馬限定G1化
 ヴィクトリアマイル開始
 NHKマイルカップ開始
 秋華賞開始
 高松宮記念距離短縮と短距離G1化
 マイルCS開始
 阪神3歳S開始(史実と同じ時期に牝限に)
 スプリンターズSの秋G1シリーズ最初に移動の上でG1化
 障害G1開始

1982年:JCデイ日本馬初勝利(JCジュベナイル:サミダレ(モガミ産駒)

1983年:JCジュベナイルシンボリルドルフ制覇

1984年:JCジュベナイルシリウスシンボリ制覇

1986年:テスコガビーの娘がJCジュベナイルフィリーズ制覇

1980年代:史実と異なり無計画な拡大で潰れる牧場が減る(やらかす馬鹿は出る)

1990年:マル外規制撤廃&サンデーサイレンス導入(3歳引退&即日本で種牡馬入り&オーナー日本人のため2年早い)
八大競争とJCデイの国際グレードG1化
史実通りの熱狂が起きるオグリブーム
 地方競馬のアラブ競争終了

1990年代:カーネギーは導入するがラムタラとピルサドスキーの導入は回避する(なのでヒルノダムールがいない)
 香港とマカオで国際G1デー開始

1994年:JRA開催の全G1の国際グレード化
 大阪杯G1に

2000年:エアシャカール2冠逃す菊花賞はボナパルティスト(シンボリルドルフ産駒のステイヤー)
 テイエムオペラオー空前絶後の春古馬三冠、秋古馬三冠の古馬王道グランドスラム

2000年代:競馬の退潮をある程度で食い止めることに成功。割を食うその他公営競技。
 馬主資格の要件緩和が地方中央問わず行われ、海外馬主の参入が盛んに。(ゴドルフィン参入とアドマイヤムーンで揉めない)

2005年:日本人騎手が初めて凱旋門賞、英愛ダービー制覇(日本人がオーナーになったハリケーンランとモティヴェイター)

2008年:ブエナビスタ牝馬3冠(後に9冠)、テイエムオペラオー産駒ガネー賞制覇

2012年:オルフェーヴル凱旋門賞制覇

2013年:オルフェーヴルBCクラシック挑戦(敗北)

2019年:サートゥルナーリア皐月賞で負ける。ダービーも負ける。マカオG1は勝つ。

2025年:全ダートグレード競争の国際格付け取得(予定)

907:新人艦長:2025/03/11(火) 22:05:35 HOST:121-87-116-151f1.osk2.eonet.ne.jp
ちなみにダート三冠はこの世界では
ジョージ・S・パットンS(東京マイル)
JDD(一昨年までのJDD)
国防海軍記念(広島2400)
です。
羽田盃と東京ダービーはまだ地方重賞です。

そのほかに
現在、中央十一場通年三場以上開催、G1は30以上
地方は三十六場開催で交流重賞は100近くある
交流重賞で国際格付けを得ているのは
G1 東京大賞典、帝王賞、全日本2歳優駿、JDD
G2 日テレ杯
3歳未勝利戦は3歳年内いっぱいまである
武豊の記録はなんかさほど変わってない(地方重賞が増えてるぐらい)
年間生産数は1万2千前後に輸入だがこれでも2歳競走馬の定数の8割程度のため2歳馬向け馬房の削減案が度々議論されている。(多いのは各地方競馬と中央で2歳馬の取り合いを延々続けてるから)

九州東北産の生産はかなり支援され、九州産は季節問わない高い運動量が評価、東北産は東北各地の外厩舎と協力した仕上がりの速さが特徴。
九州産馬と東北産馬は欧州産馬ぐらいの活躍はしてる。

騎手の短期免許制度が異なり地方騎手に対してはブロック制が導入されそれぞれの地区に籍を置いてる地方騎手はその地区にある中央競馬のレースに無制限で騎乗可能な他、所属地区のレース開催が無い期間に限り無制限で地方騎手に短期免許を発行できる制度になっている。
短期外国人枠は史実よりもずっと多いし必要資格要件も緩い。(モレイラルールもデムーロルールもいらない)
レース数が増えてるのでJRA騎手は基本的に忙しい。交流重賞で代打で地方騎手が乗るというのも非常に多い
G1騎手重賞騎手がかなり増えてる
史実通りに消えてる宮崎競馬場

ルドルフ、テスコボーイ、トウショウボーイ、テイオー、シリウス、オペラオー、マックイーン、メジロブライトなどの直系がかなり生き残っている。

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最終更新:2025年06月11日 21:38