249:戦車の人:2025/01/04(土) 11:49:14 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
yukikaze様から許諾頂いた、史実のSTAに近い61式戦車。投下させて頂きます。
何だこの文字数は…
250:戦車の人:2025/01/04(土) 11:53:04 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
戦後夢幻会世界・もう一つの61式戦車
車体全幅:3.0メートル 車高:2.35メートル 車体全長:6.7メートル
戦闘重量:36トン 乗員数:4名(操縦手、砲手、装填手、車長)
武装:61式52口径90ミリ戦車砲1門(弾薬50発)
:M2 12.7ミリ重機関銃1門(弾薬525発)
:M1919A4(後にMAG58)7,62ミリ同軸機関銃1門(弾薬4000発)
砲塔装甲:120ミリ~40ミリ 車体正面装甲:70ミリ/30度
エンジン:空冷4サイクル12気筒600馬力ディーゼル
サスペンション:トーションバー方式 変速機:クロスドライブ自動式
最大速度:毎時45キロ 航続距離:250キロ 生産台数:800台以上
251:戦車の人:2025/01/04(土) 11:53:35 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
1.概略
国防軍という形で再編された戦後新国軍が、はじめて実用化と配備に漕ぎ着けた国産第一世代戦車。
初期の国防軍装備が往々にしてそうであるように、旧軍から培われた技術と合衆国より導入された技術双方を用いている。
復興著しいとはいえ依然限界が厳しい当時の鉄道、道路インフラに適合し、戦闘重量は36トンに抑えられている。
コンセプトは当時の日本国内インフラに適合しつつ、合衆国より供与された複数の旧式戦車を代替すること。
最終的に36トン以下とされた車体規模の中で、火力を一義としつつ最大限の戦闘力を追求し、防衛戦闘に貢献すること。
そして旧軍時代の砲戦車ではなく、供与戦車や同世代MBTと同様、普通の戦車として運用可能なことであった。
確かに帝国陸軍時代の砲戦車は取捨選択、火力への集中により米軍機甲部隊を相手に、よく奮戦したと言える。
新国軍の一義が国土防衛である以上、あのドクトリンを継承するべきとの声も、旧軍経験者からけして小さくはなかった。
61式開発当時、Strv103に酷似した戦後の砲戦車というべき、もう一つの路線の試作車まで製造されたほどである。
だがM4やM24、あるいはM36という古いが実用性と汎用性に富む米国製戦車に触れた、新世代の機甲科はそれを否定した。
戦車である以上、一度軍事侵攻を受けた我が国土の奪還。つまり逆襲戦闘も行えねば、それは自走砲に過ぎない。
確かに火力を追求する姿勢は正しいが、守ること「だけ」にしか使えない戦車では、早晩陳腐化すると判断したのである。
同時にこれまでのように合衆国製戦車を用いるのも難しかった、M26以降の新型戦車は当時の日本には大きく重すぎた。
40トンを超える大型戦車の運用が、国内インフラを含めて可能となったのは1970年代のことである。
復興と発展が著しいとはいえ、50年代から60年代の日本国とは、未だに足らぬもの及ばぬものが多い発展途上国だった。
故に新国軍は最終的に、国内の貧弱なインフラに適応させつつ、国産でやや小さかろうともMBT開発を決心したのである。
この点は朝鮮戦争で同盟国として血を流した実績から、米国より相当な機甲技術の供与を受けられたことも多い。
特にクロスドライブ式自動変速機、砲・照準器安定装置、90ミリとはいえ当時最新の戦車砲弾等が61式を救った。
STA(装軌・タンク・A)の名前で開発された試作車はSTA-1からSTA-4まで、相当数が制作され、段階的に実用化を果たした。
その過程で高コスト、あるいは信頼性の問題から断念した技術も少なくはないが、けして安かろう悪かろうではなかった。
最終的に61式として正式採用されたこの戦車は、第1世代MBTとしては、概ね及第点と言える性能に達していたのである。
実用性の面でもパワーパックシステムやクロスドライブ変速機導入により、米軍戦車に劣らぬ操縦性と軽快性を評価された。
砲・照準器安定装置と新型弾薬、十分な発射速度に支えられた改良90ミリ戦車砲の火力も、必要十分までこぎ着けた。
その上で900台近くの生産、部隊配備を行い、74式就役以降は歩兵直協に任務を変えつつ、平成8年まで機甲の一翼を担った。
以下においては、足らぬ所も多いが黎明期を脱した新国軍戦車隊を支えた61式戦車、その特徴に触れてゆきたい・
なお最後に日本版Strv103のような形で試作された試作車は、採用こそされなかったが、多くの新技術という遺産を残した。
それを多分に用いて開発されたのが74式戦車であり、こちらもけして無駄ではなく、今も富士学校で静態保存されている。
252:戦車の人:2025/01/04(土) 11:54:15 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
2.車体及び駆動系
61式戦車は当時の国内交通インフラ。つまり鉄道、国道、船舶の限界に近い36トンの重量となり、車体規模も同世代で最小である。
砲塔に鋳造鋼板、車体に圧延鋼板を用いている点も、合衆国のM26やM46などと同様で、特に車高低減に努力が払われた。
M4戦車の車高が3メートルに迫るのに対し、61式戦車のそれは2.4メートル以下で、全幅3メートル、全長も6.7メートルと抑制された。
乗員配置は車体に操縦手、3名砲塔に砲手、装填手、車長が収まり、車高こそ低いが十分な戦闘動作容積を有している。
合衆国軍供与車両を見慣れた戦車兵からすれば、かなり近代的に映ったようで、旧軍出身者も「新戦車」と呼ぶことが多い。
ただし74式より搭載された車内空調は搭載されておらず、ABC防護装置も砲閉鎖を含む車内与圧式であった。
往々にして61式の弱点とされる砲塔の大型車長用キューポラは、ABC汚染状況下での索敵、機関銃運用も考慮したが故である。
50年代の熱核兵器の急速な大威力化、戦術レベルでも大量の核兵器配備は、それほど恐るべきものであった。
そのような危険な状況においていち早く被曝地域を脱出させるため、与圧車内より索敵を行う能力が、当時は求められたのである。
駆動系は合衆国よりパテントを購入したクロスドライブ自動変速機、国産の空冷12気筒600馬力ディーゼルをパワーパックとして搭載。
これにより第二次世界大戦当時の戦車と異なり、車体底部を走るドライブシャフトが廃止され、車高低下にも貢献している。
無論、世界大戦当時の戦車で往々にして存在した、車体前部の変速機点検パネルなどもなくなり、車体正面は一枚傾斜構造となった。
操縦性という点でもクロスドライブ変速機の導入により、普通自動車に近いハンドル、アクセル、ブレーキによる平易な操車を可能としている。
新国軍黎明期に多数が導入されたM24軽戦車と比較しても、遜色のない操縦性であり、より大型故に不整地踏破性は寧ろ優れていた。
サスペンションも砲塔を有したことで姿勢変換機能が不要となり、より簡素堅実なトーションバー方式で纏め上げられている。
戦闘重量36トンに対し最大600馬力の空冷ディーゼル、前進2速/後進1速自動変速機、トーションバーサスペンションは良く耐えた。
最大速度こそ毎時45キロと控えめだが、加速力や登攀性など運動性能に優れ、航続距離も当時としては必要十分であった。
操縦性に至っては当時の国産トラックやバスなどより、余程平易とさえ評されており、この点で不満を抱かれることはほぼなかった。
なお10年以上にわたる61式戦車の生産過程において、駆動系を含む車体全般の信頼性向上も、適宜図られている。
特に電子計算機が民間企業でも普及した高度経済成長期以降は、車体及び駆動系全般の見直し、信頼性向上措置を実施。
1967年以降の生産車体はそれ以前と別物と評されるほど、駆動系を含む機械動作等の信頼性向上、故障低下を果たした。
61式戦車はオーソドックスな中戦車として開発され、更には駆動系をパワーパック方式としたことで、派生車両開発も容易であった。
戦車回収車、自走架橋は言うに及ばず、工兵作業車や地雷原処理車。果ては少数だが自走155ミリ榴弾砲も生産された。
何れも後の視点からすれば性能十分とはいえなかったが、部隊全体の機械化推進、ファミリー化開発の基本を導入した戦車とも言える。
またある程度、性能を偲んで戦闘重量や車体寸法を抑制しただけに、60年代の鉄道や国道、船舶でも十分輸送が可能であった。
戦闘性能で劣後を承知で運用の柔軟性、輸送能力を求めた努力は報われ、国鉄貨物列車や主要国道を用い高い展開能力を発揮した。
そのため市街地のパレードなどでもM24やM4と並び国民の目に触れることも多く、国防軍機甲部隊の顔を務めた時代も長い。
253:戦車の人:2025/01/04(土) 11:55:11 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
3.武器システム
戦車の一義とは敵戦車を撃破しうることで、当時の国内インフラに適合し、中戦車型を選んだ段階でかなり問題視はされた。
61式開発当時の50年代、100ミリ級戦車砲は旧軍砲戦車のそれか-合衆国軍試作重戦車のそれしか存在しない。
後にL7となる傑作戦車砲は、本家英国ですら正式採用されたのは61式開発後期段階の1958年で、選ぶに選べなかった。
故に国防軍は朝鮮戦争当時、合衆国より供与されたM36対戦車自走砲の搭載するM3型90ミリ戦車砲を検証。
日本製鋼所による砲身延長及び薬室拡大、ダイキン工業および小松製作所による最新弾薬のライセンスの取得に成功。
100ミリ級戦車砲には劣後するが、合衆国軍のM47やM48が搭載する新型90ミリ戦車砲に遜色ない性能を獲得した。
主に用いる弾薬は被帽付徹甲弾、対戦車榴弾の二種類で、前者は射距離1000メートルで均質圧延装甲180ミリ以上を射貫。
弾道特性も良好で、比較的発射炎も小さいことから、ベテラン乗員であれば全くの直接照準で高い命中精度を得ている。
後者は条件に左右されやすいが300ミリ以上の貫通力を持ち、T-54/55やIS-3、T-10なら十分撃破可能な威力を有していた。
砲塔は先の世界大戦で常識となった3名配置のバスケット構造で、パワーパック採用により低車高と十分な容積を両立。
十分な訓練を受けた乗員であれば毎分15発の発射速度を、短時間とはいえ発揮可能で、この点もソ連戦車に優越していた。
敵戦車を撃破するには複数弾直撃が望ましいとされた時代において、良好な発射速度は必要不可欠であった。
なお試作車においては機械式装填補助装置も搭載されたが、砲塔内容積の圧迫と高コスト、信頼性から量産車では撤去。
合衆国戦車を参考とした人間工学デザインに則った乗員配置による、装填手の技量と体力に基づく装填へ簡素化された。
操砲動作は電気式、砲塔旋回は電気油圧併用式で、毎秒24度の砲塔旋回、仰角13度/俯角10度の射角を有する。
これにより姿勢変換機能こそ有さないが、61式は高い地形適応能力を用い、ハルダウン戦術などが容易となっている。
低い車高と大きな俯角は、あらゆる地形で有効なものであり、後のカンボジア紛争派兵でも、被弾面積を最小とすることに貢献した。
軽快な機動力と低い車高、高い地形適応能力、M48に遜色ない90ミリ砲を持つ61式はかなりの勇戦敢闘を示した。
また概略の段階で述べたとおりに、合衆国から新型弾薬だけでなく電気機械式の砲・照準器安定装置も導入されている。
主砲を垂直安定化、照準器を垂直・水平安定化し、また照準器に追随する現代戦車でも使われるオートスレイブ機構を開発。
これらを電子ではなく電気回路で纏め上げた点は、単純に安定機構を輸入しただけではない技術力が伺える。
弾道計算機こそ搭載されず、車長用キューポラに搭載された測距儀も簡素だったが、即応性と実用性に優れた照準機構である。
躍進射撃における命中精度の向上は言うまでもなく、低速運転時であれば行進間射撃でもかなりの命中弾を得ている。
中期生産型からは赤外線投光器を主体とした暗視装置も導入され、一定の夜間戦闘能力も付与されることになった。
主砲以外の武装としては、車長用キューポラに車内遠隔操作が可能なM2重機関銃を1門。対空用も兼ねて搭載。
同軸機関銃は初期型はやはり合衆国製のM1919A4を、中期生産型からはライセンス生産したMAG58を1門搭載している。
何れも信頼性、性能で申し分のない機関銃であり、MAG58等は日立工機が主体となって生産を行ったものである。
254:戦車の人:2025/01/04(土) 11:55:42 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
4.装甲及び生残性
61式は36トンの中戦車という段階で、米ソMBTのような重装甲を施すことは難しく、避弾経始を多様せざるを得なかった。
砲塔は鋳造鋼板構造、車体は圧延鋼板溶接構造で、戦中戦車と比較すれば防弾鋼板の品質も格段に向上した。
高度経済成長期の戦車らしく、生産ロットが後期になるほど防弾鋼板の品質は良好だったという証言も多く存在する。
基本、ハルダウンを用いて砲塔のみ晒して戦う戦術を想定しているため、砲塔装甲は重量に比して分厚い。
正面などは湾曲した120ミリの鋳造鋼板で構成され、防楯と合わせた場合、T-54のAPCBCへの耐久も不可能ではなかった。
圧延鋼板に比べ強度で劣るが、自在に厚みを変更できる鋳造鋼板の特徴を用い、砲塔側面も相応の装甲を有している。
一方で車体側はハルダウン戦術多用を前提に割り切られ、正面装甲ですら70ミリ/30度程度とけして十分とはいえない。
パワーパックシステム導入により一枚板の傾斜構造を成し遂げたが、60年代の戦場では不十分なものであった。
側面や背面は機関砲弾、あるいは重砲曳火射撃に耐えれば良い程度とされ、重量や規模の制限の影響は少なくなかった。
軍もこの点を知らなかったわけではなく、後に車体転輪等を防護するスカート装甲、増加装甲などを追加している。
徹甲弾への防御力向上が困難であっても、歩兵が多用する携帯対戦車火器に対する生残性を高めるためである。
増加装甲は複数存在し、後のスラット装甲に近い簡素な中空装甲。グラスファイバー主体のブロック増加装甲等が存在する。
カンボジア紛争ではこの種の増加装甲がかなり功を奏し、RPGや無反動砲から放たれる成形炸薬弾から多くの戦車兵を救った。
またこれは61式の装甲ではないが、合衆国より導入されたM113装甲車で追従する歩兵部隊と、概ね良好な協働を常に維持。
対戦車火器を持つ敵歩兵に対して、歩戦協働の連携戦術により、生残性と攻撃力両立の努力が払われたことも大きい。
中期生産型からは60ミリ発煙弾発射機が砲塔側面に、3連装2基の形で搭載され、照準阻害能力も獲得している。
後のレーザー検知器と連動するような高度なものではないが、車外電話や無線経由で歩兵から伝えられる脅威方向。
そちらへ積極的に発煙弾を投射し、照準を阻害する能力は実用的で、やがて生産車体全てに搭載されることになった。
装甲以外の防御手段としては駆動系、車内に炭酸ガスや散水装置を主体とした、自動消火装置も標準搭載された。
戦中や朝鮮戦争の教訓から、戦車兵の戦死で最も多いのは火災が原因であり、この点は必要不可欠と判断された。
合衆国のM47やM48と異なり、旧軍からのそれを発展させた空冷ディーゼルをエンジンとしたのも、やはりこの教訓に基づいている。
誘爆リスクを持つ弾薬庫も、合衆国の戦車が多用する含水ゴムを多用する湿式で、弾薬架も破片を受け止めやすい軽合金で構成された。
第3世代以降に導入されたブロウオフパネルなどは持たず、限界はあったが、成形炸薬弾のメタルジェット等には一定の効果があった。
中期生産型からは高分子線維による内張りも追加され、やや重量は増加したが、大口径榴弾の曳火射撃等への耐久性も増加した。
部分的には戦後第2世代戦車に比肩する生残性で、当時の日本が開発できた技術としては十分評価できるものである。
カンボジア紛争など実戦でも、増加装甲の適宜搭載や自動消火装置、発煙弾発射機などにより、少なくとも脆弱ではなかった。
歩兵部隊からも協働の際、概ね信頼できる戦車として愛され、けして合衆国戦車のデッドコピーなどではなかった。
255:戦車の人:2025/01/04(土) 11:56:17 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
5.運用史
昭和36年に正式化、部隊配備の運びとなった61式戦車は、概ねに於いて機甲科で良好な評価を獲得している。
M4A3E8、M24、M36GMCといった第二次大戦世代の、老朽化が隠せない雑多な供与戦車の運用。
それから解放され、多少問題があろうとも近代的な戦車での統一運用というだけで、大きな進歩であった。
火力や機動力も第1世代MBTと考えれば過不足なく、歩兵や工兵と協働すれば十分通用する性能を演習などで発揮。
またコスト管理を適切に行なったこと、装甲兵員輸送車を輸入に割り切り、予算集中にある程度成功したこと。
三菱重工等の生産能力向上も幸いし、年平均70台前後の調達ペースを維持できたことも、無視できない長所だった。
部隊配備は富士学校、土浦武器学校など教育部隊より始まり、それ以降は北部方面隊から優先配備が始まった。
良好な地形適応能力、実用的な照準システム、高い射撃速度、俊敏な運動性は実戦部隊でも好評であった。
無論、機械的に未成熟な点も多く、その都度対応に追われたが、最終的には概ね高い実用性を獲得している。
60年代のカンボジア紛争派兵で初の実戦を経験し、初期には歩兵が多用する無反動砲やRPGにより無視できない損害を受けた。
だが歩戦協働の徹底、段階的な増加装甲や防御装置の搭載、戦術の洗練により次第に敵武装勢力を圧倒。
満足な機甲戦力を持たない歩兵主体の軍隊相手に、歩兵と協働するMBTとして、高い戦闘能力を発揮している。
またパワーパックシステムやトーションバーサスペンション等を用いた、奇をてらわない設計故に派生車体も多く生産された。
自走架橋、工兵作業車、地雷原処理車など工兵向けの車両が多いが、少数だが自走155ミリ榴弾砲も正式採用されている。
開発段階で周回遅れと評価されることも多いが、新国軍全体の機械化を推進した点でも、本車の開発は有用であった。
70年代以降となり74式戦車が就役すると、段階的に一線師団機甲部隊から外され、今なお供与戦車を用いる旅団戦車隊。
あるいは歩兵大隊の直協車両として転用され、冷戦時代の機甲部隊の屋台骨を74式と共に支え続けた。
平成8年に最後の現役車両が引退するまで61式は、特に歩兵の戦友として愛され、その信頼に応え続けている。
なお大規模な改装こそ行われなかったが、カンボジア紛争の教訓から装填手ハッチにも7.62ミリ機関銃MAGを増設。
あるいは軽量型の爆発反応装甲の適用試験、搭載も行われ、より高い対成形炸薬弾防御能力も獲得された。
弾薬も従来の被帽付徹甲弾や対戦車榴弾に加え、装弾筒付徹甲弾が追加され、一定の貫通力向上を得ている。
国内外から「周回遅れ」「チープパットン」などと酷評された時期も多いが、現在は運用実績等はかなり再評価された。
また装甲などで不十分とはいえ、本車開発があってこそ74式以降の国産戦車開発の基本が構築されたのである。
戦後の国産戦車開発・配備・運用において、大きなマイルストーンと言うべき初の国産戦車と評価して差し支えないだろう。
なお本車は軽量なことから市街地でのパレード、遊園地などでの装備展示も多く使われ、国民から広く親しまれた戦車でもある。
東宝の怪獣映画にも幾度も出演し、自衛隊の戦車といえば本車という世代の日本人もけして少なくはない。
現在は各地の駐屯地で一定数が静態保存され、富士学校では数台が動態保存され、往時の勇姿を見ることが出来る。
256:戦車の人:2025/01/04(土) 11:56:58 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
6.あとがき
まず相変わらずの長文となってしまったことをお詫びし、本文作成を許諾して下さったyukikaze様に感謝申し上げます。
こちらはいわゆるチハ殿、砲戦車となった九七式の系譜から決別した普通の戦車です。
火力や防御力という点ではyukikaze様の和製Sタンクの61式に、大いに劣後することは否めません。
本質は駆動系のパワーパック化、スタビライザーや対戦車榴弾前倒し導入を行い、少しずつ性能が良くなった史実61式です。
一方で使いやすさ、汎用性の高さという点は特に強く意識して、ある程度は実用性の高いMBTとなったと思います。
少なくとも操縦が世界一困難だったり、躍進射撃で車体動揺が収まるのを待つ必要がある戦車ではありません。
同時にクロスドライブ変速機によるパワーパック化成功で、車体底部にドライブシャフトを通す必要が存在しない。
史実61式より素直な構造となっているので、史実では少数に留まった工兵用車両も一定以上が生産されています。
装甲車両予算が61式に集中(征途オマージュ)されたので、自走砲は少数配備で、APCはM113の安価供与ですが。
勿論発煙弾発射機や増加装甲を搭載すればという前提ですが、カンボジア紛争でもそれなりに戦えると考えています。
もともとの61式が砲塔正面は結構な重装甲で、その上で車体正面を一枚傾斜構造として、空間装甲などを取り付ける。
そこへスタビライザーに支援された90ミリ砲の速射、部隊運用で歩戦協働を徹底すれば、何とかなるかなと。
史実61式より少し早い引退を果たしたのは、こっちの74式がG型に近いものの、もうちょっと安価な構造を採用している。
変速機などはきちんとしたものを使いますがエンジンは空冷、車体規模もyukikaze様のものよりは小さい。
それ故に戦車への予算集中傾向もあり、もうちょっと74式や88式(90式?)による更新が前倒しされた世界線を想像してます。
長くなりましたが最後までお読み頂き有難うございました、wikiへの転載は自由でお願いいたします。
257:戦車の人:2025/01/04(土) 11:57:37 HOST:61-24-203-31.rev.home.ne.jp
投下終了です、8000文字以上の文章を久々に書きました…(面白いとは言っていない)。
そこそこ使える戦車になってると良いなあ。
最終更新:2025年06月11日 21:42