834:奥羽人:2025/03/16(日) 20:59:31 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
【
戦後夢幻会急進派】1965年
1965年、
アメリカ……
家電という存在は段々と市民文化に入り込み、カラーテレビが家庭に普及、映像文化の黄金時代が到来しつつあった。
モノクロ放送が標準だった時代は終わりを告げ、人々はより鮮やかで臨場感のある映像を求めるようになっていた。
そして、その需要を満たすために国内メーカーも競争を繰り広げていたが、そんな市場に突如として強烈な存在感を放つ異国のメーカーが台頭する。
それが日本企業だった。
GEやRCAといったアメリカの大手メーカーが新型カラーテレビを開発し、市場を押さえ込もうとしていたその時、日本から輸出されてくる家電製品が、予想以上の影響を及ぼし始めていた。
特にSHARPが送り込んできた「壁掛け液晶テレビ」は、アメリカの技術者たちを震撼させるほど未来的な存在だった。
従来のブラウン管テレビとは一線を画すその薄型デザインは、家電というよりもまるでSF映画のガジェットのような佇まいをしていた。
しかも、それはただのコンセプトモデルではなく、実際に家庭で使える製品として市場に投入されたのである。
8.6型のTFTカラー液晶パネルを搭載した世界初の壁掛けテレビ、9E-H
シリーズは、そのあまりにも未来的な姿により、高価ながらも全米の好事家から注文が殺到。
それに伴い、新しいもの好きの裕福層にも普及していくこととなる。
この衝撃的な製品に対して、アメリカのメーカーはもはや戸惑うしかなかった。
テレビだけではない…………日本の技術者たちは、日用品から大型機器に至るまで、あらゆる製品で単にアメリカの製品を模倣するのではなく、常に発想の段階から何歩も先を行っている。
しかも、それを実用化し、大量生産し、驚くべき耐久性と品質で仕上げてくるのだ。
消費者は当然、日本製を選ぶようになり、市場の流れは急速に変化していった。
太平洋戦争に勝利し、日本を降伏させ、占領政策を通じて自らの忠実な味方とする…………それはアメリカの戦後戦略における成功例のひとつだった。
日本は西側陣営に組み込まれ、共産主義の脅威に対する防波堤として機能し、冷戦構造の中でその役割を果たしていた。
だが、戦争からわずか二十年余りが経過した今、その「忠実な味方」がもたらす影響は、当初の想定を超えたものになりつつあった。
日本の技術力の成長は、驚異的な速度で進行していた。
戦後の荒廃した国土から立ち上がり、基礎工業を固め、やがて精密機械や電子工学の分野で世界をリードする存在になりつつあった。
特に1960年代に入ると、その技術力はアメリカの家電・自動車・精密機器市場を席巻し始めていた。
835:奥羽人:2025/03/16(日) 21:00:18 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
アメリカ政府は、日本の製品が国内産業に与える影響を危惧し、関税政策を強化することで市場の調整を図ろうとした。
だが、それは何の意味もなかった。
日本の製品は、もはや「安いから売れる」ものではなく、「高品質だから売れる」ものになっていた。
多少の関税を課したところで、その優れた性能と耐久性、そして最先端の技術が生み出す魅力の前では、消費者の選択は揺るがなかった。
アメリカは戦争に勝ち、日本を支配下に置いたはずだった。
だが気がつけば、経済の分野で日本は「対等以上の競争相手」になりつつあり、その輸出品はアメリカ市場に深く浸透していた。
戦争で打ち負かしたはずの国が、たった二十年の間に、技術と経済力でアメリカを脅かす存在に変貌していたのである。
日本の技術力の成長と市場進出は、アメリカ国内の産業界にとって深刻な脅威となっていた。
特に家電や自動車といった消費財の分野では、日本製品が圧倒的な品質を誇り、アメリカ製品を次々と市場で圧迫していった。
この状況を放置すれば、自国産業の衰退は避けられない。
関税強化や輸入規制といった措置が必要だという声も政権内部から上がっていた。
しかし、アメリカ政府は過激な対策を取ることができなかった。
理由の一つが、一層の激化を見せ始めていたベトナム戦争である。
1960年代、アメリカはベトナムへの本格的な軍事介入を開始した。
北ベトナムの共産主義勢力を抑え込み、ドミノ理論が示すような
アジア全域の共産化を防ぐためだった。
だが、この戦争はただでさえ膨れ上がる軍事費と国際的な批判を伴い、アメリカ政府にとって極めてデリケートな問題だった。
そんな状況の中、日本に対する経済的措置を講じることは、より一層の難題を孕んでいた。
アメリカは東南アジアでの軍事行動を進める上で、日本の協力を必要としていた。
日本は既に西側陣営の一員として、軍事的な直接介入こそしないものの、経済的・後方支援において重要な役割を果たしていた。
日本を必要以上に刺激し、対米協力の姿勢が揺らげば、それはベトナム戦争の遂行にも影響を及ぼしかねなかった。
さらに、日本は戦後の復興を経て、西側陣営における重要な経済パートナーとなっていた。
過激な経済制裁を加えれば、単なる貿易摩擦にとどまらず、政治的な対立へと発展する恐れがあった。
そうなれば、冷戦構造の中で共産主義陣営に対抗する西側の結束にも亀裂が生じかねない。
最悪の場合、日本が東側陣営へと転ぶ。
そうなれば、日本の技術力とソビエトの物量が結び付くことは時間の問題だ。
こうした背景から、アメリカ政府は日本の市場支配に対して表立った対策を打ち出すことができなかった。
国内産業からの圧力は強まりつつあったが、ベトナム戦争の戦略的優先度を考えれば、日本との関係悪化は避けねばならなかった。
結果として、日本の経済的台頭は事実上容認される形となった。
836:奥羽人:2025/03/16(日) 21:03:04 HOST:M014009102000.v4.enabler.ne.jp
【夢幻会技術力】
1945年から20年→先行係数1.020
20年に対して技術普及補正0.5を乗算し先行係数1.010
1965年×係数1.010=普及技術力1984年
1965年×係数1.020=保有技術力2004年
以上となります。転載大丈夫です。
もともと、技術力を何年先行させるかの何か説得力っぽいのがありそうな計算式を考えるついでに話を膨らませてみたものです。
因みに液晶テレビはSHARPが史実1990年代に出したやつです。
最終更新:2025年06月11日 21:48