512:ひゅうが:2025/03/21(金) 01:30:32 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp

 鉄槌世界戦後史ネタ


―――日本陸軍/ソ連陸軍 51式重戦車「T-8」(初期型)


全長:11.70m
全幅:3.38m
全高:2.42m
重量:55.0トン
主砲:50式55口径130ミリライフル砲(ロシア名M-666-J)
砲口初速:1100m/徹甲弾 1800m/装弾筒付き徹甲弾APDS(弾体最大33キログラム)
装弾数37発(車体内部)+12発(砲塔後部ラック)
照準:ステレオ測距儀+赤外線暗視装置
武装:12.7ミリ機銃(ブローニングM2のコピー 装弾数400発)
装甲(最大値):砲塔防盾30度傾斜260ミリ 砲塔側面35度傾斜205ミリ 砲塔上面70度傾斜90ミリ 車体前面60度傾斜185ミリ 車体側面105ミリ 車体上面67度傾斜86ミリ 車体底面105ミリ※均質圧延装甲+ケブラー防弾繊維(スプリンター防御用)
主機:ハ91(Jumo218G ソ連名M220-J)過給機つき水冷対向型12気筒ディーゼルエンジン1基
出力:最大1200馬力(2800回転)
速度:65キロメートル(整地最大) 45キロメートル(不整地最大)
航続距離:最大350キロメートル(整地)
乗員:4名(車長 砲手 操縦手 装填手兼無線手)


【概略】――日本国陸軍とソ連陸軍が機甲師団の重戦車大隊用に配備した重戦車
機甲師団による縦深攻撃の突破口啓開役もしくは、奇襲攻撃に対する機動防御任務用として開発されたものである
重量過多との判断から試作のみに終わったT-7(当初名IS-7)重戦車の全面改設計版object270として1946年よりニキータ・フルシチョフ書記長肝いりで開発されていた車体および砲塔に、大日本帝国陸軍が開発していた新駆逐戦車(試製7式砲戦車ホヲ)用に開発していた主砲(海軍用の60口径12.7センチ両用砲 自己緊縛式による砲身製造を用いた次期駆逐艦・海防艦用として量産体制に入ったところで連合艦隊が壊滅し終戦を迎えた)、赤外線暗視装置および半自動装填装置(高射砲用の自動装填装置を設計簡略化した)を口径拡大し組み合わせたものである
砲塔後部に防御用とカウンターウェイトも兼ねた砲弾バケットを装備した最初期の戦車でもあった
主機は、日本海軍から提供されたスーパーチャージャー(旧ドイツ製)を組み合わせた高速水中翼型魚雷艇「海燕改」(ガソリンエンジンの「海燕」を難燃化するために製造されていた)用対向型12気筒ディーゼルエンジン(もともとはドイツのJumo218航空用ディーゼルエンジンの魚雷艇用バージョン改良型である)
本来1500馬力を発揮するこれをデチューンしつつスーパーチャージャーを用いてダッシュ力と燃費を向上させている
砲塔はソ連お得意の低い姿勢の鋳造砲塔であり、戦後の技術的進歩によってIS-7と同等以上の防御力を実現していた
車体は全均質圧延装甲であったことから装甲厚を薄くしつつも同様である
これらをトーションバーサスペンションで支えつつ、ソ連の泥濘に加えて日本の水田地帯(ただし乾田)で運用するための幅広履帯を備えている
緊急時のブースト出力ではさらに150馬力を追加することができ、機動性は当時の米軍主力戦車であるM26シリーズやT30シリーズに比べ極めて高い
設計当初は日本本土のインフラでの運用は困難と考えられていたが、逆に壊滅状態であった西日本および関東地方のインフラ再建時に強化を決定されたために重量増が許容された
だが基本的には佐賀平野や福岡周辺、あるいは西日本における機動防御用および戦線突破用と割り切った日本側の現場はあまり気にしなかったという
設計および試作は1948年末に完了したものの量産体制の構築に時間がかかり、ソ連国内においては1950年初頭、日本国内での製造は1951年半ばからである
ただし日ソ交易の初期の例としてソ連から製造の始まったものが1950年半ばには日本本土に配備され始めており当初は「重戦車ニ号(いろは順で4番目の重戦車の意味)」と呼ばれていた
採用時に改めて51式と命名され直している
非公式の戦車兵からの愛称は長大な砲身より「斬馬(刀)」で、改めて命名し直そうという動きもあったが退役までこれで通された
以後、1970年代に入るまで日本の戦車群はこれら重戦車と、汎用性の高い主力戦車の二本立てで調達されることとなった
しかし対戦車ミサイルの発達により、基本的に本車の代替品は配備されず、数度にわたる改修により冷戦終結まで現役を保つことになった(ソ連軍もT-80の大量配備後も本車を後述のごとく大改修して使い続けた)
また、当初から装弾筒つき徹甲弾(APDS)装備を前提として設計された初の戦車でもあるが1980年代に至るまで米軍はこれを知らず、のちに滑腔砲への換装と装弾筒つき有翼徹甲弾(APFSDS)装備に加えレーザー測距儀や拘束セラミック装甲を装備した新砲塔への換装を行ったことを掴むと驚愕することになる

513:ひゅうが:2025/03/21(金) 01:31:13 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
とりあえずここまで
さすがに疲れました…

514:ひゅうが:2025/03/21(金) 02:58:25 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
コンセプトは、重戦車の絶頂期と黄昏
あるいは主力戦車の先駆け
中の人ゴルバチョフは当初恐れられたT-54の栄光と落日を目の当たりにしてることで最初からガチです
プロパガンダに胡座をかくこともしませんから全力でソ連戦車軍団の強化を図ってます
とはいえ当初の100ミリ砲は西側の90ミリ砲なみの威力しかないので迷うことなく大口径化を推進
遠慮なく強化に走りました

その結果がこの世界での第二次世界大戦でのIS-3の大群
とはいえ同時期のIS-7は重すぎたことから全面的に再設計を指示
そこへ、日本列島にあいつらがいると知って遠慮なく欲しいものを要望しました
設計技師がガスタービン機関を本命視してたことから微妙な出力だったエンジンをT-34同様の手法で強化した上で搭載しさらにターボをつけて機動性を確保(同様の手法で10気筒エンジンを1090馬力まで引き上げた例もある)
大口径なことと多少は砲命数が減ってもいいとして原型砲の初速が秒速1030メートルだったのを1100メートルまで拡大した上で遠距離砲戦など砂漠以外では起こらないと割り切りAPDSと劣化ウラン弾を採用
砲弾数は砲塔後部ラック採用で増強という手を打ちました
自動装填なんて冒険をせずに装填補助のための半自動化にとどめてもおります
結果、機動性は主力戦車レベルなれども運用するには少しだけ大きな防衛用あるいは戦線突破用戦車が出来上がりました

たぶんこのあと、ソ連はあまり自重せず出してくると思います
そしてこれを見たアメリカが思い切り迷走して作ったのがT58「タンクキラー」だった、ということになりますな

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最終更新:2025年06月12日 20:52