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「関東及び九州の置き土産の始末は急務」
- 戦後まもなく出された、運輸省・建設省・国土庁らの連名での上申書の一文より。
「当時最新鋭だった金属検知器が大量に持ち込まれて、命がけの後始末が行われました。
ですが、誰も最初は踏み入れるのに躊躇しました。
なぜかって?検知器の性能が高くなかったからではなく、そこら中から反応があって、入れなかったのですよ」
- 本土決戦の後始末に参加した元軍人の証言。どこに何があるか全くわからない危険地帯が本土決戦で生じてしまっていた。
「鷲の置き土産だと、
アメリカが悪しきように呼ばれていますが、実際はお互い様でした。
ですが、我々の心情からすれば、こんなことをする羽目になったのはアメリカが攻め込んできたからだという意見が優勢だったのです。
そうでなければ、自国の土地や海に機雷や地雷など進んで設置したくはありません」
- 同上。言いがかりに近いが、実際アメリカが難癖をつけて攻め込んでいたのは傍目にも明らかであった。
「白頭鷲は勇気の象徴だなんてアメリカは言っているのは戦後に知りました。
ですが、我々からすれば、その鷲が舞い降りた場所に糞にも劣る何かを残されちゃたまりません」
- 同上。正義を得た時にこそ、人は枷を外してしまうのだった。
「当時、米国が九州の激戦区跡地の後始末に日系人や捕虜にした日本人を従事させたという噂がありました。
実際、九州から捕虜返還で戻ってきた兵士達がそのように証言してるのです。
アメリカはその事実を未だに認めていませんが……」
- とある政府高官の証言。捕虜虐待などに明確に当たるそれを、米国は組織的に実行していた。
「ここに限った話ではありませんが、未だに不発弾や砲弾などが発見されています。
戦後まもなく掃海による機雷や爆弾の撤去、あるいは探知機による地雷や砲弾や不発弾の捜索が開始されて、今もなお続いています。
それでもなお、事故や事件が起こり、怪我人も出ている。戦争は終わっていないのですよ」
「人の手がほとんど入らない、自然のあるがままの姿があると評価はされています。
正確には、人が戦争の時に見境なく破壊した後、危険で人の手がほとんど入れられないというべきですね」
- 九十九里浜にある砂浜の管理者の言葉。戦後になってもなお機雷や不発弾や地雷の危険性から、激戦区跡への立ち入りは制限されていた。
「潜ったり、底引き網をすると、海底に色々と沈んでいるのが見つかります。
形がわかるものならいいですが、何か分からないものは絶対に近づかず、触らないというのが鉄則ですね。
迂闊に近づいてドカン!となったら、洒落になりませんから」
- 相模湾で活動する漁師の証言。砲弾などが網にかかるのも珍しくはないとのこと。
「もっと多かったころだと、金属探知機が必須でしたね。
引き揚げたものが安全かどうかは、まずそれで調べるしかなかった。
そうでなければ、木造船を使う漁師もいましたね。危なっかしいですが、命には代えられないので……」
- 同上。機雷や磁気信管の砲弾などを回避するためにも、高価な機器類か木造船の調達が強いられた。
51:弥次郎:2025/03/24(月) 22:03:56 HOST:softbank126075110124.bbtec.net
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ヒトラーの忘れものという映画を思い出したので…
最終更新:2025年06月12日 21:51