547:新人艦長:2025/03/28(金) 19:00:39 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
川崎-リパブリック
五一式戦闘機 稲妻
全長:20.1m
全高:6.01m
全幅:10.65m
翼面積:36.26平方メートル
エンジン:P&W J75 IHI-2 アフターバーナー付きジェットエンジン(110.2KN)×1
最高速度:マッハ2.1
戦闘行動半径:1300キロ(増槽装備時)
フェリー時航続距離:3600キロ
実用上昇限度:15000メートル
上昇率:195m/s
固定武装:五〇式20ミリ6連装回転式航空機関砲(最大1050発)
爆装:最大7トン
ミサイル
以下から合計最大七発
四七式空対空誘導弾(サイドワインダー)
五三式空対空誘導弾(スパロー)
五五式対地誘導弾(ブルパップ)
六〇式対地誘導弾(ウォールアイ)
六〇式対電探誘導弾(シュライク)
など
アビオニクス
四九式電探
五〇式射撃管制装置
五〇式電波航法装置
(前史)
1945年、日本陸海軍の航空技術者と航空畑の人間は絶望のどん底にいた。
この年、第二次世界大戦は終わりを迎え世界はほんの少しだけ平和な時代が訪れる。
しかし軍人の彼らにとっては平和とは次の戦争までの準備期間に過ぎない。
彼らは次の戦闘機の開発を粛々と進めていた。
既に「次はジェット機」というのは全員の共通認識だった。
エンジンやジェット機開発のノウハウは
アメリカ経由で色々と入手して既に橘花と火龍を開発してジェット機の生産配備に関するノウハウは得ていた。
しかし、この年新規のアメリカ軍の大陸派遣部隊が新型ジェット戦闘機を配備していると聞いた関係者が途中で日本に立ち寄ると聞いて視察に行き、そして絶望して帰ってきた。
そこにいたのは史実F-86セイバーだった。
圧倒的に洗練された見た目、担当将校によって説明された圧倒的なスペック。
しかもアメリカ側は気前よく技術資料を渡してくれた。
その技術資料を読み、エンジニアは絶望し、軍人もパイロットも整備士も圧倒的なスペックに絶望した。
「セイバーに対抗不能」
一言そう書かれた報告書が全てを物語っていた。
あまりにも圧倒的な性能差はセイバーのライセンス生産という恥も外聞も投げ捨てた陸海軍合同の計画に現れた。
四七式戦闘機光電(1946年を以て紀元から西暦に変更された)としてライセンス生産と正式配備(米国輸入機とライセンス生産機を合わせて大量配備)しジェット化を進める一方で、陸海軍は強かだった。
中島、三菱、川崎、川西、九州飛行機、愛知、空技廠、石川島播磨にライセンス生産を行わせて全社にジェット機の開発生産ノウハウを蓄積させた。
そしてさらに各社にアメリカの各飛行機メーカーと提携を結ばせた。
中島はロッキード、三菱はノースロップ、川崎はリパブリック、川西はボーイング、九州飛行機はコンベア、愛知はノースアメリカン、空技廠はダグラスと提携した。
548:新人艦長:2025/03/28(金) 19:01:14 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
(仮称五〇式試作戦闘機)
F-86が光電として採用されたのと同じ頃、既に日本陸海軍は後継機の選定を開始した。
既にアメリカではセイバー後継機達が初飛行していると聞いていたからだ。
史実センチュリーシリーズ群の大半はノースロップが作ったXF-103(史実ではリパブリック社のだがこちらではノースロップに与えられた)の前に無惨に敗北していた。
結果配備されたのは最初の超音速機だったF-100(初飛行1945年)、F-104(ロッキードとノースロップが激しく争った)のみという悲惨な結果になった。
ではこれらを撃破したXF-103改めF-103はどのような機体かといえば史実ミラージュⅢである。
ミラージュⅢをベースに主翼をダブルデルタ翼にし、エアインテークがF-4のようになったミラージュⅢというような機体(エンジンの関係で速度はマッハ2が限界)だった。
そしてこれは仮称五〇式試作戦闘機の選定にも影響した。
即ち四七式に続いて五〇式も外国機でいい派と最低限半国産機でジェット戦闘機の開発経験を得るべき派に分かれてしまった。
前者はF-103を熱心にプッシュしたが、勝ったのは後者だった。
理由はここでせめて半国産の経験を得れなければ永遠に米国のお下がりを買い続ける可能性が高いと考えたからである。
何のために各メーカーにジェット戦闘機製造経験を積ませたのか、何のためにアメリカのメーカーと手を組ませたのか。
かくして日本側の意思は決定し、仮称五〇戦闘機の要項が各メーカーに送られた。
要目は以下の通りである。
- 超音速機であること
- 固定武装を有すること
- ミサイルを運用可能であること
- 長い航続距離(最低フェリーで2500キロ)
- レーダーを有して全天候作戦能力があること
- 高いドッグファイト性能を持つ
仮称五〇式は迎撃機であったが、日本の国情を考えて長い航続距離を求めていた。
日本陸海軍は展開範囲が北は樺太南は赤道を越えてミクロネシアと幅が広く、数千キロ飛行場がないという地域もあった。
そのため長距離移動ができる機体を求めた。
各メーカーはセンチュリーシリーズをベースとした改良型案を提出し、採用されたのは川崎-リパブリック案であった。
川崎案が採用されたのは
- 三菱案はほぼF-103で無尾翼機に慣れてないという不安とF-103自体が航続距離が短い
- 中島案はスターファイアと同じであまりにも速度が遅かった(航続距離は申し分ない)
- 九州案はデルタダートで無尾翼機になれてない不安とデルタダートの原型のF-102が超音速機ではなかった不安、そして何よりシステムがアメリカの防空システムに組み込み前提であったこと
- 川西と空技廠はそもそも参加してない
からであった。
仮称五〇式は陸軍航空隊が空軍に発展的解消を遂げても粛々と開発が継続された。
リパブリック社はF-105開発陣と技術資料一式を全て川崎に貸し与えた。
彼らは神戸の外国人居留地の一角の屋敷を借りて設計した。
その中でXF-105から徹底的に改良された。
半国産とはいえ初めての自主開発超音速機ジェット機の開発生産は遅れ、1949年初飛行、1951年正式採用となった。
549:新人艦長:2025/03/28(金) 19:01:56 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
設計
基本設計はXF-105のままであったが、異なった点の多くはリパブリック社が米軍向けではできない新機軸を可能な限り投じた点であった。
(胴体)
胴体は大幅に設計変更されている。
エリアルールに基づくくびれた設計や新型の扁平な形状のノーズとその中に新型レーダーを格納している。
扁平なノズルとレーダーの横にこの機と一緒に採用された五〇式機関砲があり、それに続いてキャノピーと背中のやや膨らんだ胴体に続く。
コックピット直後にエンジンのエアインテークが設けられそのエアインテークから生えるようにLERXが取り付けられている。
翼平面形は史実のものにLERXが生えたものであるが後述する。
その後ろに斜め下向きに生えた全遊動式の水平尾翼があり、垂直尾翼も半遊動式である。
(エンジン)
エンジンは強力なJ75が使用されている。
J75は川崎と石川島播磨でライセンス生産が実施された。
主翼の根本付近に箱型のスプリッターベーンと史実F-15のエアインテークを横向きにしたような複雑な構造を取り入れて常に最適な空気流入量を確保している。
このおかげで速度性能機動性能は高かった。
さらに研究によってエグゾーストノズルを延長したことでミサイルに対する防御力が向上している。
(主翼)
主翼にはドッグトゥース追加し、さらに実用機としては初めてボルテックスジェネレーターを導入した結果、失速角が大きく高い低速機動性能を得ている。
そのため単発機としては大きめのジェット戦闘機ながら機動力はF-86相当のものを得てパイロットからは高評価だった。
さらに原型機では機体後部にあったエアブレーキが主翼に移されている。
翼下にはパイロンが二つ、胴体下に一つがあり、増槽とミサイルと爆弾を搭載可能な他、翼端にもミサイル用のレールが取り付けられている。
(武装)
武装は全てこの機の導入に際して正式採用された米国製ミサイルと機関砲である。
最大の特徴は最大7000キロの爆装である。
外部懸吊だけでなく胴体内の爆弾倉にも格納可能で一部をミサイルと交換することで爆装と空戦の両立が可能だった。
さらに後には六〇式対艦誘導弾などの対艦誘導弾運用能力を得ている。
(アビオニクス)
アビオニクスもこの機の導入に際してアメリカから輸入したものを採用している。
当初は全面的にアメリカ製であったが、次第に日本製部品が増し、最終的には国産改良型に更新されている。
(運用)
1951年に採用後、1965年までに合計約2000機が生産されたが、初めての超音速機やその他最新技術を大量に導入したためトラブルが頻発、一時期は不慣れなパイロットによる事故が続発した事から欠陥機と罵られる事態となった。
後に「稲妻騒動」と言われる一連の騒動と改良と訓練の改善などが進んだことで次第に優秀な戦闘機としての地位を確立。
軍全体に超音速機の運用経験を与えた。
初の実戦は1950年代には東京急行相手の要撃に出撃しているが、本格的なものはビルマ戦争である。
ビルマ戦争では派遣日本空軍部隊の主力機として活躍。
対地攻撃などで活躍した他、対レーダー網破壊任務にも出撃している。
ビルマ戦争全体では約49機が撃墜されているが、事故による墜落数は通算で323機にも登る。
50年代半ばにはさらに専門の要撃機として五五式、60年代になると相次いで六三式(F-4)、六五式が採用されたため、戦闘機よりも戦闘爆撃機としての性格が強くなり主に福建や朝鮮、台湾に配備された。
またビルマでもやや旧式化していたがそれでも中国軍相手には十分すぎる性能から機体寿命が尽きるまで酷使された機体も多かった。
1970年代に七四式(F-15)の導入開始により段階的に退役が開始、1976年に全機退役した。
(派生型)
一型:基本形式
二型:タンデム複座にして後席にレーダー迎撃士官を乗せた全天候戦闘機型
三型:タンデム複座練習機
四型:防空網破壊任務用機
550:新人艦長:2025/03/28(金) 19:03:26 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
以上
セイバーが5年早く登場した結果絶望した日本が色々あって作ったF-105
性能的にはマルチロール機寄りだけど貧乏気味な日本にとってはむしろアリという
そしてビルマ戦争では大活躍
551:新人艦長:2025/03/28(金) 19:08:06 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
おそらく稲妻が基地にしていたタイなどの飛行場には寿命が尽きて部品取りに使われた骸が大量に放置されてた(地元のスクラップ業者に売却)
最終更新:2025年06月12日 22:08