780:新人艦長:2025/03/30(日) 21:00:04 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
愛知-ノースアメリカン 七〇式重爆撃機 飛龍
全長:59.2m
全幅:35.4m
全高:9.34m
航続距離:12000キロ以上
最大運用高度:24000m以上
最高速度:マッハ3.2
エンジン:ゼネラル・エレクトリック GE6 ターボラムジェットエンジン(推力270KN アフターバーナー使用時380KN)×4
積載量:最大爆装35t
乗員数:4名
総生産数:98機
(開発-仮称超高速爆撃機)
七〇式重爆撃飛龍(以下飛龍)の開発の始まりは1955年まで遡る。
この年、日本は初の空中投下型核爆弾の実験に成功、核兵器を実際に運用する事が可能になった。
そしてその運用母機には主力である五〇式と新開発五五式の二機種が当てられた。
そしてこの五五式の後継となる機体として仮称超高速爆撃機として研究が始まったのが飛龍になる。
飛龍の初期案は極めて野心的だった
「最高速度マッハ3以上、航続距離1万キロ、上昇限度25000m」
端的に言えば「より速く、より遠く、より高く」飛べる機体である。
当時のあらゆるミサイル、戦闘機では迎撃不能な高度と速度で飛行し、帰還できる爆撃機である。
値段?核爆弾に比べれば何でも安い。
そしてこれを作れるのならば念願の「
アメリカ越え」ができる。
無論これを独力でできるとは一切思っていない。
この要目を各メーカー、そしてそこ経由でアメリカの各メーカーに送付した。
そしてあまりにも厳しい要求に早々に九州飛行機が脱落した。
理由は九州飛行機は五五式の改良で忙しいから。
最終的にはノースアメリカン社案をベースにした愛知案だけが残った。
この案が選定されたのは1958年のことである。
(開発-愛知航空機成田工場)
さて、1958年に愛知案が選定されたが、あまりにも新機軸を投入しすぎたことから初飛行予定はなんと10年後であった。
まずこの飛行機を作るためには日本国内の複合素材、チタンの加工工場に投資しなければならず、さらに巨大な工場と滑走路が不可欠であった。
推定で離着陸には2500は最低でも必要だった。
幸いにも飛行場と工場では当時、完成したばかりの成田飛行場を使えそうであった。
成田飛行場は1944年、新たに採用された三式重爆を関東で運用する飛行場として御料牧場などを移転させて建設した世界最大の飛行場である。
当時の時点で4000m×2、2500m×2、3600m×1の巨大滑走路があったがその隣接地に愛知の巨大工場と空技廠、陸海軍の航空技術研究所が建設された。
後に東大やその他民間航空の研究施設も移転し最終的に1947年にJAXAの成田航空研究所と帝国軍統合航空技術研究所になる。
さて、愛知は飛龍のために超巨大工場を建設した。
それは当時日本最大の工場であり、航空機用としても世界最大であった。
ただ初号機完成まで約8年間この工場では愛知の既存機製造か試作パーツの製造ばかりしていたためフルに活かすことは少なかった。
当時アメリカでも最新であったチタン加工と複合材研究の技術が大量に導入、東レなどがのちに飛躍するきっかけとなるが、それまでこの工場ではとにかく実用的な品質と製造量を確保できる製造法の試行錯誤が続いた。
これらはなんとか1968年の初号機ロールアウトに間に合うことになった。
781:新人艦長:2025/03/30(日) 21:00:46 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
設計
設計の特徴として超音速巡行飛行に最適化された設計が施されている。
機体全体に高価なチタン合金が多用され、高速飛行の高温に耐えれるようになっている。
その結果XB-70がベースではあるが機体設計は完全新規となっている。
(胴体)
XB-70と飛龍最大の違いが胴体である。
XB-70では極めて耐久性が低く機動力に制限があったが、飛龍では強度が極めて強化されている。
機体全面にチタン、複合素材、ステンレス系合金などを組み合わせたハニカム構造を採用、これにより強度と耐熱性能を両立しているが、一方でマッハ2.5以上での機動はやはり制限があった。
チタンと複合素材は大量に使用され、当時ではどちらもSR-71に次ぐ使用率であった。
この飛行機を作るために日本での複合素材とチタンの製造能力強化が行われたほどであった。
機首はXB-70ではやや凹んだ形式であったが飛龍では単純にまっすぐな形状となっている代わりに上下動するようになっている。
これは離着陸時と地上での下方視界確保のためである。
コックピットの後ろには大型のカナードが設置されている。
カナードは機動性強化の他に着陸時のエアブレーキとしても使えるように設計されている。
胴体はブレンデッドウィングボディを意図して設計が改変され、滑らかな流線型で翼に接続している。
胴体中央部から後部は爆弾倉となっており、最大35トンを搭載可能で、追加で胴体外と翼にパイロンを設置可能だったが、取り付けが面倒なのと取り付け時には最高速度がマッハ2.5が限界のため取り付けられることはほぼなかった。
胴体はエリアルール理論に基づいて設計されているがXB-70よりやや大きく太くなっている。
これにより爆弾倉を確保している。
乗員の脱出装置は最大マッハ3飛行状態での脱出を考慮してモジュール式になっている。
(主翼)
超音速で飛行する以上、翼は命である。
翼は元々のXB-70のデルタ翼をベースにオージー翼に変更され効率を向上、空気抵抗も減らされている。
翼端は特徴的な下向きに折れる機能が付いている。
これにより、コンプレッション・リフト理論に基づき超高速飛行が可能だった。
主翼下には強力な四つのターボラムジェットエンジンが搭載されている。
水平尾翼のない無尾翼機で、主翼から垂直尾翼画二つ生えている。
さらに超音速飛行に伴う揚力の変化や水平尾翼のないことによる安定性不足はカナード翼で補っている。
(エンジン)
この機最大の新機軸にして現状唯一のターボラムジェット搭載実用機である。
1955年から10年がかりでゼネラル・エレクトリック社が研究開発を行い完成させたGE6 ターボラムジェットエンジンを4発搭載。
マッハ3でも効率良くエンジンのパワーを発揮できる。
さらにアフターバーナーを搭載している。
エアインテークは楔形のなっており、そこからターボラムジェットエンジンに空気を取り入れる。
(武装)
武装は最大35トンの爆装などである。
通常爆弾、その他誘導弾、巡航ミサイル、対艦ミサイル、そして多数の核爆弾を搭載可能である。
有事に大陸では大量の核爆弾を投下し、核の壁を作ることも考えたほど大量の核爆弾を搭載可能だった。
ある程度汎用的に使える爆弾倉のおかげで飛龍は2025年現在2025年現在でも優秀な爆撃機として運用されている。
782:新人艦長:2025/03/30(日) 21:01:16 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
(運用)
1968年に初飛行後、2年かけて試験と改良が繰り返されたのち七〇式として正式採用された。
飛龍は運用当初はまさに全てが手探りであった。
誰もマッハ3級の飛行機など飛ばしたことがないのだから、皆恐る恐る飛ばしていた。
その高速ぶりはJAXAでの超高速試験にも使用された。
一方で運用においてある強敵が現れた。
それは予算である。
当時高度経済成長で軍事費も鰻登りでも許された時代であった。
しかし、七〇式はそれを差し引いてもあまりにも高すぎた。
一機あたりの値段が当時の最新鋭駆逐艦狭霧型の半分、単価圧縮で10年で200機製造を狙っても一機当たり狭霧型の1/3というふざけた値段は大蔵省と国防省だけでなく予算の皺寄せが行く海軍と陸軍とも諍いになった。
そしてトドメを刺したのがオイルショックである。
国全体の不景気と経済対策で予算が必要な中、七〇式という極めて高価な買い物は後回しにされた。
結果1975年までの納入数は10機(試作3機含む)であった。
その後1983年まで製造されたが結果総生産数は当初の250機とは程遠い98機であった。
結果愛知は大赤字、成田の工場は三菱に売却されこの機以降飛行機産業から手を引くようになった。
軍に納入された飛龍は各地でまずは核運用戦力として使用された。
その高速性から常時空中待機ではなくパトロールとスクランブルが組み合わせられた。
その後は通常兵器による阻止戦力としても使われるようになり、最も知られるのが1986年のリムパック演習で16機の編隊から対艦ミサイルを一斉連続発射する様子である。
1989年にはICBMに引き継ぎ核戦力から外されて通常兵器による阻止戦力となった。
1991年に勃発したゴビ砂漠戦争では中国軍に対する阻止攻撃だけでなくSAM網を低空高速突破して重慶などを爆撃することに成功している。
90年代にはユーゴ内戦のPKO任務にも派遣された。
現在も日本軍最大の切り札の一つとして運用されている。
783:新人艦長:2025/03/30(日) 21:03:22 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
以上です
史実XB-70がベースだけど全面的に改良したのであんまり原型がない機体
性能的にはB-1より上だけど別にB-1でいいわってなる
そして一応この機体の完成をもって日本の航空産業はアメリカに追いつけた(と日本は思ってる)
そしてお値段の比較対象が駆逐艦になるほどの凶悪お値段
最終更新:2025年06月12日 22:13