825:ひゅうが:2025/03/31(月) 21:31:07 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
———成田国際空港(新東京国際空港)
開港:1955年(1980年第一次大改修、2020年第二次大改修 2022年海空軍成田基地を構内に編入)
敷地面積:5300ha(開港当初2500ha 第一次大改修後3800ha 第二次大改修後5100ha)
ターミナル面積:101万平方メートル(第二次大改修後の統合ターミナル 南ターミナル建設中)
滑走路:7000メートル1本(SSTO着陸用 幅500メートル) 4000メートル4本(それぞれ東西南北対角線上に存在、SSTおよび国際線用 幅350メートル) 3500メートル3本(並行整備、国内線用 幅150メートル)
クラス:カテゴリーⅢc(ゼロ視界における完全自動着陸可能なクラス 日本航空宇宙港および羽田空港 新千歳空港 台湾松山空港などが該当)
搭乗口数:117カ所(国際線57 国内線59 ※バスゲート含む)
年間利用者数:8209万人(2025年現在)
主要就航航空会社(国際線):日本航空 全日本空輸 アエロフロート=ワールド航空 満洲航空 英国海外航空 トランスワールド航空 エールフランス航空 ルフトハンザ航空など多数
【概要】―――日本が持つ極東最大級の空港にして極東におけるハブ空港の役割を持っている
帝都東京からの距離はおよそ60キロメートルにあたるが、成田新幹線および成田リニア新幹線によって都心とも最短10分(新幹線の場合停車時間を含めて20分)程度で結ばれている
(なお最大の空港はサウジアラビアのキング・ファアド国際空港で70000ha、成田は国内最大であるが世界第4位にあたる)
ターミナルビル単体としての面積は世界最大である
【沿革】――成田に新国際空港をという計画が持ち上がったのは意外にも古く1945年の日本本土決戦終了後にあたる
当時東京近郊の民間飛行場は羽田に加えて調布飛行場が存在していたが、将来的には拡張の余地が限られていたことから民間航空輸送用に大型飛行場をという声は大きかった
そこで、本土決戦からの復興計画「第一次全国総合開発計画」では首都圏近郊の新空港の建設が挙げられて適地の検討が行われている
まず候補とされたのが陸軍が運用している立川飛行場であったが、こちらは厚木基地とならんで帝都防衛の要と位置付けられていたことから早々にこれから外れた
続いて考えられたのが海軍の追浜飛行場や霞ケ浦航空隊の使用していた霞ケ浦飛行場だったがこれらのいずれもが拡張の余地が乏しいことから計画はとん挫した
結局は東京港の拡張とあわせての羽田飛行場を整備することとなったのだが、同時に「浦安への新空港建設での移動」か「富里・成田市付近への新空港建設」が計画案に明記されることとなった
これにあわせて内務省(当時)および戦災復興院が現地調査を実施し、1947年、結局は羽田と同様の問題を抱える浦安での新空港建設案を諦めて成田付近での大型空港建設という極秘の答申をまとめることとなった
これは日本本土決戦において戦場化が想定されたことから疎開命令が出されていまだに荒廃した故郷へ帰郷している人々が少なかったことや、宮内省(当時)から御料牧場の広大な敷地を提供される目途がたったことによることも大きかったという
これを受けて、日本政府および戦災復興院は当時としては画期的な原則を打ち出した
計画発表前に官庁から専門の担当者を派遣して地元への根回しを始めたのである
この担当者に任じられたのは、軍の縮小や新憲法の発布にあわせて軍への所属義務がなくなった皇族方であった
さらには担当の課長クラスから局長クラスまでが内々に一升瓶を持って地元有力者を訪ね、彼らの声掛けで大規模な説明会を行うことまでもが行われた
これは本土決戦の九州戦線において、強制疎開命令という強硬手段をとったにも関わらず多くの住民を説得しきれずに地元に50万名以上が残留したことで国民を地上戦に巻き込んでしまった反省からとられた措置だった
826:ひゅうが:2025/03/31(月) 21:31:52 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
すなわち、地元民の納得と同意がなければ、いかに強権をふるっても事態を悪化させるだけである、というものだった
同時に、「飴」も用意された
個別の移転への財政面での優遇措置はもちろんのこと、時には集落丸ごとを新規開拓地へ移転させてインフラの優先整備を行うなど地域社会の繋がりを維持したままでの移転措置を提示したのであった
終戦と同時に自らの存在意義を問われていた世襲宮家などの皇族方は特に若い世代が中心となって嬉々としてこの「仕事」に参加
ことに高松宮殿下の精励ぶりはすさまじく、1日に3つの集落を訪ねて膝詰めで住民たちと「話し合う」ことを大きな喜びとしていたという
さらには巨大官庁たる内務省が分割されるにあたって芽生え始めていた「地方自治」の意識にも付けこみ、戦災復興院はこちらの面では強権を振るった
成田山新勝寺の門前町を中心として形成されていた成田の町が市への拡大をもくろんでいるのを聞きつけて新たに富里や芝山などの周辺町村もこの範囲に組み込んだのである
さらに空港建設に伴う巨額の財政支援もセットとされていた
当時だけはできた強大な権限をもって戦災復興院はこれを強行した
予定されていた空港の中心部は前述したような成田御料牧場の敷地を東端とした、「成田と富里にまたがる地域」だったからであった
これをひとつの市にまとめてしまえば、少なくとも地縁血縁で現地と結びついた公務員(官吏から名称が変わって久しかった)たちを別々に説得する手間が数分の一に減る
さらには小規模な町村では大きな顔をできた地元有力者や血気盛んな若者たちも大きな市という集団内部ではひとつの意見を通すのに他の地区とも根回しを行わねばならない
こうなれば「よほど対応で下手を打たない限り、穏健な話し合いが期待できる」のである
成田市の誕生はこの手法の最初期の例だった
実に悪辣なやり口と言わざるを得ない
こうなってしまえば気付いたときには過激な意見を持つ少数派は多くが口をつぐまざるを得ないからだ
そこへ、札束をねじこみ懐柔することでとりあえずは合意を形成していく
その際に偉い人が自分たちに頭を下げて頼んできたという自己肯定感を付加することで「しかたがないか」程度の感情にまでもっていこうとしたのである
これに、戦災復興院は成功した
傲慢な役人による土地収用と聞いて身構えた人々の前で、まだまだ強かった昭和天皇の権威をもって「皇室も犠牲を払うし、政府もおろそかに扱わない」と人々の留飲を下げさせたのだ
中には北海道に集団避難していた地区の人々のもとにまで足を運んで協力を求めた例すらある
こうして1948年、千葉県政界からは「大」成田市と皮肉られる合併が実現
翌年には噂を聞きつけた記者たちが「成田に新空港か?」と盛んに書き立てる中で、現地住民代表も招いた「公式の」新空港建設の諮問会議が開催された
ともかくも話だけでも聞いていってほしい、というわけである
むろんこれは住民たちへのスピーカー効果を狙ったもので、懐柔策の一つであったことがのちに明らかとなっている
数次にわけて行われた基本的な確認事項の説明から入った諮問委員たちにとっては「退屈な」会合は予想以上に自分たちもお国の大事に協力どころか参画している、という意識を育てておりさしたる抵抗もなく空港の建設予定地と基本計画の答申は通過していった
827:ひゅうが:2025/03/31(月) 21:33:02 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
同年3月には大野伴睦首相自らが閣議決定前に成田市を訪問して住民と自治体に加えて政府代表も含めた「円卓会議」を主宰することでついに全会一致という異例の合意を勝ち取り、翌日新空港建設計画が閣議決定された
帝都東京復興のためには土地の強制買い上げなどの強権を振るっていた政府のこの態度転換は高度経済成長期のある意味でモデルケースとなり、以後80年代末まで踏襲されるスタイルとなっていく
こうして建設が承認された新空港は、「新東京国際空港」と称されてまずは御料牧場移転から工事を開始
順次村落の移転をもって第1期工事を順調に進めることができた
この頃になると政府への反対を表明できるとして新興の左派系団体が反対運動を展開しようとしたのであるが前述のような周到な合意形成を図った上での工事だったことや、左派の総本山的な立ち位置にあったソ連からの援助も期待できない(こうした運動に対し、特にフルシチョフ政権期のソ連は極めて冷淡だった)ことから戦前の農村大衆党など一部を除けば反対運動は盛り上がらずに7年後の1955年に「新東京国際空港」は開港の時を迎えることとなるのである
そして気付いたときには航空関係者や物流関係者が現地に根付いてしまっていたことから経済的メリットを実感し始めた現地住民たちも消極的なものから積極的な拡大の支持者へと転換されていく
そして、復興の進展や経済発展に伴い2度にわたり周囲への大拡張が行われた(土地の買取自体は60年代終盤までに終了していた)ことから同空港は極東最大のハブ空港としての地位を確立
アジア圏のみならずソ連あらため主権国家連邦や欧州向けの空路、加えて関係の好転した北米大陸向けの発着便が順次増加していき現在にまで至っている
【設備など】――成田空港において特徴的なのはなんといってもその滑走路の長大さである
これは設計当初から超音速旅客機や大重量輸送機による大量空輸時代の到来を見越して余裕をもった設計がなされていたためで、メインターミナルの周囲東西南北方向に四角形の辺のように配置されている
並行して国内線や通常の大型旅客機用の3000メートル級(のち3500メートルに拡張)滑走路が併設された
第一次大改修後は計器着陸能力の向上に加えて、誘導路や駐機スポット、さらには周囲の貨物取扱区画の拡張が実施された
この頃、九十九里浜の東金市に設置されていた日本航空宇宙港の7000メートル級SSTO(宇宙往還機)用滑走路のダイバードや将来的な成田からのスペースプレーン打ち上げも考慮して7000メートル級新滑走路の1本追加が決定
あわせて、海空軍成田基地の機能が空路の混雑から百里と厚木に分散移転されることとなり面積もさらに拡大する
また、国内線用の3500メートル級滑走路1本を潰して駐機スポットを拡大、ターミナルビルの全面新築が行われた
2025年現在、このような超音速機に優しい空港は極東圏では珍しいことから発着回数は増加の一途をたどっており世界的な航空需要増加に伴って新ターミナルの増設が進行中である
また、7000メートル級滑走路の1本新設は最終段階に入っており、九十九里浜沿岸の日本航空宇宙港とあわせた米国からのSSTO「オリエントエクスプレス」の便数増大も含めた発着回数増大に地元市民は大きな期待を寄せているという
828:ひゅうが:2025/03/31(月) 21:34:17 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
825
壁タール→haに修正願います
掲載は自由です
楽しんでいただければ幸いです
最終更新:2025年06月12日 22:15