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  鉄槌世界戦後史ネタ


―――「天の光 前史」


―――ソ連における宇宙開発の歴史は古い
現代の宇宙ロケットを飛行させるのに必要な公式を独学で導き出した天才ツィオルコフスキーが生まれたのは帝政ロシアであったし、1930年代には世界的なブームに乗る形で液体燃料ロケット開発が進行
第2次世界大戦開戦前には当時の世界記録となる液体燃料ロケット打ち上げに成功している
このときから活躍を始めていたのが、のちにソ連宇宙開発の父たちといわれる二人の天才たちである
すなわち、ロケット本体開発の天才セルゲイ・コロリョフと、エンジン開発の天才ヴァレンティン・グルシュコである
(これに種類を問わないエンジン開発の天才クズネツォフを加えることもある)
中央ロケット推進研究所の同僚であった二人は深い友情に結ばれておりのちのソ連のトップであるフルシチョフの有形無形の援助のもとスターリンによる大粛清時代をも乗り切ることができていた(とはいえ技術的ブレイクスルーを達成できずかなり危ういところだったのだが)
転機が訪れたのは第2次世界大戦中も続いていた技術協力のもと、ドイツのロケット迎撃機Me163コメートのライセンスを獲得していたことだった(政治的影響力の強いメッサーシュミット教授と設計者のリピッシュ博士の不仲からドイツは本プロジェクトをソ連に売却していた)
のちにヴァルター機関といわれる過酸化水素とヒドラジン動力のこの戦闘機にインスピレーションを得た二人は、戦闘機としての実用化を図るソ連当局に対して誘導弾の構想を提案する
エンジンの耐久性が低いなら低いなりに使い捨てかつ超長距離攻撃を目標にすればいい、というわけだ
奇しくもその頃、アメリカからの諜報情報(のちにアインシュタイン・シラー書簡として知られる)をもとに始動していた世界初の原爆開発計画がソ連においては進行しており、超高速による迎撃不可能な攻撃能力はスターリンの琴線に触れる
そこまでいうならやってみよう、ということで、モスクワ地下鉄建設で名を上げていたニキータ・フルシチョフを責任者としてソ連の誇る核物理学者クルチャトフ博士を動員した核開発は、ちょうど彼らが計画を提案した1939年10月にスタートしていたのだった
大きな困難を伴った開発は2年を費やして1941年12月に初期の巡航ミサイルとなるGC-1を実戦配備することに成功する
しかしながら最高速度は予定された超音速ではなく毎時900キロ台であり、弾頭重量も1トン程度とさらなる進歩が要求されることとなる
ここで二つ目の転機が訪れる
バトルオブ・ブリテンに敗れたドイツ軍が目減りする石油備蓄に業を煮やしてソ連領奥深くにあったアゼルバイジャンのバクー油田を目指してほぼ無防備だったルーマニア方面から「進撃」を開始したのである
これに大きなショックを受けたスターリンは12日間にもわたってモスクワ郊外のダーチャ(別荘)に引きこもるのだが、よく知られている通りに急遽モスクワへ飛んだ日本の近衛文麿首相と東郷茂徳外相の仲介によって5日程度でバクー油田からの石油供給によって交渉がまとまり、この「ウクライナ進駐未遂事件」は終結する
ドイツ側はこれをそそのかしたヘルマン・ゲーリング空軍国家元帥を更迭し謝罪をすることで決着したのであるがこの事件は彼らのロケット開発に大きな影響を与えることとなった
かねてより提案されていた「弾道ミサイル」の開発にゴーサインが出されたのである
というのも戦闘機型として改良型が開発されていたミグ設計局の機体が、試験運用で「過酸化水素によりテストパイロットが文字通り溶ける」あるいは「整備員がヒドラジン中毒で倒れる」とどめが「視察中の空軍および陸軍砲兵部隊の将官が爆発事故に巻き込まれて複数名死亡する(ミトロファン・ニェジェーリン中将が筆頭)」といった危険な事故が多発していたことからソ連空軍当局は少なくとも有人機について常温保存可能なこれら燃料の組み合わせに見切りをつけていたのだった
「まだ発想が健全だ」と評価されたこの弾道弾計画は、スターリンの肝いりであったことから潤沢な予算を与えられており、またクルチャトフ博士らの核開発が難航していたことに対して比較的順調に進捗していった
1944年、コロリョフとグルシュコは射程距離100キロメートルの弾道弾R-1の開発に成功
これによって彼らの栄達は保証される――はずだった
だが、ここで彼らにとっても誤算が起こる
のちに核開発で必須となる爆縮を精密計算するためのZND理論は提唱されていたものの、計算能力が圧倒的に不足していたのである

300:ひゅうが:2025/04/05(土) 21:41:21 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
これを用いない場合、特に量産可能なプルトニウム型核弾頭の大きさが極めて巨大化してしまうかもしくは開発不可能となってしまう
毎秒最低でも1000メートル以上の速度でプルトニウム塊を過早爆発防止のため最低でも4分割から8分割して精密にぶつけなければいけない
そのためのガンバレルといわれる砲身型の弾頭は、設計段階では十字架型や放射状をしており全長および直径およそ8メートル
確実な爆発をするためバレル自体も分厚い
重量に至っては設計段階ですら12トン以上
実用段階では20トン近くになる
一方のR-1は弾頭重量約500キログラム
とてもではないが弾道弾に搭載できるだけ小型化できていなかったのだ
このため、彼らは弾道弾の大型化の傍らで、クズネツォフらの下での大型爆撃機用エンジン開発に一時従事する羽目になったのだった

だが、幸か不幸か彼らはツイていた
1945年9月、日本本土決戦後の大日本帝国から計算機理論の概要が流出
同時に、プルトニウム型を諦めた上で遠心分離機を用いたウラニウム濃縮の開発の目途がたったのだ(こちらは東京帝国大学の仁科博士が考えていたものだった)
だがこれでも試算された重量はおよそ5トンあまり
しかし直径面では弾道弾におさまる目途がたったこともあり、1年以上の中断から弾道弾の開発は再開された
その後の歴史はよく知られている通りである
1946年、スターリン暗殺事件に端を発した政変を経てソ連は第2次世界大戦に参戦
ここで二人は得難い才能を得ることになる
ドイツ本土でアメリカに届く規模の弾道弾開発を行っていたヴェルナー・フォン・ブラウン(親衛隊と陸軍、そして空軍の間の主導権争いに巻き込まれて早期の実用化を断念していた)と彼の開発チームがソ連に連行されてきたのだ
三人は短期間のうちに意気投合する
というのもこの三名、弾道弾の開発名目で人類を宇宙へ送り出しできることなら自らも宇宙探検を行う気満々だったのだ
そして彼は、ともかくプロジェクトマネジメントだけでなく政治家や国民向けの宣伝がうまかった
1947年、フォン・ブラウンを引き連れた二人はクレムリンにおいて当時はまだ三頭政治を行っていたフルシチョフ、マレンコフ、ミコヤン相手に弾道弾のプレゼンテーションを実施
大成功をおさめる
ドイツ人開発チームを加えた彼らはこのときまでに重量1トンの弾道弾を1000キロの彼方にまで飛ばすことに成功していた
だが特にフルシチョフが賛意を示したのは、宇宙を征服する、あるいは月へ人類を立たせるという大言壮語だった
「この『ミサイル』は確かに有用だろう。だが、最も価値があるのはこれが宇宙大航海時代の直前における丸木舟になることだ。君たちにはこの丸木舟をせめて帆船なみにしてもらいたい。それもあと20年以内に」
フルシチョフは付け加えた
「君たちは兵器としての有用性をアピールするがこの――大洋間弾道ミサイルは将来的に燃料注入の手間がある限り固体燃料には勝てん
だが性能はこちらが上だそうじゃないか。なら見せ札にするには勿体ない
どうせなら有意義に使うべきではないかね?」
茶目っ気たっぷりにウィンクするフルシチョフに、逆に魅了されてしまったと異口同音に三人は書いている
反対意見は、なかった
以後、フルシチョフは三人と並ぶ宇宙計画の熱心な支持者として生涯を過ごすことになる

301:ひゅうが:2025/04/05(土) 21:42:04 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
1950年、潤沢な資金をもとにテストによるエンジン爆発を繰り返したグルシュコは、ついにケロシン(灯油)を燃料として液体酸素を酸化剤とする大型ロケットエンジンの開発に成功(技術的に未熟で複数エンジンを同期させるのが難しく大型ノズルが作れないなら、燃料ポンプを共有した4つのノズルをもつ「一つのエンジン」にしてしまえというさりげないフルシチョフのアドバイスが効いた)
コロリョフは多段式ロケットならば弾頭部を切り離せばいいだろうと割り切った上で機体を軽量化しつつ大型化し、命中精度がそれほど高くない時期の弾道弾に大威力核弾頭(実態は十数トン級の宇宙船)を搭載する道筋をつけた
フォン・ブラウンはそのルックスと語り口を活かして、ソ連映画界の協力を得た科学映画やSF映画の製作に協力
ドイツから師匠であるヘルマン・オーベルトを呼び寄せて彼が1930年代に制作した映画「月世界の女」のリメイクを計画した
彼には切り札があった
新たに同盟関係を結んだ日本へ向かい、2人の男にアポイントメントをとったのだ
本多猪四郎、そして円谷英二
当時、脂の乗り切った映画マンたちである
彼と、宣伝映画ということで協力を一度は拒否しつつもしばらくすると我慢しきれなくなって合流した岡本喜八らは、戦前戦中にかけて見事な戦争映画、特に特撮映画(南洋燃ゆ 九州の涙 関東決戦 の本土決戦三部作)を作った実績もちだった
彼らを前にフォン・ブラウンは通訳が4交代するくらいの熱弁をふるってソ連やその友好国の人々に宇宙開発の必要性をアピールする映画を撮りたいと依頼したのである
単に呆れたのか説得に根負けしたのかは分からないがこれを2人、のちには3人は承諾
当時としては異例なことに脚本にはほぼ制約を受けずにフォン・ブラウンをナビゲーターとして(これはわりとすぐに決まった)宇宙の旅についての映画がつくられることが決まったのであった
さっそく統制に乗り出そうとするソ連文化省が一喝される一幕もあったものの、戦後すぐの日本映画界にとっては潤沢すぎるほどの予算が投じられた結果、半分はのちの科学番組で残り半分は実際の宇宙の旅を描いたイメージドラマで構成された「1970年宇宙の旅」は当初の予定の4倍近い量となってしまった
結局は国営放送によるテレビジョン放送と、総天然色(カラー)での映画版の2通りがソ連やその友好国(日本含む)で放送されることになったが、これが大いに受けた
完成した1951年当時、テレビジョン放送は前年に開始されたばかりで、日本やソ連国内でも電子式テレビジョンは白黒のもののみ
大変高価であったのだが、街中には目新しい娯楽として「公衆テレビジョン」が設置されて人々は食い入るようにこれを見ている時代だった
大衆の娯楽の王の座を担っていたのは映画であり、それもソ連政府がいくらか補助金を出したがために通常の3分の1程度の料金で美しい総天然色映像が見られたのである
要は、ただでコマーシャルをやったようなものだった
日ソでは再放送をあわせて4回も行われた全3回の特番放送は多くの人々を劇場へいざない、そして彼ら彼女らに夢を見せたのだった
国籍をあえて曖昧にした造りであったがゆえにアメリカにも輸出されディズニーが若干ながら加工して放映したあたりマーケティングは完璧だった
人々は一夜にして、地味に始まるはずだった5年後の国際地球観測年に期待を寄せ始めたのである
この民衆の動きに、就任したばかりのアイゼンハワー政権は即座に反応する
その末尾に映っていたものが映っていたものだったからだった

スプートニクロケット
またの名を、R-7大洋間弾道ミサイル
最大射程距離9000キロ以上、搭載弾頭重量8トン
その映像は、どう見ても実写だった

そして1951年10月4日、それは起きた

映画の公開からわずか1か月後、天空に輝く白い光はどう見ても人工物だった
ソ連、人工衛星スプートニク1号、軌道投入に成功

かくて人類は新たなる時代に突入する
歴史はこれを「『第一次』宇宙開発競争」と呼んでいる

302:ひゅうが:2025/04/05(土) 21:42:39 HOST:flh2-133-204-83-129.osk.mesh.ad.jp
以上になります
フォン・ブラウン「人類よ、宇宙を目指せ!」

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最終更新:2025年06月13日 21:51