445:弥次郎:2025/04/07(月) 23:05:04 HOST:softbank126075110124.bbtec.net
鉄槌戦後世界支援ネタSS「文明の箱舟」
昭和19年に戦線が布告された日米戦争は、世界第三位の威容を誇っていた帝国海軍が周到な罠により緒戦で大打撃を負うという開幕であった。
戦争とはそれまでに行った行動の結果とは言うものの、それは正にしてやられたというほかない大惨事であった。
対米戦争に対し、本来は海軍による漸減作戦と艦隊決戦による勝利という、国力差を何とかするプランを練っていただけに、梯子が見事に外されたのだ。
そして、それでも戦争は続く。海軍という矛であり盾を失った帝国に対し、
アメリカは海上を自由に動き行動できるというアドバンテージを得ているのだ。
ここが終わりというわけではなく、ここが始まりにすぎず、本当の受難はここからであったのは明白。
この国難に際して成立した最高意思決定機関「戦争指導委員会」は本土決戦による徹底抗戦を選択した。
安易に降伏などした場合、講和の際にどのような無理難題などを吹っかけてくるかはわかったものではない。
相手は世界の敵であるナチスドイツの同類だと非難しているので、余計に過激なことをしてくるのは確実だ。
しかし、ここにおいて戦争指導委員会の選択と決定に物言いがついた。
国難であるというのはわかった。負けられない状況であるから非情な手段も決断も仕方がないであろう。
かといって、戦いの後のことをまるで考えないというのはどうか?というわけである。
これは単に文化保存という意味合いだけではなく、本土決戦において文化風習などが残ることによる手枷足枷を嫌ったという意味もあった。
九州の要塞化というからには、民家だろうが史跡だろうが名勝だろうが何だろうが利用することになる。
とはいえ、戦場にするための土地に余計なものが残り続けていると、特に文化的な価値のあるものが残ってしまうと、躊躇いが生まれる。
如何に理由があるとはいえ、遠慮会釈なくそれらを壊し、利用し、戦争に使えるかという心情が存在したのだ。
何らかの形で逃がす、あるいは形を変えて記録として後世に残す。以て後顧の憂いを無くして選択肢を増やす。
更には、こうした文化・遺産・文明の証を後方に逃がすための時間稼ぎという大義を持たせ、士気向上に役立てるという副次効果も見込まれた。
このような意見が戦争指導委員会によって拾われ、採用されることとなり、帝国議会に法案として通され、付随する予算案なども通過した。
戦時における特例法としての名前は「帝国文化保存法」---耶蘇の書から名を借りた「箱舟」計画とも称されたこれは、直ちに実行に移される運びとなった。
この箱舟計画の具体的な内容は大きく3つに分けられる。
1つ、文化・文明の遺産の選定・回収・記録。
2つ、上記の完了したものの移動および疎開、それに必要な手段の確保。
3つ、疎開先となる地域に安全な収容・保管施設と防衛設備の建設。
446:弥次郎:2025/04/07(月) 23:05:54 HOST:softbank126075110124.bbtec.net
内容としてはシンプルそのものだ。
可能な限りの品々を集め、記録し、移送し、安全な場所に必要な設備を作って保管する。
真っ先に米軍が押し寄せてくる可能性が高く、本土決戦の舞台となりうる九州から逃がすのが始まる。
避難先は本州や四国方面の後背地、それこそ北海道なども避難先として選ばれるほどに
この輸送には、訓練も兼ねて軍の輸送機や船舶も動員され、あるいは輸送に際しても軍人が積極的に動員されていた。
あるいは民間の船舶も車両も動員され、軍の管轄の元で輸送に従事することになった。当然、民間人も協力している。
いや、協力していないものなどいなかったというレベルであった。まさに総力戦ここにあり、であろう。
輸送先の保管施設に関しても、だいぶ力が入れられることとなった。
ただ保管するだけではない。戦時における保管というからには、あらゆる攻撃を想定しなくてはならない。
空爆・艦砲射撃・野戦砲などを筆頭に本土決戦という場において起こりうるのは文字通りあらゆる攻撃だ。
そんな頑丈な建造物の建造を急ぐとしても時間がかかり、決戦までに間に合わない可能性があるという問題は当たり前のように発生した。
資材や建設費用という問題もあったのだが、どういったものを作るかが定まっていなかったのである。
だが、本来の歴史ならば間に合わないであろうそれを、間に合わせてしまう知識と技術を持っているイレギュラーが存在した。
彼らの動きが密やかに、しかし、確かに働いたことで、半地下・地下要塞の様相を呈した保管施設は日本各地に建造されていった。
本来ならば将来に建造される、空爆や空襲---それも強固な陣地や要塞までも吹き飛ばす地中貫通爆弾などを想定したレベルの要塞であった。
合わせて、攻撃を受けっぱなしになるのを回避するために、ドイツにおいて高射砲塔と呼ばれたそれが再現され、林立することとなる。
本土決戦の舞台となった九州をはじめ各地にも建造され、攻守両方で赫赫たる戦果を挙げ、米軍を苦しめた。
これらの戦闘での活躍についてはまた別の機会に語ることとしよう。
さて、この箱舟計画であるが、結果として多くの品々を守り切ることに成功した。
保管施設に入るものという縛りこそ存在し、被害を0にはできなかったものの、戦火から多くを守り通したのだ。
1980年代になり南九州などが返還された時に多くの物品が無事に帰還することがかなったのもこの計画の成果である。
あるいは、戦火による被害、米国とそこから来た入植者たちによる破壊活動により消失した歴史的建造物なども、この時に採取した記録・資料から復元がなされた。
荒波にもまれることとなったが、箱舟は確かに文明を保存しきったのである。それはまさにノアの箱舟。長い長い時間を経ても守り通したのだ。
最後に、戦後にこの計画の中で得られた巨大建造物建造の知見が生かされる機会に恵まれたことを追記しておこう。
全国総合開発計画に便乗する形で、再建される首都を災害より守るための、巨大地下建造物の建造が計画され、実行された。
即ち、水害による都市中心部の水没を回避するための、水を逃がすための空間---今日において「地下神殿」とも呼ばれる首都圏外郭放水路である。
恐るべきは、これが首都圏だけにとどまることなく、日本各地にも類似の施設が普及したということだろう。
これにより、各地で突発的に発生した災害、特に水害における被害を低減することに成功した。
箱舟から始まった繋がりは今もなお地下で支え続けているのだ。
447:弥次郎:2025/04/07(月) 23:06:28 HOST:softbank126075110124.bbtec.net
以上、wiki転載はご自由に。
原作では割と無慈悲でしたが、これくらいの慈悲はあってもいいのでは…?と思いましたので…
描写がしょぼくなってしまった私の非力を許してくれ…
最終更新:2025年06月13日 21:55