650:新人艦長:2025/04/10(木) 19:31:07 HOST:KD106133118008.au-net.ne.jp
第二次世界大戦欧州戦線終結ネタ
第二次世界大戦終結あるいは故郷への帰還作戦
1945年5月8日、第二次世界大戦は終結した。
ただその終結は予想されていた物でもなかった。
(ポンメルン上陸作戦)
1945年4月9日、米第2水陸両用軍がポンメルン地方、ホルスト、コルベルク、ケスリン間の浜辺に上陸した。
アイスバーグ作戦である。
上陸戦力は以下の通り
- 海兵隊第1水陸両用軍団(第3、第4海兵師団、日本海軍第2陸戦旅団)
- 海兵隊第3水陸両用軍団(第1、第2海兵師団、日本海軍第6陸戦旅団)
- 日本海軍遣欧海軍陸戦隊第2軍団(第5、第6海兵師団、第8陸戦旅団)
当時ポンメルン地方に存在したドイツ軍戦力はごく僅かで大半が訓練部隊か東西どちらかの戦線に移動中の部隊であったため、精鋭の海兵隊の前には敵わずごく僅かな抵抗のみでドイツ軍は崩壊した。
12日にはこの地域の最大都市であるシュテッティンとシュテッティン要塞が第1海兵師団に降伏。
翌日にはノイブランデンブルクで英軍と合流した。
海兵隊は南下しランツベルク・アン・デア・ヴァルテまで進出しオーデル川を渡河して進出していた米第5軍と合流した。
ここに連合軍はベルリンとその周辺部を完全に包囲、B軍集団の主力5個軍を包囲したベルリン・ポケットが完成した。
・第7軍(オープストフェルダー大将)
・第5装甲軍(ハルぺ大将)
・第11軍(ルフト大将)
・第12軍(ヴェンク大将)
・第15軍(ツァンゲン大将)
そしてこのB軍集団の中にはベルリンと総統達がいた。
海兵隊の進出速度の速さにドイツは太刀打ちできず、内閣は避難に失敗しベルリンの中に閉じ込められた。
そしてそのベルリンに南からパットンの第3軍、西からホッジスの第1軍、北からモントゴメリーの英軍が接近し直接攻撃を開始した。
モーデルは第12軍と第11軍に東方への突破を命じ、一方で第5装甲軍と第7軍はベルリン防衛の任に当てた。
ベルリンポケット内にはドイツ軍の戦車師団が以下存在した。
- 第2戦車師団
- 第11戦車師団
- 第21戦車師団
- 第116戦車師団
- 戦車教導師団
- 戦車師団“ミュンヒェベルク”
- 戦車師団“クラウゼヴィッツ”
- 戦車師団“ブランデンブルク”
ただこの8個戦車師団他に独立部隊や訓練部隊にデポの車両をかき集めてもドイツ軍には戦車・突撃砲・自走砲は500両あまりしかなく、燃料はさらに少なく、満足に動くことができたのは300両程度、さらにその300両も日々の戦闘と連合軍の空襲と燃料不足と故障で次々減ることが予想された。
そこでモーデルは思い切った策に出た。
モーデルは戦車の大半を二つに分けた。
それはベルリン防衛部隊と東方への突破部隊。
ヴェンクとルフトの元には約200両の戦車が、そしてベルリンを防衛するモーデル自身の手元には約200両の戦車を用意した。
ヴェンクとルフトの任務は死に物狂いでフランクフルトへ突進、抵抗するフランクフルト要塞からオーデル川を渡河してシェルナー元帥の東部戦線中央軍集団に合流する道を開くこと。
そしてモーデルとその部下の任務はその間ベルリンを死守すること。
そしてルフトとヴェンクはフランクフルトまでの道を開き、ヒトラー以外の政府幹部が移動した頃、ベルリンとモーデルと第5装甲軍と第7軍はベルリンで包囲された。
651:新人艦長:2025/04/10(木) 19:32:11 HOST:KD106133118008.au-net.ne.jp
(フランクフルト・アン・デア・オーダーの戦い)
一方、他の3個軍はフランクフルト付近で包囲された。
しかし、この包囲された3個軍の実兵力は実にお寒い物だった。
兵士は3個軍に国民突撃隊、敗残兵を狩り集めてもたった10万。各軍は僅か3万と少ししかないのである。
戦車は消耗し、戦車、駆逐戦車、突撃砲、対戦車自走砲合わせて約90両しか存在しなかった。
さらに各種大砲が約250門存在したが半分がフランクフルト要塞を守る要塞砲と各種高射砲で陣地に据えて使うもので機動性はなく旧式や鹵獲品が多かった上に弾薬も欠乏していた。
そして何より燃料が不足していた。
もはや満足に作戦行動は難しいドイツ軍、包囲され、一方でソ連軍ではなく西側連合軍という事もあり士気は低く、高い士気から全滅するまで戦う部隊が続出したベルリンとは異なりフランクフルトは指揮官自ら督戦しなければいけないほど士気が低かった。
一方連合軍は包囲する海兵隊だけで5万の兵士と戦車200両。
そのほかは比べ物にならない。
戦意のあるドイツ軍部隊以外が次々脱落した事から自然とフランクフルト包囲網は狭まり、ヒトラー自殺後の5/1には僅かに3万の兵士とフランクフルトを中心とした直径15キロの包囲に閉じ込められた。
戦車は50両にまで減っていた。
(フランクフルト・アン・デア・オーダー防衛部隊)
・戦闘団“ルフト”(歩兵2個師団などの残余)(約8000)
・戦闘団“ヴェンク”(歩兵3個師団と戦車2個師団などの残余)(約1万)
・戦闘団“ツァンゲン”(歩兵4個師団などの残余)(約1万)
陸軍、SS、SD、SA、海軍、空軍、RAD、国民突撃隊、歩兵、工兵、砲を失った砲兵に戦車を失った戦車兵、パイロット候補生、乗る船のない水兵、参謀に輜重兵などなどドイツ軍の最後の雑多な兵力の寄せ集めである。
そしてここから約1週間、ドイツ兵達は悪鬼のように戦った。
1週間にわたる激戦の末、5/7午後7時、フランクフルト・アン・デア・オーダーが降伏した。
そしてその降伏したドイツ軍の中になんと当時のドイツ政府が存在したのであった。
内閣ほぼ全員と首班のデーニッツが捕虜となりドイツ軍は最上級司令部が敵の手に落ちたのである。
デーニッツ以下は降伏後、全ドイツ兵にドイツ時間10日0時をもって戦闘行為を停止して投降するように命令した。
これを以て、約6年続いた第二次世界大戦ヨーロッパ戦線は終結…しなかった。
ごく僅かな第二フェーズ、通称「捕虜戦争」の始まりである。
(捕虜戦争)
捕虜戦争(War of POW)、戦後5/8から6/1までの間に行われた西側諸国とソ連の「捕虜の奪い合い」である。
なぜ捕虜を奪い合ったのか?それはこの3ヶ月前、大連会談で決められた東西連合軍到達線に関係する。
この時決定した到達ラインはヴィスワ川以東、チェコが西側の最到達ラインである。
そしてこのラインはドイツ降伏後20日位内に進駐したラインによって実際に決定される、とされた。
つまり「切り取り次第」である。
なぜこのような曖昧な規定となったかは、ソ連の当時の進出ラインが北は東プロシア国境~ルブリン~ドゥクラ峠~ホルトバージでしかなかったからである。
史実と異なり、ソ連軍はドイツを攻めあぐねていた。
なぜならレンドリース量が史実よりも少なく、さらに軍需物資の一部を継続的に中国に提供していた関係で物資不足だったのだ。
そしてこのどの地点まで進出できたかの実際の証拠と現実的には実効支配地域の正当性を確保するため、東西両陣営は捕虜を奪い合った。
捕虜をある村で米軍が取ればその村は米軍が先に支配した証拠になる。
それを繰り返してポーランド西部とチェコなどの実効支配権を得ようとしたのである。
そのための捕虜確保とポーランド西部、チェコ、そしてハンガリー西部進駐(実は厳密な解釈をすると西部ハンガリー進駐は協定違反だが、別にソ連もしようとしたので問題はない)作戦が「故郷への帰還」であった。
652:新人艦長:2025/04/10(木) 19:32:51 HOST:KD106133118008.au-net.ne.jp
(故郷への帰還作戦)
故郷への帰還作戦ではとにかくドイツ軍を武装解除して捕虜にすることが求められた。
レジスタンスからの捕虜も受け取り、収容所を解放し、難民を保護して、治安を改善する、これを延々繰り返した
沿岸部には米海軍と海兵隊が上陸した。
ゴーテンハーフェンにはオハイオとアイオワ、ダンツィヒにはニュージャージーとミズーリが輸送船を伴い入港、ドイツ海軍と周辺ドイツ軍を武装解除。
5/15にはポーランド国内軍が実効支配するワルシャワに到達。
そこから南下し、クラクフを18日に解放。
チェコ方面では12日にブルノで南方軍集団が降伏した。
さらに南下し、翌日先遣隊がウィーンに入城。
ソ連軍が未だブダペストなのを理由に米英軍はハンガリー国境を超えてバラトン湖まで進駐。ハンガリー軍とドイツ軍を武装解除した。
6/1までに全ドイツ軍は投降、数百万のドイツ兵が捕虜となった。
しかし彼らの大半はすぐに釈放され新たな組織に改変された。
東西冷戦を見越した米国主導のドイツ再武装である。
ドイツ警察予備部隊の創設と西ポーランド、チェコの再編、
アメリカの戦後欧州の始まりである。
ドイツ警察予備部隊
ドイツ警察予備部隊とは1945年9/1から1951年8/31まで存在したドイツの準軍事組織である。
編成は12個師団であり、その大半が武装解除されたドイツ軍の物資を基幹にしていた。
各師団は常設として突撃砲2個大隊90両、戦車1個大隊45両が配備され、第10師団は連隊として150両、第6師団と第1師団は2個戦車連隊配備であった。
そのため連合軍は各地で投降したドイツ軍装備をドイツに戻すと、現地の工場に再整備を命令、不足分は工場の復旧次第再生産を命じた。
1947年までに連合軍はドイツ警察予備部隊に以下の装備を引き渡した。
(突撃砲・駆逐戦車定数1180)
Ⅲ号突撃砲:689両
Ⅳ号突撃砲:123両
Ⅳ号駆逐戦車:211両
ヘッツァー:389両
ヤークトパンター:96両
ヤークトティーガー:37両
(合計1545両)
(戦車:定数900)
Ⅳ号戦車:457両
パンター:234両
ティーガーⅠ/Ⅱ:89両
(合計780両、不足分は突撃砲及びシャーマンで代替)
火砲:348門
高射砲:478門
小銃:15万578丁
拳銃:20万1190丁
機関銃:10万5888丁
弾薬:30万トン
その他物資:50万トン
機材:60万トン
車両:5万3250台
装甲車:1万65台
ドイツ警察予備部隊はドイツ国旗の3色を識別マークとして使用し、連合軍の補助部隊として行動した。
兵士達は指揮官は大半が元ドイツ軍捕虜であり、総司令官もヴァルター・モーデル元帥であった。
中には祖国への引き渡しを免れる代わりに部隊単位で組み込まれた各国義勇兵団もいた。
空軍海軍部隊は認められず、陸軍部隊のみが存在した。
主な任務は治安維持と有事のドイツ防衛である。
1950年、ドイツの国際復帰が認められると同時期、ベトナムに中国が侵攻、世界的に東西冷戦が高まりつつあった。
ドイツ警察予備部隊は翌年ドイツ連邦軍に改組されその歴史を終えた。
653:新人艦長:2025/04/10(木) 19:33:25 HOST:KD106133118008.au-net.ne.jp
強制収容所の解放
「1945年の4月まで我々はなぜ欧州まで来て、恨みも何もないドイツ兵たちと戦わないといけないのかとずっと疑問を感じていた。しかし、ヘウムノで見たあの光景を初めて見た瞬間、なぜドイツ兵と戦わないといけないのかと一度でも思ったことを恥じた。」
ポーランドへの連合軍上陸後の特筆するべき出来事は強制収容所の解放である。
1943年時点で米政府はドイツはユダヤ人などを大量に虐殺していると公表していた。
しかしその存在に関して、多くの国は疑問を持っていた。
しかし1945年4月10日、ポーランドに上陸した連合軍部隊の一部である日本海軍陸戦隊及び海兵隊部隊がシュトゥットホーフ強制収容所を、15日にはヘウムノ絶滅収容所を解放。
さらに30日にはアウシュビッツを解放した。
そしてそこで見つけたのは夥しい数の死体であった。
連合軍の進出が急激であったため、証拠隠滅が全くできず看守らは逃亡、ユダヤ人はそのまま放置されていた。
「初めは捕虜収容所だと思いました。
しかし中に入ってみるといたのは骸骨のように痩せ細った男性、女性、そして子供達です。
明らかに捕虜ではない悲惨な人達が不思議そうに見ている瞳は忘れられません。
そしてしばらくして、部下の一人が血相を変えて走ってきました。
『数百人の死体の山がある』そんなことを言うのですから最初はなんの冗談だと返しましたが、本当だというので行ってみました。
するとそこには本当に3メートルほどの死体の山、あるいは大穴が埋まるほどの死体の山があちこちにありました。
嗅いだことがないほど強烈な死臭が漂い、半分骨が出ている死体がそこら中に転がっていました。
数年間、戦場にいた我々ですら誰もそこから先に進もうと思いませんでした。
もしかしたらこの地面の中にはあのような死体の山があるのではないかと思い、皆足がすくんだのです。」
上海以来戦い続けた日本海軍の将校ですら今まで見た中で最も悲惨な光景だと述べるほど悲惨な光景は全世界にニュース映画と写真で報道された。
ヘウムノで発見された死体だけで2万以上、死体から回収された金歯に髪、衣服に私物、看守が巻き上げた金品などの山が放置されていた。
「収容所の中を探索してある部屋を開けるとそこには1メートルほどの金色の何かの山がありました。
初めは砂金か何かだと思い、一つを手に取るとそれは金歯でした。
それを見て、私と隣にいた軍曹は震え上がりました。ここにある金歯の山は殺したユダヤ人から取ったもので、この山ができるほどの人が殺されたのだということを」
死にかけのユダヤ人を助けるために連合軍は急遽医療物資や人員を派遣したものの、それでも数千人がさらに命を落とした。
「忘れられないのはあるユダヤ人の少女です。
痩せ細り、物心ついた頃からゲットーの中で暮らしていた彼女は私が持っていたチョコをねだりました。
チョコを渡し頬張ると、生まれて初めてチョコを食べたと言いました。
私はこれからは好きなだけ食べれるようになるよといい、点滴を打ちました。
しかし翌朝には彼女は亡くなっていました。
最後に握っていたのは私があげたチョコレートの包み紙でした。
私は彼女の家族を探しましたが見つかりませんでした。
後で知りましたが、彼女の家族は当時既に皆殺されていたのです。
今でもチョコを見ると彼女のことを思い出します。」
「たくさんのユダヤ人が死にかけていました。
医療者ではない我々水兵すらも収容所のあばら屋から多少は衛生的なテントに運んで、粥を作って与える仕事をしなければならないほどでした。
そして多くの亡くなったユダヤ人は最後に『テントの外で空を見たい』と願っていました。
せめて最後に青い空を見て死にたいというのです。
我々は可能な限り願いを叶えました。
元は私よりもずっと大柄な2メートル近いあるはずの大男だった人ですら私が抱えて運べるほどに軽くなっていました。
空を見て満足した人の顔は忘れられません。
私たちはあの場では無力でした。
ただ手を合わせて、冥福を祈るだけでした。」
- ある元水兵の証言。戦後彼は仏門に入り収容所の犠牲者の冥福を祈っていた。
654:新人艦長:2025/04/10(木) 19:35:27 HOST:KD106133118008.au-net.ne.jp
以上です。
1945年4月から6月のあいだの2ヶ月ちょっとの話と余談話
ドイツ兵はこっちの方がだいぶマシな経過をたどります
そしてモンタナ級の初陣はドイツ兵の武装解除
最終更新:2025年06月13日 22:05