674:新人艦長:2025/04/10(木) 23:03:19 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
収容所解放後の別の証言
「我々が入ってきて扉を解き放った時、ユダヤ人たちは皆ぽかんとした顔をしていました。
そしてそれが自由になったことだと理解して、1人の男が恐る恐る出てきました。
彼は外の世界に出ると跪き、泣いて神に感謝していました。」
「生まれた時にはユダヤ人として差別され、物心つく頃には街区に閉じ込められ、大きくなると親を殺されて収容所で明日もしれぬ中で過ごしていた沢山の子供達がいて、その子達は自由になると我々の車や戦車や大砲の周りで自由に遊んでいました。
差別されない自由というものを存分に味わっていました。
その姿に、私は人間の強さを見ました。」
「たくさんの死にかけた収容者を助け出している時、一人の痩せ細った男性がやってきました。
彼はカトリックの若い修道士で、師と共に捕まり、収容されていました。
彼は私たちが日本から来たことに、師が日本でかつて布教していて、師のように日本に布教に行きたいと願っていたと言い、私たちのことを助けたいと言いました。
彼は収容所で出会った他の司祭や修道士など僧侶と共に私達を助けてくれた。
彼は自分たちも死にかけているのになお死に瀕している人々に尽くしていました。
私達は彼らのためにバラックの一つを小さな教会にしました。」
「数ヶ月経ち、我々が収容所を去ることになった時のことです。
私達が助けたユダヤ人たちの中でまだ残っていた人々を率いていたユダヤ教の老僧が私に小さな指輪をくださいました。
それはあるユダヤ人が隠し持っていた指輪でした。
彼は全財産であるそれを老僧に託し、老僧はそれを助けてくれた恩に報いるものとしてくださいました。」
「ある女性を治療していたときのことです。
女性は感染症に冒されて余命幾許もないとわかっていました。
そんな中で突然『ママ!ママ!』という声が聞こえました。
それは二十代の彼女の息子でした。
収容所の地獄を生き抜いた二人が再会したのです。
私達は最後に親子で過ごす二人きりの時間を与えました。
数刻後、息子さんが出てきて私の手を握り締めました。
私は何も言えず、ただ抱きしめました。
言葉も分かりませんでしたが、それで十分でした。
最後に母の遺体を背負い、一礼して出て行きました。」
「恐怖の次に覚えたのは怒りでした。
人類はここまで残酷になれるのか、こんな事をする連中を生かしておくべきか、こんな連中を同じ人として生かしておくべきか、獣のように、いや、獣以下の殺し方をしないといけないと怒りに打ち震えました。
すると、最上級司令部の太田少将が絶対命令として看守と所員を全員生きて捕まえろと命令したとのことでした。
なぜ生きてと上官に聞いたところ、『絶対に生きて捕まえて、全員を数万数十万人を殺した犯罪者として死刑にするためだ』と答えました。
我々は地元のポーランド人たちにも手伝ってもらい、数ヶ月かけて数百人の看守と所員、経理に至るまで全員を捕まえました。
ある看守は『自分は何もしてない!命令に従っただけだ!誰も殺してない!』と喚きながらトラックに放り込まれ、ある所員は『俺はただの経理だ!何もしてない!』と叫びながら連行され、ある親衛隊員は何も答えず私達の顔をじっと見ながら連れて行かれました。
彼らは殆どが数年以内に処刑されたそうです。」
最終更新:2025年06月13日 22:07