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遣欧艦隊
派遣まで
1941年10月、中立パトロールを実施していた米駆逐艦ルーベン・ジェームズがドイツ潜水艦に撃沈される「ルーベン・ジェームズ事件」が発生した。
それに先立つ同年8月武漢周辺で反欧米人暴動が発生した。武漢反欧米暴動事件である。
これを受けて米海軍は砲艦ウェーク、ツツイラ、パナイを派遣、さらにレイテを南京まで進出させた。
8月21日、武漢から欧米人を退避させる輸送船を上海から護衛中の隊を中国軍が空襲と砲撃を行い、砲艦パナイが撃沈、ウェークが大破するパナイ号事件が発生した。
これにより日本海軍の新鋭砲艦橋立、安宅、伏見、隅田、レディバード、モスなどが急遽増派されて武漢救援に向かった。
しかし、帰路でさらにレディバードが撃沈される。
砲撃でさらには安宅が大破擱座、橋立が中破して、即席多国籍艦隊を指揮していた嶋田大将が瀕死の重傷を負ってしまった。
レイテ座乗の次席指揮官のトーマス・ハート提督の指揮で艦隊は南京で欧米居留民をさらに収容して上海に退避した。
この事件で死者250名余りを出し、日本海軍は指揮官などを失うなど大きな損害を出した。
日本ではさらに別の事件が少し前に起きていた。
1940年7月、リバプールから日本に戻っていた貨客船白山丸がスペイン沖でUボートに撃沈された。
さらに翌4月、ボンベイ航路に供されていた貨客船佐渡丸がインド洋でドイツの仮装巡洋艦アトランティスに拿捕された。
さらに39年から大西洋とインド洋で触雷して沈没した照国丸含む日本商船9隻が攻撃を受けて2隻が撃沈、1隻がさらに拿捕されていた。
これら事件は日米に急激な軍事的な緊張をもたらした。
佐渡丸はドイツに抑留され、日米は日米安全保障条約の発動を検討。
1941年10月、コーデル・ハルを代表にドイツ政府に「日米商船への一切の軍事行動の停止と安全な運航権の保障、現時点までに負った日米商船全ての損害の補償や拿捕艦艇と捕虜の引き渡しなど」を要求したハルノートを提出した。
ドイツはこれらを拒絶したことから米政府は開戦を決意。
1941年12月8日、ブレストを航空攻撃し第二次世界大戦に参戦した。
そして同時に日本海軍は欧州への艦隊派遣を表明して参戦した。
日本海軍が欧州派遣に動いたのはまず中国情勢が悪化しても海軍に出番はないという理由であった。
当時中国情勢は悪化していたとはいえ戦争になる程とは思われていなかった。
次に燃料や装備を
アメリカ持ちにしてある程度負担が相殺できる点。
最後に日米共に独潜水艦に脅威を覚えて護衛艦艇を欲していたからである。
日本海軍は既存艦艇群からまず旧式駆逐艦を中心とした護衛艦隊とやや旧式の主力艦で編成した第一遣欧艦隊、空母機動艦隊の第二遣欧艦隊を編成した。
1942年2月、中国の奇襲攻撃が始まる中で第一陣の戦艦陸奥を旗艦とした艦隊が出航した。
続けて5月に第二艦隊が出航。
その間に護衛艦隊の各艦艇は出航してまずケープタウンで全艦隊が合流。
7月に活動拠点となるジブラルタルに入港した。
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戦歴
護衛艦隊以外の主力艦隊の初陣は北アフリカ沿岸部の対地攻撃支援であった。
北アフリカ戦線の制海権を完全に獲得する支援をして北アフリカ戦線の勝利に貢献。
続けて1943年3月のハスキー作戦、同年5月12日アヴァランチ作戦に参加。
アヴァランチ作戦で第一艦隊はイタリア海軍主力と交戦した。
ティレニア海海戦である。
ラ・スペチアにいたイタリア海軍のヴィットリオ・ヴェネト級3隻、カイオ・ドゥイリオ級2隻とジュリオ・チェーザレなどはサレルノへの連合軍艦隊上陸の報を受けて全燃料を積載、迎撃に出撃した。
日本海軍第一遣欧艦隊が最寄りであったため、連合軍艦隊は日本艦隊に迎撃に向かわせた。
5月14日から17日の3日間に渡り激しい戦闘が行われ、イタリア海軍は戦艦ローマとカイオ・ドゥイリオとジュリオ・チェーザレを喪失。
その他多数の艦艇を喪失し、残存艦艇はイタリアの港湾に逃亡した。
日本側は駆逐艦3隻、軽巡神通、戦艦陸奥が撃沈された。
イタリア海軍の撃退という形で勝利を収めた日本海軍だったが貴重な陸奥を失うなど大きな損害を受けた。
ティレニア海海戦後、イタリアは降伏した。
その際にイタリア領だったエーゲ海諸島を巡り緊急で戦力を派遣する必要が出た。
そこでチュニスに待機していた機動部隊である第二艦隊と海軍陸戦隊が出撃した。
エーゲ海諸島を巡る戦いで日本軍は勝利を収めた。
その後第一艦隊第二艦隊は南フランス上陸作戦の主力を務め、大戦終結までイタリア沿岸で活動した。
一部はアドリア海奥地まで進出し、ユーゴスラビアやアドリア海沿岸を攻撃した。
1945年4月、旗艦の戦艦伊勢はジェノヴァに入港した。
そしてミラノから日本海軍陸戦隊に連行されたムッソリーニらRSIの高官を艦内に拘禁、イギリスへと移送する大役を果たした。
第二艦隊は終結時にはヴェネチアに入港して武装解除を実施。
第一艦隊はジェノヴァに在伯していた。
喪失は駆逐艦6、戦艦1、軽巡3。
護衛艦隊は日本の対戦戦闘の未熟さから損害が多数出たものの戦い続けた。
アメリカ側の装備供与や戦訓蓄積、訓練強化で状況は改善した。
終戦までに艦隊全体でUボートを17隻撃沈。
損害は駆逐艦8隻、海防艦17隻、特設艦艇7隻喪失。
そのほかの特筆すべき損害は阿波丸と鎌倉丸喪失である。
2隻は徴用輸送船として運行されていたがUボートに撃沈されて阿波丸で1340名、鎌倉丸で1099名が戦死した。
歴代指揮官
人事は基本的に海外経験の有無が中心に選定されていた。
外国軍との連携が中心となるため多少適正外でも外国経験者が優先して選抜された。
総司令官
古賀峯一(41~43)
在仏武官経験などがあったため任じられる。
ティレニア海海戦で重傷を負い退任。
治療中のジブラルタルで死去。
遺体はジブラルタルの軍人墓地に埋葬。
死後元帥昇進。
宇垣纏(43~45)
ドイツ武官経験があったため派遣。
ティレニア海海戦時、参謀長であったため指揮を代行。
そのまま指揮官に就任。
第一艦隊司令長官
宇垣纏(41~42)
上記
42年から43年は参謀長
豊田副武(43)
宇垣の参謀長転任に伴い派遣。
駐英経験を買われて任官。
ティレニア海海戦で右腕を失う負傷しながらも第一艦隊を指揮。
負傷治療と前線勤務の困難さから戦闘後小沢治三郎に職を譲り地上勤務へ。
快癒後の44年10月に地中海方面連合軍海軍総司令官となる。
戦後軍を退役、1950年まで駐英大使。
小沢治三郎(43~44)
豊田副武の負傷により急遽就任。
海外経験がないというハンデを自覚して細かな調整は部下に任せていた。
44年に連合艦隊司令長官に就任した関係で伊藤整一に交代して退任。
伊藤整一(44~45)
小沢治三郎就任に伴い、副司令官として連合国軍総司令部の日本代表から野村直邦と交代する形で移動。
小沢治三郎の連合艦隊司令長官就任に伴い昇格。
終戦時の第一艦隊司令長官。
伊勢艦内でムッソリーニらを尋問した記録、通称「伊勢調書」を作成している。
RSI幹部に関する貴重な記録として現在でも評価。
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第二艦隊司令長官
山口多聞(41~45)
第一次世界大戦での欧州経験があるため派遣
時に米空母も指揮下に置き航空作戦を指揮。
猛訓練から人殺し多聞丸やキラーアドミラルなどと罵られた。
一貫して空母部隊を指揮し、終戦後連合艦隊司令長官に就任する。
護衛艦隊司令長官
今まで傍流だったがこの戦争ではむしろ外国政府との政治的軍事的な協力の中心となるため特に優秀な人材が多く選抜された。
しかし「昨日まで長門連合艦隊勤務だったが今日から駆逐艦乗り」という落差に落胆する将校も多かった。
しかし彼らはすぐに大西洋の死闘を経験し、むしろ「我々は誰よりも死に近い最激戦地にいる」と認識するようになった。
「戦艦乗りは港で芸者と遊んでいるが、俺たちは今日も荒波を越えて敵と戦う。これこそ武人の誉也」などといった価値観が生まれ、戦艦乗りを公然と引きこもりや怠け者と批判するようになった。
そのため護衛艦隊の水兵と戦艦乗りが鉢合わせて喧嘩になることも多かった。
野村直邦(41~43)
ドイツ通だったことからの選出。
決して海上護衛に精通した人物ではなく、損害が嵩む一方であったがそれでも艦隊の士気の維持や装備や訓練の改良を続けた点は井上らからも評価。
1943年に更迭されるが、連合軍司令部の日本海軍代表として欧州駐在を続ける。
井上成美(43~45)
海外通であったため派遣当初から所属。
第一艦隊参謀長(41~42)→第6航空艦隊司令官(42~43)から護衛艦隊立て直しのために43年に転任。
米英から最新のシーレーン防御に関する手解きを受け戦後はシーレーン防御の専門家としてやがて海軍のトップになる。
潜水艦隊司令長官
小松輝久(41~43)
潜水艦畑かつ英留学経験を買われて選出。
出番が少ないと思われていたが、日本潜水艦の大きめの積載量から連合軍は特殊作戦に多数活用したため忙しかった。
1943年に駐英武官に転任。
高木武雄(43~45)
潜水艦部隊の強化を求められたため選出。
終戦まで特殊作戦などを指揮。
特殊作戦での経験から建造中の伊400型に工作員運用スペースの確保や甲標的をベースとした特殊作戦用小型潜水艇の開発などを提言。
第十四航空艦隊司令長官
高須四郎(41~42)
イギリス駐在経験から選出。
1942年に感染症に感染したため退任。
治療中の英国で病死。
井上成美(42~43)
上述。
この頃より陸攻部隊が増強され独本土空襲にも参加するようになる。
草鹿任一(43~45)
井上成美転任に伴い就任。
ルメイらと共に独本土空襲を指揮。
大戦終結時の編成
(総司令官:宇垣纏大将)
第一遣欧艦隊(伊藤整一中将)
第二戦隊:伊勢(旗艦)、日向、扶桑、山城
第六戦隊:古鷹、加古、青葉、衣笠
第二水雷戦隊
旗艦:那珂
第四駆逐隊(元は第十戦隊)
第七駆逐隊(元は第十戦隊)
第八駆逐隊
第十六駆逐隊
第十七駆逐隊(元は第十戦隊)
第四十三駆逐隊(供与フレッチャー級4隻で編成)
第七十三駆逐隊(供与フレッチャー級4隻で編成)
第八十三駆逐隊(供与フレッチャー級4隻で編成)
その他補給艦など
第二遣欧艦隊(山口多聞中将)
第一航空戦隊:赤城(旗艦)、加賀
第二航空戦隊:蒼龍、飛龍
第三戦隊:金剛、比叡、榛名、霧島
第八戦隊:利根、筑摩
第十戦隊
旗艦:長良
第十駆逐隊
第五十三駆逐隊(供与フレッチャー級4隻で編成)
第六十三駆逐隊(供与フレッチャー級4隻で編成)
第四十一駆逐隊:新月、若月、霜月、冬月(1944年以降)(以前は第四駆逐隊)
第五十一駆逐隊:春月、花月、宵月、夏月(1944年以降)(以前は第十七駆逐隊)
第六十一駆逐隊:秋月、照月、涼月、初月(1944年以降)(以前は第七駆逐隊)
その他補給艦など
護衛艦隊(井上成美中将)
護衛艦隊司令部戦隊:鳥海(旗艦)、摩耶
以下海防艦28隻7個戦隊、駆逐艦20隻5個戦隊、特設艦艇20隻
海防艦8、駆逐艦4、特設艦艇2などで1護衛群を編成
3護衛群及び1予備部隊
潜水艦隊(高木武雄中将)
旗艦:大鯨
以下潜水艦15隻
838:新人艦長:2025/04/13(日) 22:03:03 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
海軍陸戦隊
海軍陸戦隊の特徴は陸軍以上にアメリカからのレンドリース装備に依存していた点である。
主な装備として
軍服:第三種軍装
ヘルメット:一式鉄帽(米製M1ヘルメット)
ベルト類:米製のピストルベルト及びサスペンダー
装備品:米製の水筒などの装備品と日本製もしくは米製の弾薬ポーチ
小銃:三八式小銃・九九式小銃・一式騎銃(米製M1カービン)
短機関銃:一式機関短銃(米製M1A1トンプソン)・一式二号機関短銃(米製M3グリースガン)
分隊支援火器:一式機関銃(米製M1918BAR)
重機関銃:一式重機関銃(米製M1919機関銃)・一式機関砲(米製M2重機関銃)
拳銃:十四年式拳銃などもしくは一式自動拳銃(米製M1911)
靴:レギンス、米製軍靴
防寒装備:米製オーバーコートもしくはマッキノーコート
戦車:一式二号中戦車(米製M4シャーマン)
という装備が中心であった。
これは海軍陸戦隊は余裕が少なく、米製装備をそのまま供与された場合が多かったことに由来する。
そのため、アメリカサイズの大柄な装備をそのまま預けられた場合も多かった。
第1海軍陸戦軍団(大川内伝七中将)(イタリア戦線)
初陣は1943年夏のエーゲ海諸島攻防戦。
イタリア降伏により急遽、エーゲ海諸島奪還の必要性に迫られた連合軍が当時チュニスで待機していた海軍陸戦隊と遣欧第二艦隊を投入。
期待されていなかったがイタリア軍と共に即席の連合部隊でエーゲ海諸島を奪還。
7月には最後に残ったクレタ島のミュラー中将が降伏。
その後、再編成のちに9月にアンツィオ上陸作戦に投入され、北方へ突進する米軍を側面援護した。
その後も地中海沿岸沿いに北進し、ミラノに到達。
ミラノ郊外でムッソリーニを捕らえる戦果を挙げる。
ムッソリーニは日本軍の手により速やかに戦艦伊勢へ移送される。
終戦時はミラノ。
第2海軍陸戦軍団(鮫島具重中将)(ノルウェー及びポーランド)
初陣はノルウェー上陸作戦。
1944年春に海兵隊と共にノルウェーを制圧、続けてデンマークを制圧。
制圧後一旦、英陸軍と交代。
交代、再編成後、ポンメルン地方に上陸してポーランド西部を南下。
強制収容所などを解放。
終戦時ポズナン。
第十四航空艦隊
遣欧艦隊の全航空部隊を統括。
二十以上の航空隊で編成。
- 第六〇一海軍航空隊(母艦運用)
- 第七〇一海軍航空隊(陸攻)
- 第七〇五海軍航空隊(陸攻)
- 第九〇一海軍航空隊(船団護衛)
など
840:新人艦長:2025/04/13(日) 22:04:58 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
最後重複しましたが以上です。
嶋田さんこの世界ではたまたま遣支艦隊司令長官だったせいで死にかけます
一応生きてますがほとんど軍人として死にます
最終更新:2025年06月13日 22:10